おおかみさんのお誘い
朝早くに目が覚めた。
カーテンを少し開いてみれば、眩しい日の光が差し込み、夜が明けたのを知らせてくれる。
現実世界で、学校がある日以外、こんなに早くに起きた試しがない。
足りない何かに気付いたのは、染み付いてしまった癖のようなもののせいだった。
いつもなら、私に寄り添うように丸くなって眠っているコロがいる筈なのに。
それは、こちらの世界にやって来てからも変わらない。
不思議な猫の青年は、いつも甘えてくるように私に擦り寄ってくる。
理解不能な彼の行動。
その悪戯な笑顔も、もう何日も見れていない。
甘えるような優しい声も、乱暴に荒げる声も、楽しそうに笑う声も。
聞かなくなってしまったのはいつからだっただろうか。
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、リュックを背負った。
更に、昨日ロイゼが置いていった猟銃。
これを私に扱えるかは分からないが、とても心強いアイテムになる。
ジャック「本当に行くのか?」
その声に、私の胸がドキリと跳ねた。
既に仕事に行く身支度を済ませたジャックが、壁に寄り掛かりながら立っていた。
胸の前で腕を組み、窓から入る日差しが眩しいのか、目を細めている。
海希「...いろいろありがとう」
本当に感謝している。
彼には二度も助けて貰ったのだから。
ジャック「あそこは危ないんだぞ?まぁ、お前にも訳があるんだろうけどさ...」
ジャックは、前回のようにそれ以上は訊いてこない。
その距離感が、今の私にはとても助かっていた。
この世界の人間は、大事な距離感を平気で土足で踏み荒らしていく奴らばかりで厄介なのだ。
心配そうな眼差しを向ける彼に、私は軽く微笑んでみせた。
海希「危なくなったら逃げるわよ。それに私の心配なんて、あなたらしくないわよ?」
ジャック「....っ!!だから!心配してるんじゃなくて忠告してるんだ!」
彼は、本当に素直じゃない人だ。
捻くれているのではなく、不器用な人。
名前を教えて貰わなくても、話していて分かる。
言い方は冷たいが、優しい人。
真面目過ぎて、不器用なだけだ。
お世話になった彼の家を一緒に出た。
彼に似合わない、メルヘン過ぎるお家。
どうしてここに住んでいるんだろう。
私なら、内覧の時点で別の物件を探す。
静かな森の中を歩いて行く。
木漏れ日を浴びながらの森林浴。
朝からとてもリフレッシュされる。
淀みのない澄んだ空気。
とても清々しくて、大きく深呼吸した。
海希「あなた、お休みってあるの?」
気になって訊いてみる。
ジャックは、少し考えてから答えてくれた。
ジャック「休みか...仕事が早く進めばそれだけ休みが取れるけど」
海希「そう。じゃぁ、休みが取れたらゲートの向こう側まで遊びに来てよ。私の友達を紹介してあげる」
彼は、どうやら草木を操る能力だ。
緑と言えばピーターだ(偏見)。
きっと、話が合いそうな気がする(勝手に思っているだけ)。
ジャック「友達?あんた、友達がいるのか?そいつも、凄く変り者そうだな...」
海希「勘が良いわね。それ、当たっているわよ」
否定はしない。
何しろ、全身緑の男だ。
それに、年齢不詳とまできている。
私の中で、胡散臭い人物第1位を記録中だ。
しばらく歩くと、見覚えのある景色が見えてきた。
ここは、私が歩いて来た道。
鏡の城に続く道が、下った先にずっと伸びている。
ジャック「あんたが倒れていた場所だよ」
彼がここで私を助けてくれた、と言う事になる。
私は気を失っていたので覚えていないが、今私が元気なのは彼のおかげだ。
海希「ビアンカにもよろしく伝えておいて。それじゃぁ...またね」
こんな時、なんて言えば良いのか。
またね、と言う言葉も違う気がする。
さっきも遊びに来てね、と言ったがその時に私がこの世界にいるのか分からない。
ジャック「あぁ。じゃぁ...また」
少し、しおらしくなってしまった。
ジャックの見せた表情が少し寂しげに見えたのは、私との別れる惜しむほど心を開いてくれていたのかもしれない。
一本道を、まっすぐに進む。
このまま歩いて行けば、自然に目的地に着く。
視界に入る城が大きくなるたびに、私の胸は高鳴っていった。
ゴールは目前だ。
体力も回復できている。
あとは進むしかない。
ふと、私は足を止めた。
そして、後ろを振り返る。
そこには、誰もいない景色が広がっていた。
生い茂る木々がそよ風に揺れ、可愛らしい声で小さくさえずる小鳥が、私の頭上を飛んでいく。
気を取り直して、私はまた歩き出した。
けれど、その違和感が消える事はなかった。
私が進んだ分、その気配もくっついてくる。
しばらく歩き、また立ち止まる。
そして、再び振り返った。
海希「ついて来ないでよ!」
なんとなく分かる。
一度宣言されたのだから、警戒心は強くなっていた。
ロイゼ「ちっ!!!」
茂みから出てきた縫いぐるみ。
....じゃなくて、ロイゼ。
赤い尻尾と耳を逆立てながら、私に噛み付くように吠えた。
ロイゼ「元に戻せ!」
またそれか。
その言葉は既に聞き飽きている。
逆に哀れに思えてきて、掛ける言葉も見つからない。
海希「悪いけど、他を当たって」
私はまた歩き出す。
後ろから、彼がつい来ているのが分かった。
とてもしつこい狼だ。
私は冷たい態度を決め込んだ。
ロイゼ「昨日の事は謝るからさ、頼むよ」
私は動物が好きだ。
とくに、小動物は。
だが、馬鹿ではない。
海希「そんなに騙されてあげられるほど、私は優しくない」
見た目の可愛さには騙されない。
頭の中で、丸くなったコロの姿を思い描く。
私は猫派!と、心の中で唱え続けた。
ロイゼ「ちょっとは反省したんぜ?乱暴な事もしたし...今度からはもっと優しくするからさ」
海希「ちょっとじゃなくて、深く反省しなさいよ!!?」
だいたい、優しくするとはなんだ。
何に対して優しくするつもりなんだ。
優しく掻っ攫う....なんて後で言われても困る。
ロイゼ「良いじゃねぇか、こんなに謝ってるんだぜ?キスくらい、減るもんじゃねぇだろ?」
確かに減るものではない。
減っているのは私の気力とお前の好感度だ。
それに、気持ち的な問題なんだ。
こんな悪い奴がキスの相手だなんて...親が泣いてしまうだろう。
ついでに言えば、レイルにバレた時が1番の恐怖だ。
海希「あなた、私の事が好きなの?」
こんなストーカー被害に遭ったのは初めてだ。
しかも、加害者は縫いぐるみ。
彼が可愛らしい性格の持ち主であれば、迷わずこの縫いぐるみを引き取っていた。
彼は、かなりの損をしていると言える。
ロイゼ「てめぇみてぇな馬鹿女に誰が惚れるか。笑えねぇ冗談言ってんじゃねぇよ」
海希「別に笑かそうとしてる訳じゃないわよ!だいたい、よくもそんなにキスがせがめるわね。恥ずかしいと思わないの?」
このキス魔狼め。
見た目もそうだが、こんな狼は見た事がない。
ロイゼ「俺だってしたくねぇよ!だが元に戻る為だからな。お前みたいな奴とだってしなきゃいけねぇんだよ」
海希「その言い方やめて!訴えられたいの!?」
まるで妥協してるとでも言いたげだった。
そんな奴に差し伸べる救いの手はない。
ロイゼ「なぁ、良いだろ?すぐに済ませるからさ」
まるでナンパされている気分になる。
縫いぐるみにナンパされるなんて、なんだか複雑な気分だ。
こんなチャラい狼とは、手早く縁を切った方が良いだろう。
ロイゼ「頼むって!少しで良いから...」
海希「煩い!とにかく、私は猫派なのよ!」
ロイゼ「は!?そんな話してねぇだろ!!?」
彼を見ていると、なんだか犬(彼は狼だが)も好きになってしまいそうだ。
そうなったところで問題はない(レイルはどう思うだろう)のだが、油断をすればまた何をされるか分からない。
ロイゼと言い争いをしている内に、どんどん先へ進んで行く。
1人で歩くより、こうやって誰かがいてくれた方がなんとなく安心は出来た。
降り積もる不安に埋もれなくて済むからだ。
相手は凶暴な狼だが、今ではただの縫いぐるみなので怖くない。
ガサガサっ...
茂みの中から、怪しげな音がする。
警戒心が強かった私は、自然に足を止めた。
木々の隙間から、大きな体を揺らしながらのっそりと歩いて来る。
大きな前足に、犬よりも大きな耳と尻尾。
その姿に、私の体が硬直する。
ガルルルルッ.....!!!!
剥き出した牙の隙間から、低い唸り声を漏らしている。
数匹の獣。
それも、狼だ。
青白い毛並みの正真正銘の狼。
現実世界でも、私がよく見た事のある狼。
海希「.....っ!!!!」
こちらに視線を逸らすことなく、ゆっくりと私を囲んでいく。
ロイゼとは違い、どうやら群れで行動するタイプらしい。
とても狼らしい狼だ。
海希「...あなたの仲間?」
隣にいるロイゼに、恐る恐る訊いてみた。
ロイゼ「言っただろ。俺は一匹狼だ」
海希「なんとか説得できないの?」
と、再度訊いてみる。
しかし、ロイゼは黙ったままだ。
私は、背中に背負っていた猟銃を手にした。
まさに、今がその使い時だ。
本来の使い道である猟銃を、狼達に向ける。
ロイゼ「やめとけ、どうせ当たらねぇよ。それに、お前の腕が吹っ飛ぶぜ」
海希「で、でも....」
確かに、こんなに近い距離だが当てられる自信などない。
いや、撃てる自信がない。
海希「!」
突然飛びかかって来た狼に、思わず猟銃でドカッと殴ってしまった。
鈍い音を立て、相手は地面に叩きつけられる。
のそりと起き上がった相手は、唾液を撒き散らしながら、私を激しく吠え立てる。
私はハッとなった。
海希「わ、わざとじゃないの!」
仲間の狼が、一斉にかかってくる。
なんとか一匹は避ける事が出来たが、後から来たもう一匹に鋭い爪を立てられる。
赤い頭巾が破け、無惨にもその破れた布がヒラリと地面に落ちた。
ロイゼ「やめろ!こいつは俺の獲物だ!」
ロイゼが突っ込んでいくが、簡単に跳ね除けられてしまった。
体の大きさが遥かに違う。
まるで、眼中に入っていないようだった。
海希「ロイゼ!」
私は持っていた猟銃を振り回しながら、相手を威嚇する。
吠えられつつも、なんとか狼達の動きをかわしたり、猟銃で防いだりと、ギリギリの戦闘を繰り広げていた。
ロイゼ「このクソ共がぁ!!!!」
私に飛び掛った狼に、勢い良くタックルを決めるロイゼ。
相手は吹っ飛んだが、地面に着地したロイゼを他の仲間が取り囲んでいた。
大きな狼に逃げ道を阻まれ、赤い縫いぐるみの姿は簡単に埋もれてしまい、私の視界から消える。
海希「ちょっと!!?」
同じ狼でも、ここまで敵意を剥き出しにするのか。
ロイゼ一匹に、何匹もの狼が飛び掛かる。
私は悲鳴を上げた。
それでも、銃を構え手が震える。
自分の臆病さに、嫌気がさした。
震える手を押さえつけながら、リュックの中を引っ掻き回した。
なんでも良い。
何か使える物があればと、必死に探す。
そして、残っていた食料を引っ張りだした。
パンや果物に魚肉ソーセージ(レイルがオヤツ代わりに食べていた)もあった。
海希「こっち見なさい!」
狼達の視線が、一斉にこちらに集中する。
それらを思いきり投げると、一目散に走り出す狼達。
私は隙を突いてロイゼを抱きかかえると、急いで逃げた。
できるだけ遠くに。
私の足ではたかが知れてはいたが、どうやら狼達は追ってこない。
この馬鹿みたいな作戦は、とりあえず成功したらしい。
海希「ロイゼ!大丈夫!?」
胸の中で、小さく呼吸する狼はボロボロだった。
可愛らしい縫いぐるみを犬が乱暴に遊んだ後のようだった。
海希「待ってて!今なんとかするから....!!!!」
その場にロイゼを寝かせる。
所々に傷はあったが、前足がカクカクと震えていた。
私は破れた頭巾を外し、それをさらに裂いた。
ロイゼの怪我した足に巻きつけ、優しく抱きかかえる。
海希「大丈夫だから、助けてあげるから....」
何度も呼び掛ける。
彼からの応答はなかったが、それでも何度も声を掛け続けた。
両手に収まる小さな体。
出会ったばかりのコロを思い出す。
姿は全く違うが、記憶が重なる。
あの時の弱り切った猫の姿が、ぼんやりと見えた。
湖が見えてくる。
さらにそれを越えれば、目的地の鏡の城だ。
海希「と、とりあえず....」
水辺までやってくると、私はロイゼをそこへ寝かせた。
私は動物専門の医者ではないので、どうすれば良いのか分からずにいた。
ならば、人間の状態ならせめて体の具合だけでも分かるかもしれない。
海希「...うっ」
...しょうがない。
こんな自分に嫌気がさす。
こんな奴とコロをかぶせるなんて。
そんな事を思いながら、ロイゼにキスをした。
見慣れた彼の姿が現れる。
猟銃を乱射するような危険極まりない男が横たわっていた。
私は急いでリュックから彼の服を取り出す。
目をうっすら開けながら(あまり見ないように)彼の体の上にかけてやった。
腕の傷を見てみる。
やはり、深く噛まれいる。
見ているだけで、痛々しい。
皮膚を噛みちぎられたのか、血がどんどん溢れていた。
私は目を背けながら、布で止血しようと試みた。
布が真っ赤に染まっていく。
それと同時に、私の手も彼の血で汚れていった。
痛くはないだろうか。
苦しくないだろうか。
辛くはないだろうか。
死んでしまわないだろうか。
溢れてくる不安は行き場をなくし、私の中で割ることなく膨らんでいく一方だった。
どこかに吐き出す事も出来ず、ただ私の中で溜まっていく。
...いっその事、この気持ちが割れてしまった方が楽になるのに...
私はゆっくりと立ち上がり、のそのそと歩きだした。
湖の水面に映る自分の顔。
それは、とても酷い顔だった。
しゃがみこみ、手と顔を洗う。
それでもまだ、綺麗になった気がしない。
気分は重たく、どこかへ沈んでいく。
懐から取り出したレイルの拳銃を見つめ、ふと思う。
いつも近くにいてくれたのに、どうしてこんな時に彼は側にいないのだろう。
悲しくなって、彼を求めるように拳銃をギュッと握りしめた。
海希「レイル...」
ここに来て、弱気になってしまう。
全てを捨てて元の世界に帰れたら、どれだけ楽になるだろうか。
ベッドの上で目が覚めて、学校へ行き、ありさや唯と楽しく過ごす。
学校が終われば、いつものバイト先へ向かう。
帰ったら適当にご飯を済ませて、また夜遅くまでゴロゴロと床に転がり、いつの間にか寝ている毎日。
金曜日の夜には母親との電話をして、自分の体調を報告し、安心させる。
そんな繰り返しの日々に戻る。
ただ、それだけの事だ。
こんなメルヘンで、犯罪の無法地帯とはおさらばだ。
こんな危険な場所では生きていけない。
嫌な事は全部忘れてしまえばいい。
ここで起きた事なんて、私には関係のない事なのだから。
そう思っている筈なのに...
そこに、愛らしい猫の姿はない。
私を支えてくれた猫。
コロがいない。
いつだって側にいてくれた。
それが青年の姿であっても、それは変わらなかった。
頭も胸もズキズキと痛んだ。
ここで逃げ出す事さえ、私には出来ない。
海希「...本当に酷い」
水面に映る私の顔が、小さく波打つ。
こんな顔を彼に見られたら、とても厄介だ。
いつだって自分の事より私を心配してくれたのだから。
こんな姿は、彼には見せられない。
??「泣いているの?」
思わず、私は顔を上げた。
水面から顔を出して、私を心配そうに見つめている。
やはり、彼女はとても美しかった。
海希「エリーゼ...」
美しい人魚の姿が、そこにあった。
いつの間にいたのだろう。
笑いたくもないのに、私は笑顔を作った。
海希「泣いてなんかいない」
泣いてなんかいない。
涙は出ていないのだから。
エリーゼ「でも、泣きたそうにしているわ」
間違っていないかもしれない。
今の私は、泣き出したいくらいに弱っている。
海希「エリーゼ、あなたにお願いがあるの」
二つ目の希望。
目の前にいる友達の人魚に、私は口を開いた。
海希「あなたの涙を分けて欲しい」
しかし、彼女は物悲しげに目を伏せるだけだった。
その瞳に、悲しみの色を浮かべている。
エリーゼ「...あなたも、そんな事を言うのね」
とても悲しそうに。
まるで、私に裏切られた事を悲しんでいるかのようだった。
海希「違う!そうじゃないの!」
私は慌てて叫んでいた。
エリーゼを傷付けるつもりなどない。
彼女にそんな顔をして欲しくもなかった。
海希「私の友達が大変なの!あなたの涙なら、助けてあげられるかもしれない...!!!」
必死に訴える。
けれど、彼女は変わらない。
エリーゼ「泣くなと言ったのは、あなたよ?」
...そうだ。
初めて会った彼女に、私は言った。
貴重な存在とも知らず、友達になった。
いや、たとえ知っていても同じ事を言っていた。
無理に泣く事はない。
彼女自身の為に、泣けば良い。
そう言ったのは私だったのに。
今の私は、彼女に泣いて欲しいと思ってしまった。
海希「...そうだったわね。ごめんね、エリーゼ」
また、無理に笑顔を作る。
笑顔を作る事がこんなに難しい事だったなんて、思ってもみなかった。
海希「もう行くわ。鏡の城に用があるの」
エリーゼ「鏡の城?」
チャプチャプと水の中に浮かぶ人魚は、私に訊き返す。
海希「魔女さんに用があるの。その友達を助けられるかもしれない」
友達に泣く事を強要出来ない。
もう少し、自分が意地悪な性格であればと、複雑な気分だった。
エリーゼ「あそこに魔女は...」
エリーゼが何かを言いかけて、ピタリと言葉をやめた。
視線は私の後ろ。
その視線の先を追うように、振り向いた。
海希「ロイゼ...!!」
彼の行動に、私は思わず息をのんだ。
はだけた服が、風にあおられている。
その青い目と構えられた猟銃は、まっすぐにエリーゼに向けられているのが分かった。
ロイゼ「泣かせてぇなら、こうでもしねぇと駄目だろ」
低い声で、彼は言った。
静かな殺気を感じさせる恐ろしい狼。
戦慄が走った。
そんな事は求めていない。
私は咄嗟に叫んだ。
海希「やめて!」
エリーゼの前に、すかさず立ちはだかる。
向けられた銃の先が、目の前にあった。
ロイゼ「どけよ、こいつは人魚だ。滅多にお目にかかれない貴重な存在...売れば高値になる」
私の後ろで、エリーゼが怯えているのが分かる。
私はポケットに手を忍ばせた。
ロイゼ「おっと、下手な事はするなよ?俺はお前と違って、躊躇なく撃つぜ」
その言葉に、私の手が固まった。
彼が凶悪な狼だという事は知っているつもりだった。
けれど、あれだけの怪我をしてどうしてこんなにも平気そうなのか。
海希「あなた、怪我はどうしたの?!」
私が巻いてあげた赤い布から、血の流れた痕がついている。
でも、それだけだった。
彼の肌には乾いた血痕が残っているだけで、あれだけ目立っていた痛々しい傷がどこにも見当たらない。
ロイゼ「豆野郎は俺の能力を勘違いしているようだったからな。まぁ、そっちの方が楽で良い」
口角を引き上げながら、ロイゼは続ける。
ロイゼ「俺様の能力は自己治癒力。人魚と違って、自分の為だけの力。一匹狼にはピッタリだろ?」
早く言えよ!
それが分かっていたら、こいつを置いて逃げていた。
こいつと関わってから、ピンチになる場面が多過ぎる。
ロイゼ「それに、お前も涙が欲しいんだろ?だったら山分けしようじゃねぇか。お前と俺でそいつを捕まえる。どうだ?」
...欲しい。
それでレイルが助かるのなら、喉から手が出る程欲しい。
けれど、それをこいつが守るとは思えない。
こいつの中で、私だって獲物の一つ。
裏切られるに決まっている。
いや、裏切られなくてもその誘いには乗れない。
海希「私はね!あんたみたいな奴が大っ嫌いなの!嫌いじゃないの、大っ嫌いなの!分かる!?」
ロイゼ「はっ?」
急に何を言いだすんだと言いたげなロイゼ。
私は構わず続けた。
海希「エリーゼ!逃げて!」
エリーゼ「!」
振り返りはしなかったが、私は彼女に言った。
こんな事をしてても埒が明かない。
ロイゼ「こら!勝手に言ってんじゃねぇよ!」
海希「勝手に言わなきゃ、あんたが逃がしてくれないでしょ!」
猟銃を持った相手に、私もなかなかの強気だった。
本音を言えば、かなり怖い。
体だって震えている。
こんな所で死にたくもない。
だけど、友達が目の前で殺されるのも見たくなかった。
ロイゼ「...って、こら!てめぇ待ちやがれ!」
バシャンっと、激しい水飛沫の音がした。
ロイゼの銃口が私から逸れ、彼女を追いかける。
けれど、私はすぐさま弾道に立った。
エリーゼが、出来るだけ遠くに逃げられるようにだ。
ロイゼ「お前、本気で死にてぇみたいだな」
眉を吊り上げ、青い瞳を不気味に光らせる。
それでもやめるつもりはない。
彼のような目力なんてものはないが、私も睨み返した。
沈黙が続く。
私は彼を睨み続け、ロイゼは私に銃を向けたまま。
そこから微動だにしない。
緊迫した空気に、私の額からジワリと汗が噴き出した。
死にたくはないが、友達を助けて死ねるなら立派な死だと言える。
きっと、親だって褒めてくれるだろう。
ただ、私のこの武勇伝を誰が伝えてくれるのかが気になるところだ。
ロイゼ「...はぁ...もう良い!」
意外にも、先に折れたのは向こうだった。
呆れたように吐かれた言葉と舌打ちの代わりに、銃が降ろされる。
その瞬間、私の体からどっと力が抜けた。
ヘナヘナと力なくその場に座り込む。
足に力が入らない。
小さな呼吸を繰り返し、頬を伝う汗を拭った。
どうして彼は、私を撃たなかったのだろう。
落ち着きを取り戻した私は、彼の後ろ姿を見つめながら不思議に思った。
海希「どうして撃たなかったの?」
思いきって訊いた。
彼なら撃てた筈だ。
ロイゼ「そんなに殺して欲しかったのか?」
海希「...そんな訳ないでしょ」
どうして質問を質問で返してくるのか。
それに、全く答えになっていない。
とても気分屋な奴だ。
考えている事が、さっぱり分からない。
ロイゼ「お前は良いのか?人魚の涙、必要だったんじゃねぇのかよ?」
いつから話を聞いていたのだろう。
ちらりと目を向けられ、私はバツが悪くなって視線を逸らした。
海希「...良いのよ。相手を泣かせてまで、手に入れたくない」
ロイゼ「お前、本当に馬鹿だな」
少しムッとしたが、それは間違っていない。
私は馬鹿だ。
せっかくエリーゼに会えたのに、その機会を逃してしまったのだから。
レイルに合わせる顔がない。
海希「で?あなたはまだ私について来るの?」
人間の姿に戻った彼は、もう私に用はないだろう。
あったとしたら、また私を捕まえる事だ。
そうなれば、迷わず私の豪速球をお見舞いする事になる。
ロイゼ「お前みたいな馬鹿女は、買い取り手なんて見つからねぇよ。俺は山へ戻るぜ」
猟銃を引っ提げ、赤い髪を揺らしながらスタスタと歩いて行く。
私は私で、行くべき場所があった。
ゆっくりと立ち上がり、リュック拾い上げたようとした瞬間だった。
ギュルルルルッ...
.......
鳴いた。
私のお腹が。
海希「......っ!!!」
私が持ってる荷物の中に、もう食べ物はない。
柄の悪い狼達に差し出したもので全てだった。
しかし、そんな状況に空気を読まず、私のお腹は鳴く。
ロイゼ「...はぁ」
踵を返し、こちらに戻って来るロイゼ。
何をするのかと思えば、私を横切ってまっすぐに湖に向かって歩いていく。
躊躇なく水の中に足を突っ込むと、バシャバシャと音を立てながら入っていく。
海希「...何をしているの?」
ロイゼ「飯時だから、魚でも喰おうと思ってな」
もしかして...私の為?
なんて、自惚れた事を思ってみた。
いやいやいやいや、ないないない。
こんな奴に限って、そんな事は絶対に有り得ない。
なんだか気持ち悪い。
魚を捕まえようとする彼の姿を凝視していた。
本当に何を考えているのか分からない。
狼とは、とても難しい生き物だ。




