タイトルのない絵本
ふわふわと宙に浮かぶような感覚。
身体がとても軽い。
風や気温も何も感じない。
でも、何故か懐かしい気分になる。
ここはどこだろうと、そっと瞼を開けた。
見上げていた青い空。
白い雲が風にあおられ、ゆっくりと流れていく。
上半身を起こし、辺りを見回してみた。
柔らかい緑の草の上に、私の体はあった。
この場所に、私は覚えがある。
ここって...
立派な邸が建っている。
私は以前、レイルとこの場所にやって来た記憶があった。
あの日は、とても快適なツーリング日和だった。
あのやんちゃなレイルの運転だとは思えない穏やかなバイクの走り。
あの時の事は、今だって覚えている。
あの時と違うのは、訪れたお屋敷の庭がしっかりと手入れされており、綺麗な花が咲いている事だ。
とても生活感が溢れている。
花壇に植えられている植物も、不思議と活き活きしているように見えた。
手作りの小さなブランコが、風で小さく揺れている。
ふと、自分の手元に目をやった。
そこに落ちてあった、一冊の本。
不思議に思い、それに手を伸ばす。
いつの間にこんなものがあったのだろう。
少し考えながら、その本を眺めてみる。
表紙が真っ白だった。
どちらが表でどちらが裏なのかも分からない。
薄いとも言えず、厚いとも言えない本。
...いや、これは絵本だ。
表紙にタイトルは無く、作者名や出版社の名前すらない真っ白な絵本。
まるで、この絵本の物語が全て抜き取られてしまったかのようだ。
とても不思議な絵本だった。
これに触れていると、なんだか悲しい気持ちが込み上げてくる。
持っていてはいけない。
今すぐ捨ててしまわなければと、私の気持ちを急かしてくる。
可哀想...
そう感じてしまうのは、絵本が大好きだったからだ。
誰にも気付かれず、忘れ去られてしまったかのようにここに落ちていた。
もしくは、この絵本自体がそれを望んだのかもしれない。
真っ白な絵本の表紙に、そっと指を掛ける。
ヒライチャダメ
頭の中で、朧げに浮かぶ言葉。
どうして駄目なの?
私自身がそう言っているのに、添えた指が動かない。
ケサナクチャ
ニゲナクチャ
ステナクチャ
そんな言葉が、頭の中でグルグルと回っている。
真っ白な絵本が、私に訴えてくる。
タイトルさえつけて貰えなかったこの絵本が、読まれる事を拒んでいる。
...いや、違う。
この絵本から伝わってくるものは、もっと別のもののような気がする。
タイトルを...捨てたの?
可哀想な絵本から伝わってくる孤独感。
何故か、そんな気持ちが伝わってくる。
私は思い切って、その重たい表紙を開いた。
丈夫な表紙とは違い、薄い紙で何層にもページが重なっている。
そして、私は目を丸くした。
開いた1ページ目が、絵も文字もない真っ白な内容だったからだ。
表紙だけではなく、中身の内容さえも完全な白紙だった。
ふわりと風が吹く。
その瞬間、私の目の前を何かが横切っていく影があった。
持っていた絵本から視線を上げると、何人かの子供達が邸の前に集まっている光景が見えた。
どの子も、壊れた玩具を抱えている。
邸の扉をノックし、ソワソワとしながら誰かを待っているようだった。
子供「ライディングさん!」
しばらくすると、男性が中から出てきた。
長い髪を後ろで束ね、眼鏡を掛けた男性。
私は彼を知っている。
知っていると言っても、夢と写真だけでだ。
その姿に、私は酷く驚いた。
レオナード「また壊しちゃったのか?駄目だぞ、ものは大事にしないと」
そう言って、彼は玩具に手をかざす。
次に手を離した時には、玩具は綺麗に直っていた。
まるで手品のようだった。
順番に、他の子供達の玩具も同じように手際良く直していく。
そんなレオナードに、屋敷から出て来た女性が優しく声を掛けた。
??「また直してあげているの?あなたは本当に優しい人ね」
綺麗な女性だった。
彼女も見た事がある。
屋敷の中で見た写真に写っていた女性。
レオナード「マリア、もう体の調子は良いのか?」
彼は心配そうに声を掛ける。
マリアと呼ばれた女性は、平気そうに笑っていた。
マリア「少しくらい平気よ!たまには日に当たらないと、逆に体を壊しちゃうわ」
2人は親しげに話している。
この2人は夫婦。
実際に見ていれば、分かる事だった。
男爵が彼女の体を支えながら、幸せそうに微笑んでいる。
子供達が、お礼を言いながら去っていく。
残された2人は手を取り合いながら、邸の中へと戻って行った。
そして、しばらくするとまた扉が開く。
そこから出て来たのは、1人の幼い少女だった。
少女「行って来まーす!」
手には、バスケットをぶら下げている。
お酒やパンやブドウが入ったそれを揺らしながら、元気よく駆けて行く。
彼女を見て、私は思い出す。
彼の屋敷で見た写真の中に、男爵と顔の見えない少女が写っていた写真。
もしかすると、この子だったのかもしれない。
そんな事を考えながら、私は無意識に絵本のページをめくった。
すると、見ていた景色がガラリと変わる。
な、なに、これ?
さっきまで居た場所から、一瞬にして移動してしまっている。
山へと続く緩やかな坂道。
ここもまた、なんとなく見覚えのある場所だった。
訳も分からず、目を白黒とさせた。
一体どうなっているんだろう。
どうして、私はここにいるんだろう。
そんな気持ちとは裏腹に、目の前に広がる映像はどんどん進んでいく。
少女「また出て来たの?」
私の目の前には、さっきの少女がいた。
呆れたように、彼女は溜息を吐いている。
吐かれた相手は、とても不機嫌そうだった。
??「あったり前だろが!お前は男爵んとこのガキだからな!拉致って身代金をたんまり頂く!」
赤い獣耳がピクピクと動いている。
彼の姿に、私は目を疑った。
ロイゼ...?!
燃えるような赤い髪に、それとは正反対の冷たい青い瞳。
声なんかは完全に彼だった。
ただ、私の知っているロイゼよりとても若い。
けれど、この悪そうな顔と口調は確実にロイゼだと言う自信がある。
それに、やはり手には猟銃を持っていた。
少女「はぁ....しょうがないな」
少女は、それはそれはとても面倒くさそうに狼を手招く。
ロイゼ「は?なんだ?」
少女に近付くロイゼ。
すると、少女はロイゼの額に軽く人差し指の先を当てた。
ロイゼ「.......」
2人の間に沈黙が流れる。
一体何をしているのだろうと見ていると、ロイゼが口を開いた。
ロイゼ「...あれ?俺様はここで何してたんだ?」
少女の細い指が、彼から離れていく。
少女「あなたはさっきまで、大金を持った男を追いかけていたわ!」
突然、少女が意味の分からない事を言い出した。
その言葉に、彼はキョトンとした表情を浮かべている。
ロイゼ「...は?」
少女「早く行かないと、逃げれるわよ!?」
少女に背中を押され、ロイゼは首を傾げながら渋々走って行く。
狼の背中を見送った少女は、フゥっと一息吐いていた。
少女「危ない危ない...さて、お婆ちゃんの所へ急がなきゃ」
少女は満足気に歩き出す。
一体何が起きたのか分からない。
理解出来ないまま、ページをめくっていく。
すると魔法のように、また目の前の景色が変わった。
また、あの屋敷の前にいる。
庭では、マリアと言う女性と少女が花を摘んでいた。
少女「見て!たくさん集めた!」
手の中の花束を自慢気に見せる少女は、とても愛らしい笑顔を見せる。
マリアは、そんな少女の頭を愛でるように撫ぜた。
マリア「凄いわ、エマ!きっと、お父さんも喜んでくれるわよ?」
少女はエマと言う名前らしい。
お父さんとは、男爵の事。
彼女は、このマリアとレオナードの子供なんだと理解した。
エマ「...私のなんかじゃ喜ばない。お父さんはお母さんが大好きだから、お母さんのじゃないと喜ばない」
マリア「そんな事ないわ。あなたはお母さんとお父さんの宝よ。喜ばない訳がない」
目を伏せながら寂しそうに言ったエマに、マリアは笑顔を向ける。
けれど、少女の表情は曇ったままだ。
エマ「そんな事ない。見ていれば分かるもの」
マリア「エマ...」
エマ「そうだ!お婆ちゃんが、お母さんの事を心配していたわ。病気の事とか」
話を逸らすように、エマが話題を変える。
どうやら、マリアは病を抱えているようだ。
マリア「...そう。じゃぁ今度、家に招待して元気な所を見せなくちゃね。安心させてあげないと」
とても明るく、そして楽しそうに。
2人は暖かい陽だまりに包まれていた。
彼女はなんの病気なのだろうと考えながら、私は躊躇なくページをめくった。
再び、景色が瞬く間に変わっていく。
緑が生い茂る森の中。
木陰に座り込み、エマが本を読んでいた。
その隣には、美味しそうなサンドウィッチが詰められたお弁当がある。
??「.....じゅるり」
エマがもたれ掛かっていた木の上に少年がいた。
木の上で体を丸くして、よだれを垂らしている。
その視線の先は、彼女のサンドウィッチだ。
エマ「!」
それに気が付いたのか、エマは咄嗟に立ち上がった。
少年は木の上で、長い尻尾をパタパタと振っている。
その姿は、まるで猫だ。
...レ、レイル?
黒と白の毛並み。
もちろん猫耳だってある。
この時から、両目の瞳は違う色だったようだ。
彼は、紛れもなく少年レイルだ。
エマ「......っ!!!」
レイル「.......っ!!!」
彼女はレイルをかなり警戒しているようだ。
レイルも、エマを気にしながら彼女のサンドウィッチを狙っている。
2人の間に、緊迫した空気が漂っていた。
エマ「....野良猫に餌をあげちゃ駄目だって、お父さんが言ってた!」
レイル「!」
レイルの体がびくりと跳ねる。
そして、その黄色と青色の目で少女を睨んだ。
レイル「誰が野良猫だ!...いや、野良猫だな」
と、自分で自分に訂正している。
レイル「少しくらい良いだろ!?猫を餓死させるつもりか!?」
やはりレイルだ。
知らない人間の食べ物に集るなんて、なんてみっともない奴なんだと呆れるしかない。
エマ「...そうね。猫は猫らしく、可愛くお願い出来たら考えても良いわ」
パタンっと本を閉じ、鼻を鳴らしながらエマが言った。
それに対し、レイルは驚いたように目を見開く。
レイル「か、可愛くって...!?俺は男だぞ!!!そんな事出来るかよ!!!」
エマ「じゃぁ、諦めなさい」
冷たくそう言って、エマはその場に座り込んで、また本を読み始める。
サンドウィッチを手にし、それを口に入れた。
レイル「〜〜〜っ!!!」
とても羨ましそうに、そして悔しそうにレイルは彼女を見ている。
最初はいきり立っていたが、次第にその目が悲しみの色に染まっていく。
しょぼんと肩を落とし、耳をへたらせた。
レイル「なんだよ...こんなにお腹が空いてるのに。このままだと、もう死んじゃいそうだぜ...」
わざとなのか、それとも無意識なのか。
黄色と青色の瞳を潤ませながら、彼女を見つめる。
とてつもなく甘い猫撫で声で、彼はブツブツと呟いた。
レイル「俺はこのまま死んじゃうんだ。他人の優しさを知らないまま、冷たい土の上で餓死する...誰にも拾われずに、冷たい視線を向けられて。冷たい雨に打たれて、冷たい風にさらされて...あぁ、俺って超不幸者だ...」
エマ「あげるわよ!あげるから今すぐやめて!」
開いたばかりの本を閉じ、彼女はサンドウィッチを手に取った。
立ち上がって、木の上にいるレイルに手を伸ばす。
エマ「ほら、降りてきなさいよ」
けれど、レイルは降りようとしない。
困ったような表情を浮かべ、そこで座り込んでいる。
レイル「.......っ」
この間はなんなんだ。
と、しばらく見守っていると、エマが沈黙を破った。
エマ「もしかして、降りられないの?」
レイル「!」
猫はよく高い所に登り、降りられなくなる時がある。
そのまさかだったみたいだ。
レイル「うるせぇ!今からそっち行くから待ってろ!」
そう言って、ジッとしている。
彼は、一体何がしたいのかよく分からない。
エマ「...面倒ね」
そう言って大きく溜息を吐くと、エマはサンドウィッチを持ったまま、器用に木を登り始めた。
高さもそこまでなかった為、降りられなくなってしまった猫の元に辿り着くのは、とても早いものだった。
レイル「やめろ、来るなって!折れたらどうすんだ!!」
エマ「あんたがビビってるからでしょ?」
レイル「ビビってない!」
少年レイルは、耳と尻尾の毛を逆立てる。
エマは全く気にする事なく、レイルにサンドウィッチを差し出した。
エマ「これなら届くでしょ?」
すると、レイルは嬉しそうに白い歯を見せた。
レイルが彼女の手からサンドウィッチを受け取ったその瞬間。
2人の重みで、パキリと木が折れてしまった。
2人は真っ逆さまに地面に落ちる。
とは言っても、高さはそこまでなかったので、怪我は無かったみたいだった。
エマ「いったぁぁ...」
お尻をさすりながら、エマが起き上がる。
レイルは綺麗に受身を取ると、サンドウィッチを口にくわえ、彼女から逃げように駆けていった。
やはり彼は猫だ。
私はレイルに呆れながら、持っていた絵本のページをめくった。
空は赤く染まり、夕方になっていた。
とぼとぼと歩いて行くエマの小さな背中を、レイルが一定の距離を保ちながらついて行く。
エマ「...ついて来ないでよ!」
痺れを切らしたかのように、エマが振り向いて彼に叫んだ。
けれど、猫の少年はポカンとした表情を浮かべるだけ。
レイル「だって、食べ物くれるから」
エマ「あれはしょうがなくよ!」
レイル「じゃぁ、またちょうだい?」
エマ「なんで私がそこまでしなくちゃいけないのよ!」
レイル「お前のサンドウィッチ、すごく美味かった。だから、またちょうだい?」
とてもしつこくねだるレイル。
やはり、猫撫で声と上目遣いを器用に使いこなしている。
この可愛さには勝てない。
エマ「分かったわよ!またあげるから...ついて来ないで」
レイル「やった!約束だからな!」
嬉しそうにレイルは笑った。
白黒銃を取り出し、魔法陣を撃ち出す。
レイル「約束、絶対忘れるなよ!」
それだけ言い残し、彼は姿を消した。
エマは安心したように、また家路を辿り始める。
私は、何を見せられているのだろう。
これは、ひと昔の出来事。
若いロイゼや、少年レイルを見ればそれはすぐに分かる。
この真っ白な絵本のページをめくるたびに、物語が進んでいく。
これに、何の意味があるのだろうか。
だけど、見ていて面白い。
本当に過去の話なのかは別として、私の知らない小さかった頃のレイルやロイゼが出てくるのは、とても興味深かった。
まるで、絵本を読んでいるような感覚。
私は、さらなる次のページへと進んだ。




