笑う猫の誘惑
いつもの日常が崩れていく。
私を心配をしてくれる両親。
大学生活での楽しい会話。
優しい先輩との交流。
様々な日常の風景が、パズルのピースのように、抜けた場所から次々に崩れていく。
あぁ、これは夢だ。
身も心も砕けていく夢。
どうしてこんな夢を見ているのだろう。
あぁそうか、これは夢だから...
これは私の夢。
だから今の私とリンクしている。
現実はとても暗く、そして残酷だ。
逃げていると言われても良い。
誰にも責められない。
これは、私の夢なのだから。
夢は落ちていく。
暗くて深い穴に落ちる感覚。
それと似ているのかもしれない。
重い荷物がなくなり、軽くなった体が落ちていく。
落ちるところまで落ちれば良い。
また、あの男性の姿が見える
崩れていくピースの1つに、彼がいる
とても悲しい
ゆらゆらと揺れている彼の背中
手を伸ばしても、もう届かない
知らない相手なのに、とても辛くなる
あなたは、誰....?
瞼が重い。
いつの間にか、またあの草原にいる。
目は閉じているが、大体分かってしまうのだ。
風と花の匂い。
とてものどかに流れる時間。
ポカポカとした暖かい日差し。
きっと、覆っていた曇は無いのだろう。
それは、私の中の重荷がなくなったと言う事だろうか。
体も、なんだかいつもより軽い気がした。
寝返りをうつと、鼻先に柔らかい毛が当たる。
近くにコロの気配。
見なくても分かる。
私の愛猫なのだから。
自然に頬が緩む。
夢の中でも、私の側にいてくれる。
私は、コロを抱き寄せようと手を伸ばした。
......???
いつもより、何か大きなものに腕が回る。
手探りで確認してみるが、それは私の知っているコロの大きさではない。
重たい瞼をこじ開ける。
ゆっくりと視界が開けてきた。
そのぼやけた視界が、次第にはっきりと目に映る。
私の目の前にいたのは、可愛い寝顔を見せた猫。
海希「....じゃない!!!!!」
驚きのあまり、思わず大声を上げた。
私の声は、静かだった草原に広がり、やまびこのように輪になって返ってくる。
添い寝していた生き物は、人間だった。
いや、人間と言って良いものなのかも不明だ。
確かに人の姿をしている。
黒に白のメッシュの髪は短く、手や足を折り曲げ、私に寄り添うように眠っている青年。
人間かどうか一番疑わしいのは、彼の頭にあるものが原因だ。
??「う〜ん....?」
私の声に目を覚ましたのか、青年は目を擦りながら、体を起こした。
ぱちくりとさせるその瞳はイエロー。
そして、片方は綺麗なブルー。
どこかで見た事のある、左右の違う瞳の色。
頭に生える猫の耳のようなものがピクピクと動いている。
いや、猫の耳のようなものではなく猫耳だ。
確実に猫耳なのだ。
それが偽物なのか定かではないが、それが偽物だろうとキモい趣味の持ち主だろう。
青年「なに....?どうしたの、そんな大声出して...」
海希「しゃ、喋った!!!?」
すでに目が冴えている私は、彼から視線を逸らせずにいた。
眠たそうに大きく欠伸をする。
その大きな口からチラリと見えた、猫のような尖った歯。
慌てふためいている私なんかとは違い、とても呑気だった。
青年「当たり前だろ?そんなに俺が喋るのが不思議なのか?」
不思議なのはそこではない。
確かに人間の姿をしているのだから、喋れるのは当然だ。
今のツッコミは、紛れもなく私のミスだ。
海希「あ、あんたは誰なの!!?」
気にするのなら、まずはこちらの方からだった。
すかさず青年との距離を取る。
すると、彼は不思議そうに首を傾げた。
青年「誰って...ひっどいな。見て分かんないの?」
甘えたような声で、更にジッとこちらを見ている。
ジリジリとこちらに詰め寄り、私の膝の上に抱きついて来た。
見て分かる事は、猫耳を付けた変質者だと言う事だけだ。
青年「俺の事、ずっと好きだって言ってくれてたのに...凄く傷付くぜ」
傷付くのは私の方だ。
嫁入り前に、こんな変質者と添い寝をしていたのだから。
しかも、今も抱きつかれている。
これは許しがたい行為だ。
海希「離れてよ、この変態!」
青年「へ、へんたい?」
何とか彼から離れる事に成功した私は、更に後退った。
気になるその猫耳が、シュンっとへたっている。
青年「本当に酷いな....俺の事、まだ分かんない?」
この会話は、いつまで続くのだろうか。
私は警戒を怠らなかった。
海希「分かんないわよ!誰よ、あんた?!」
すると彼は溜息を吐き、渋々といった感じで口を開いた。
青年「俺だよ、レイルだって。レイル・チェシャ・キャット」
誰だよ。
結局名乗られても分からない結果に終わってしまった。
しかし私の反応を察したのか、レイルと名乗った彼は思い出したようにポンっと手を叩く。
レイル「あ!違う違う!今の無し!そう言えば、あんたから貰った名前は違うんだった!」
海希「私から貰った?」
レイル「そう!コロだよ、コロ!俺がコロ!」
コロ?
コロとはどのコロだ。
私の知っているコロは、1匹しかいない。
海希「コロって...あんた、私を馬鹿にしてるの?」
あの小さな猫が、こんな変質者の訳がない。
いや、あってはならない事だ。
レイル「えぇ?!そこ疑うのかよ?!ほら、見てわかんない?!コロだよ、コロ!」
猫のように、すらりと座ってみせる青年。
ヒョロヒョロと尻尾のようなものが動いているのが見え、さらに引いてしまう。
猫耳に尻尾...確実に変質者だ。
けれど、コロの面影が彼と重なる気もする。
特徴的だったのは、左右の違う黄色と青の瞳の色と、黒と白の髪色だ。
海希「....って、信じる訳ないでしょ!うちのコロは猫です!変質者なんかじゃありません!」
話が進まない。
コロだ、と言われて簡単に信じられる訳がない。
と言うか、これは私の夢だ。
一体この登場人物は誰なのか、検討も付かない。
レイル「本当にあんたって面倒だよな。そこまで信じて貰えないんなら...」
困ったように、頭を掻く。
彼は考え込んだ後、私の方へ歩み寄って来た。
海希「え、なに?!」
青年は、急に私の右手を取った。
そっと優しく撫でるように、右手の甲に触れてくる。
レイル「あんたと初めて会った時の俺が付けた傷、もう治ったんだね」
胸がドキリと鳴った。
自分でも忘れていた事だった。
暗い茂みの中で傷付いた猫を見つけ、怯えたその子を助けようとしたが引っ掻かれてしまったのだ。
レイル「そうだな、初めてご馳走になったのが確か鶏だったな。俺は魚が好きだけど、あれもなかなか美味かったな」
海希「!!!」
レイル「あと、あんたは俺に毎日話しかけてたっけ。俺の事、冷たいとかどうとか言ってたな。あ、他にも....」
海希「!!!!!!!」
あの家には、私しかいない。
私以外で言うのであれば、コロだ。
あの愛想のなかった猫。
このペラペラと喋っている青年は、そんな私とコロしか知らないような、事細かい会話(もはや私の独り言)を口にし始めた。
海希「分かった!分かったから、もうやめて!」
彼の言葉を遮るように、私は声を張り上げた。
これ以上聞いても、恥ずかしなってくるだけだ。
レイル「なに?これで信じてくれた?」
握られた右手は離さない。
むしろ、ギュッと握り締めてくる。
期待の眼差しが、とても眩しい。
海希「本当にコロ?なんか信じられない....」
信じられない。
いや、信じたくない。
けれど、これで信じてあげなければ彼は変質者でストーカーになってしまう。
疑わしい所はまだあったが、信じてあげるしかなさそうだ。
レイル「俺だって信じられない!あんたとここに来られるなんて、俺凄く嬉しい!」
そう言って、私の右手を掴んだまま歩き出す。
いきなりだったので、足がもつれそうになった。
海希「ちょっ..!どこ行くの?!」
私の問いかけに、彼はウキウキした口調で返してきた。
レイル「何処って、アマキを案内してあげようと思って。まぁ、俺もあんまり動きまわれる身分じゃないけど」
強引に引っ張られ、草原を歩く。
歩いても歩いても景色は変わらない。
でもこの草原の、そしてこの先の湖の遥か遠くに見える大樹。
空を突き抜けるように、空高くまでそびえ立ってる。
この世界を覆うように、緑が広がっていた。
とても壮大なスケール感だ。
海希「なにあれ....」
思わず口に出てしまっていた。
目を奪われてしまう。
神々しく、そしてとても美しい。
レイル「あー、悪いんだけどあっちは案内出来そうにない」
私の目線の先にあるものを確認してから、コロ、もといレイルは言った。
案内して貰うつもりは毛頭なかったが、なんだか惜しい気もする。
魂が惹き込まれるような、そんな感覚。
あの木を見ていると、とても安心するのだ。
海希「ねぇ、何処まで行くの?」
歩いても歩いても、この広大な草原から出られる気がしないのは、私だけなのだろうか。
と言うか、これは私の夢だ。
これ以上の場所なんて、あるのかさえ疑問だ。
レイル「確かに面倒だな。じゃぁ、近道しよっか」
と、立ち止まる変質者。
何処からともなくカチャリと取り出したその手には、拳銃が握られていた。
黒と白のツートーンカラーのお洒落な拳銃。
一瞬、お洒落なアクセサリーだと勘違いした。
しかし、拳銃は拳銃だ。
見た事もないような拳銃(と言うか、本物自体見た事はない)に目が見開く。
海希「ちょっと!!!!」
更に彼は、そのカジュアルな拳銃の銃口を、彼自身のこめかみに当てているのだ。
レイル「やっぱり距離があったからか、向こうまで上手く飛べなかったんだよな〜」
海希「変な気は起こさないで!!!!」
レイルを止める。
そんな命を賭けた近道は求めていない。
と言うか、それは天国への近道だ。
天国に飛ぶつもりもなければ、天国に案内して欲しくもない。
レイル「えぇ?これが一番の近道だぜ?アマキも、歩くのが面倒なんだろ?」
海希「歩く!歩くから!」
何とか銃をしまわせる。
ホッと胸を撫で下ろす私とは裏腹に、彼は納得いかない様子だった。
レイル「まぁ、あんたが歩きたいなら別に良いけどさ。疲れたら早く言えよ?俺、すぐにでも撃つからさ」
海希「撃たなくていい!」
再び取り出した白黒銃を構え、ウィンクしてみせる彼は可愛気があった。
しかし、そんな問題ではない。
自殺願望があるのか。
訳が分からない。
私の中のコロは、こんな印象じゃなかった筈なのに。
私自身の夢なのに、全く私とリンクしていないような気がする。
そう思いながら、私はしばらくこの変な猫と広大な草原を歩く事になった。




