塔の上の引きこもり
私の口から溜息が漏れる。
目の前に広げた正方形の布切れ。
金色の繊維が縫い込まれ、とてもキラキラとしている。
触り心地はまるでシルクのように柔らかく、そして薄い。
見た目も、とても優雅だ。
テヘペロを得意とする女神は、このハンカチを私に残していった。
それを小さく折り畳み、ポケットに詰める。
あのハンカチは、可愛いから気に入っていたのだ。
こんな高級そうなハンカチは、確実にお蔵入りだ。
小心者の私には、使う事なんて出来ない。
って言うか、使うのに気が引けてしまう。
本物のハンカチを返してくれたらそれで丸く収まった筈なのに、と頭を悩ませていた。
いや、今はそんな事を考えている場合ではない。
所詮、ハンカチはハンカチなのだ。
されどハンカチだが、やはりハンカチ。
レイルの事を思い出しながら、私は痛くなっていた頭を振った。
あのテヘペロ女神の事は忘れよう。
今すぐに忘れよう。
そう思い、元来た道に戻ろうと木々の中に入っていった。
...が、私はすぐに足を止めた。
前方から、誰かが歩いてくる音がする。
さらに人影が見え、徐々にその姿を露わにさせていく。
海希「!」
男の子だ。
しかも、私はこの少年を知っている。
とても危険極まりない子供。
近付いてきた彼と目が合うと、相手も私の存在にようやく気付いたようだった。
ヘンゼル「あれ?どこかで見た事あるような...」
私の目の前で立ち止まり、首を傾げている。
どうやら、私の事は忘れているみたいだった。
私は嫌でも忘れられない。
あの時の地獄絵図は、今だって瞼の裏に焼き付いている。
あの時はよくもあんな目に遭わせてくれたな!
お前のせいで狂乱ドロシーがトラウマになったんだ!
しばらくは眠れない毎日が続いて、お肌の調子も悪かったんだぞ!
なんなら、ドロシーに背中を向ける事すら怖かったんだ!
この責任をどうとってくれる!
と、いろいろと文句は言いたかった。
と言うか、ドロシーの置き土産(手榴弾)でよく生きていたものだ。
その生命力に拍手を贈ってやりたい。
海希「気のせいじゃない?」
これは逃げるチャンスだ。
どうしてここにこの子がいるのか分からないが、彼と関わると面倒な事に巻き込まれる予感しかしない。
グレーテルはいないようだが、彼の手には大きな銃が手にされている。
それに彼の小さな背中には、とても大きな黒いケースが背負いこまれていた。
何が入っているのか分からない。
ゲーム機や漫画などが入っていれば可愛いものだが、きっとまともな物は入っていないだろう。
ヘンゼル「初めて会う人?そっか、なら僕の記憶違いか」
思い出さないで欲しい。
こいつには酷い目にあった。
なので、今回は他人の振りをしてやり過ごす事にする。
厄介ごとには巻き込まれたくないのだ。
海希「じゃ、じゃぁね...!!」
私は口元を引き攣らせながら無理に笑顔を作った。
彼を横切り、まっすぐに歩いていく。
どうやら、うまく切り抜けられたみたいだ。
やはり子供は単純。
私はホッと胸を撫で下ろした。
ガチャッ...
背後から、嫌な音がした。
背に向けられる、冷たい視線。
私の足が、恐怖で立ち止まる。
ヘンゼル「あぁ、思い出した。お姉さん、ピーターの恋人さんだったね」
ゆっくりと振り向くと、少年の明るい笑顔と彼の持つ銃が私に向けられていた。
どうして余計な事を思い出すんだ!
私の顔は、どんどん青ざめていく。
背中に冷たい汗がツゥーっと流れた。
海希「恋人じゃない!」
咄嗟に口から出て来た言葉がそれなのだから、私も相当な馬鹿だと言える。
いや、そこは否定しておくべきだ。
私の知らない所で、間違った情報がどこからともなくだだ漏れている。
それに、レイルではなく何故ピーターなのかも不思議でならない。
あの年齢不詳の緑まみれの男は良い奴だが、恋人となると話は別だ。
ヘンゼル「ひっどいなー、お姉さん。僕の事を忘れるなんて。子供が嫌いなの?」
酷いのは、私に銃を向けているお前の方だ。
それに銃を向ける子供になんて、好感など持てない。
海希「.....っ!!」
非常に困った展開になってしまった。
ここにはピーターもドロシーもいない。
このピンチは、どう考えても切り抜けられそうになさそうだ。
ヘンゼル「まっ、いいや。とりあえず、仕事を終わらせないといけないから、お姉さんも付き合ってくれる?」
海希「どうして私があなたについて行かなきゃ駄目なのよ?」
私にだってやる事があるのだ。
こんな恐ろしい物を向けられている暇などない。
ヘンゼル「だってお姉さんを連れて帰らなきゃ。それで、お城に連れてってお金をたんまり頂く。子供だけで生きていくのは簡単じゃないんだよ?」
私にとってだって、ここはとても生きにくい場所だ。
身を守る能力や武器を扱えないない私は、この世界では子供のこいつらより簡単には生きていけない。
私の弱さを舐めないで欲しい。
海希「懲りていないのね」
ヘンゼル「懲りる?どうして良い事をしているのに懲りる必要があるの?」
確かに彼らは正しい。
国に貢献しているのだから、懲りる事はない。
むしろ、私の方が悪者なのだ。
ヘンゼル「大人しくついてきてよ。僕だって、お姉さんを殺したくないんだよ?」
ニコニコと笑うヘンゼル。
その銃がなければ、とても可愛らしい笑顔だっただろう。
とても残念な子供だ。
海希「分かったわよ...ついて行けば良いんでしょ、ついて行けば」
せっかくテヘペロ女神から解放されたと思ったのに。
今度はこんなブラックな少年に捕まってしまうとは、私もとんだ凶運の持ち主だ。
ヘンゼルに銃を向けられたまま、私は歩いた。
私が向かっていた方角にではなく、木々の中をひたすら歩いていく。
一体、彼は何処に向かっているんだろうか。
海希「ねぇ、何処に行くつもりなの?」
まさか、山奥へ連れ込んで私を亡き者にするつもりではないかと考えた。
この少年なら有り得る。
ヘンゼル「今日は出張なんだ。あんまりこう言う事はしないんだけど、特別なお客さんだからね」
口調はとても明るい。
兵器を売り捌くヘンゼル。
とてつもなく危険な子供だ。
海希「いつからこんな仕事をしてるの?」
こいつは、いつから道を踏み外しているのか。
親の顔が見てみたい。
両親は反対しなかったのだろうか。
ヘンゼル「そんなの忘れちゃった。でも、凄く儲かるんだよ?お姉さんも、一度買いにこれば良いのに」
海希「私は銃が嫌いなの。って言うか、逃げないからそれ向けるのやめてくれない?」
チラチラと視界に入ってしまう銃。
私の肝はヒヤヒヤしている。
ヘンゼル「それは駄目だよ。いくらお姉さんのお願いだからって、きけないね」
お前が私のお願いをきいてくれた事があったのか。
そう言ってやりたいが、グッと堪えた。
それにしても、よく似ている。
彼の顔を見れば見るほど、グレーテルに見えてくる。
やはり双子。
顔も、その恐ろしい性格も瓜二つだ。
ヘンゼル「お姉さん、今から僕の指示に従って歩いてね」
木々を抜けると、視界が開け青空が見えた。
草むらから砂地の地面に足を踏み込むと、ヘンゼルが私にそう言った。
海希「?」
その言葉に少し違和感を覚えたが、私はあまり気に留める事もなく頷いた。
もはや、彼の言う事に従うしかないのだ。
ヘンゼル「右に三歩進んで。そしたら目の前の木に向かって十歩。今度は、左に五歩進んで、赤い花を目印に前に進む...」
とても細かい指示に、私はあたふたとしていた。
こんな奇妙な進み方に、一体何の意味があるのだろう。
とても面倒だ。
だが、文句は言えない。
何故なら、彼に銃を向けられたままだからだ。
ヘンゼル「よしっ、お姉さん、着いたよ!」
目の前に見えた、高い塔。
階段なんて物は一切見られない。
それに、この建物の入り口さえ見つからない。
あるのは、上の方に存在する大きめの窓だけだ。
私が窓を眺めていると、ヘンゼルが塔の壁を軽く叩いた。
すると、見上げていた大きな窓が開く。
そこから顔を出したのは、可愛らしい少女だった。
少女「もういらしたの?仕事が早いですわね」
金色の長い髪を揺らしながら、少女は私達を見下ろしている。
ヘンゼルは、彼女に笑顔を向けた。
ヘンゼル「君はお得意様だからね。ほら、商品を届けに来たよ」
少女「今、降ろしますわ」
そう言って、彼女が窓から垂らしたもの。
金色の長い糸の束。
...いや、これは糸ではなく髪の毛だ。
ヘンゼル「ほら、お姉さんが先に登って」
ヘンゼルに背中を軽く押され、私は戸惑った。
こんな綺麗な髪をロープ代わりに使うなんて、なんだか勿体無いし気が引ける。
と言うか、こんな人物はおとぎ話の中でしか出て来ない。
私は、恐る恐るその髪に掴まった。
ゆっくりと、上へ持ち上げられる。
...この髪の持ち主は本物だろうか。
一体、彼女の頭皮はどうなっているのか。
とても心配でならない。
少女「あなた、新しいバイトですの?」
塔の中へ入る事が出来ると、その少女は不思議そうに私を細かく見ていた。
私だって目が離せない。
私の登ってきた綺麗な金色の長い髪が、彼女の頭から生えている。
彼女の頭皮は、鋼素材で出来ているとしか思えない。
まさしく、彼女は長い髪のお姫様だ。
長い前髪を、可愛らしいウサギのピン留めで固定しているので、少女らしい幼い顔がはっきりと見えていた。
海希「ど、どうも...」
とりあえず挨拶はしておいた。
ヘンゼルの知り合いの少女なのだから、きっとまともではないのは確かだ。
ヘンゼルやグレーテルもそうだが、もっと素晴らしい出会い方をしたかった。
少女「ふ〜ん...あなた、なかなか可愛いですわね」
海希「え?」
か、可愛い?
そんな事は、あまり言われた事がない。
だいたい、私の何処が可愛いのかも分からない。
少女に可愛いなんて言われて、なんだか素直に喜べない。
しかも、急にそんな事を言ってくるなんて...
けれど、戸惑う私に少女はクスッと笑っただけだった。
今度は、窓からヘンゼルが入ってくる。
彼はずっと背負っていたケースをその場に置くと、パチンッと音を立ててフタを開けた。
そこに詰められていたものは、綺麗に並んだスナイパーライフル。
これは、映画やドラマで見た事がある。
しかし、言うまでもなく本物を見るのは初めてだ。
少女「あぁ...やっと手に入りましたわ。これをどんなに待ちわびた事か!」
頬を赤くしながら、銃を手に取る。
まるで可愛い動物を愛でるように、頬ずりをしていた。
とても異様な光景だ。
更に窓に構えながら、備え付けられたスコープを覗き、構え心地を試している。
少女「気に入りましたわ。やっぱり、相性はバッチリでしたの」
一通り試した後、嬉しそうにそれをケースに仕舞い込む。
それを部屋の隅の方へ寄せる少女に、ヘンゼルは満足気に笑みを漏らした。
ヘンゼル「じゃぁ、取引成立って事で。送金は、いつものところによろしくね」
少女「もちろんですわ。それと...」
少女の目が、ヘンゼルから私へと向けられる。
目を細めながら、私に言った。
少女「あなた、名前を教えてくださらない?」
この子に名前を教えて良いものなのだろうか。
と言うか、何の為に名前を聞かれているのかも分からない。
この部屋を良く見てみれば、壁紙は可愛いピンクで囲まれている。
白で統一された家具。
壁に飾られたたくさんの縫いぐるみ。
可愛いものが好きな、可愛らしい少女の可愛い部屋。
だが、そんな中にチラチラと銃が見え隠れしている。
可愛い物の中に、こんな恐ろしい物が一緒に混じっているなんて。
この少女は、やはり只者ではない。
海希「...海希。稲川海希って言うの」
そんな危ない物を見ていると、何故か名乗るしかないと感じた。
恐怖だ。
彼女から感じる見えない恐怖が、私に圧力を掛けている。
少女「アマキ...珍しいものには、わたくし目がないですのよ?」
そう言って、可愛い笑顔を向けられる。
言っている意味が分からず、私が理解出来ないでいると突然彼女の髪が動き始めた。
蛇のようにしなやかに動く髪は私ではなく、ヘンゼルが私に向けていた銃に絡み付いていく。
出遅れてしまったヘンゼルは、呆気なく彼女の髪に銃を取り上げられ、今度はその銃を髪の長い少女の手元に収まってしまっていた。
それは、とても一瞬の出来事だった。
ヘンゼル「一体どう言うつもり!?彼女は商品じゃないよ!!」
ヘンゼルから笑顔が消えている。
少女が構えた銃は、まっすぐに少年に向けられていた。
少女「まぁ、それは良かったですわ。お金を払わずとも手に入りますもの」
なんだかよく分からないが、私を巡って喧嘩をしているらしい。
見た目は子供なのに、とても子供らしくない喧嘩の仕方だ。
海希「あの...とりあえず、落ち着きましょ?」
睨み合う2人の間に、私はそれとなく間に入ってみた。
このピリピリとした空間。
いつ銃声が聞こえても、おかしくない状況だ。
少女「どうしますの?このまま帰るか、それとも蜂の巣にしてさしあげてもよろしくてよ?」
ヘンゼル「.....っ!」
あれ、銃って子供が遊ぶ用の玩具だっけ?
なんて錯覚を覚えるくらい、ここの子供は銃を普通に手にしている。
恐ろし過ぎる。
私に銃口は向けられていないが、私の体は震えていた。
なんの動きも示さないヘンゼルは、とうとう折れてしまった。
少女の騒つく長い髪が、自然に窓の方へと向かう。
ヘンゼル「...分かったよ、お姉さんは諦める。これからもごひいきにね」
少女「今回も素敵な商品、恩にきますわ。またよろしくですの」
少年は、髪に掴まりながら下へと降りていく。
それも、私をここに残したまま。
その姿が見えなくなったのを確認した少女は、持っていた銃を後ろへ放り投げた。
そして、キラキラと目を輝かせなから私に抱き付いてきたのだ。
海希「!?」
あまりの突然の出来事に、私はパニックになっていた。
抱き付いたまま、彼女は私を見上げる。
少女「わたくし、バレッタ・レティスと申しますの!これから、よろしくお願いしますわね!」
頬を赤らめ、とても嬉しそうに彼女が言った。
先程のピリピリした空気など感じさせない、とびっきりの眩しい笑顔を向けて。
...これから?
私の頭に浮かぶ、塔に住む長い髪のお姫様。
今の私は、嫌な予感しかしていなかった。




