偏屈先輩の御母堂
「ところであんたさ。お土産買ってきた?」
ふとビール缶から口を離して姉上が俺を見て言った。買ってなかったら殴ると目が語っている。
俺は正直に答えた。
「……買ってない」
「この役立たずめ!」
姉上は本当に殴ろうと手を振り上げたが、俺は素早く移動して隣に座っていた三津花を盾にした。
「あんた妹を盾にするって卑怯じゃない!?」
「弟を殴る姉に言われたくないな」
「暴力はいけませんわ」
姉上が怒鳴り、俺は冷静に言い返し、三津花が口を挟む。まあ、いつもの穏やかな光景だ。これが荒れると3人が3人とも怒鳴り合ったりすることもあるので、比較的平和的な状況だと言える。
その土産なのだが、糞親父と馬鹿姉の土産はないが、愛する妹と敬うべき母上には土産がある。歴然とした差別である。否定はしない。
暫くの間、俺と姉上は酒を飲みながらテレビで放映されるあらゆる箇所に意地の悪い指摘を口汚く言ったりして、それを聞いた三津花がやんわりと俺たちを窘めたりしていた。
ところで時刻は3時頃であり、まだ仕事終わりにも酒飲みにもだいぶ早い刻限である。三津花は未だ高校生であり、高校の始業式は明日であることを俺は理解しておるので、彼女が俺の隣でオレンジジュースを飲んでいることには何の不自然もない。
しかして、既に社会人たる姉上がここにいて俺と一緒に酒飲んでいることに自然を感じることはない。今更ながら不自然さを感じた。
「ところで、あんた仕事はどーした?」
「あんたってあたしのこと?」
「俺は三津花を叱るとき以外はあんたとは呼ばん」
姉上に聞き返されて俺は答えた。お前とか貴様も叱るときにしか使わん。他の奴にはいつ何時でも常用する。差別であることは否定しない。
姉上は不機嫌そうに顔をしかめたが、まあ、そこは長年俺の側にいた奴だ。いつまでもこんな会話をしていては話が進まないと思ったのか溜息を吐いてから答えた。
「遅い遅ーい夏休みを貰ったのよ。貴重な有休も足してね。学生ってタダで大量に休みがあっていいわよねぇ」
姉上は何だかちょいと大人ぶった風に言ってみせた。知らん知らん。休みが多いのは学生の特権だ。てか、貴様も何年か前まで学生だっただろ。
休みを満喫する俺と満喫した三津花は姉上の愚痴を聞き流したと言えば聞こえはまだ良いが、言い換えれば無視した。
「そーいえばぁっ!!」
1時間くらい酒宴を続け、あと2時間しても母上が帰ってこなかったら姉上の金で出前を取ろうということを俺と三津花が相談しているといきなり姉上が叫んだ。
うちの姉上はいつも行動が唐突で脈絡がない人であり、こんなふうにいきなり叫び出すのはいつものことなので、俺と三津花は無視した。
「アイダホを食べてみたいとは思いませんか?」
「いいや、それよりは堅実にチーズチーズを頼むべきだ」
「バジルは?」
「それも良いな。じゃあ、チーズチーズとバジルを」
「サラダは?」
「金出してまで生野菜を食いたいとは思わん」
ピザ屋のチラシから顔を上げて頷き合う俺と三津花。うむ。決定したな。
「ちょっとー。あんたら無視すんなやー!!」
姉上がぷりぷり怒りながら叫んだ。
渋々と姉上に顔を向ける弟妹。面倒な御仁だ。
「あんたさ」
そう言う姉上の視線は俺に向いている。まあ、姉上もあんたという呼称を三津花には使わないのだ。俺も兄馬鹿だが姉上も姉馬鹿だ。
「何だ」
「この前、電話口で聞こえた女の子の声って何さね?」
「座敷童だ」
俺の即答に場がしんと静まり返る。何もテレビまで静かになることないじゃないか。まあ、そーいう場面なんだけれどもさ。
「ただいまぁ」
姉上からの「座敷童ってどんなの?」等の質問をテキトーにあしらっていると玄関から聞き慣れた母上の声が聞こえてきた。
受話器に手を伸ばしかけていた三津花はピザを諦め、チラシを羨ましげに眺めてから、ふっと新聞入れに放る。取っといてもすぐに新しいのが新聞に挟まってくるからな。ちなみに、うちでは母上が料理大好き人間なので外食・出前を食う機会がとても少なく、我々3姉弟妹は外食・出前に一種憧れめいたものをこの年齢になっても抱いているのだ。まあ、母上の飯が不味いわけでは決してないのだがね。
「あらあらあらあらあらら」
1階リビングにやって来て俺を見つけた母上はやたらと「あら」を繰り返しながら近付いてきた。
抱きついてくるな。俺にはそう分かっていた。うちの母上はそういう人であり、今までもたったの数日離れていただけでも再会の度に抱き締められてきたものだ。
この歳になって母上に抱き締められるという行為は男の俺にとっては大変に恥ずかしく大変避けたい行為である。が、しかし、それを避けるという行為は中々に難しい。避けるとうちの母上は大変悲しそうな顔をしてしょんぼりと台所の隅に座り込み床に延々と「の」の字を書き続けるという怪奇行動に出るのだ。それは母上を敬愛する親孝行な息子たる俺からして見たくないしやらせたくない行動であり、何よりも母上の心を傷付けるような言動は何としても避けるべきというのがうちの家族の行動指針なのである。
「双葉ちゃん久し振りねー。お母さん寂しかった」
涙ぐんだ上目遣いでそう言われては「双葉ちゃん」呼ばわりされても怒鳴ることができない。俺はむっつりと無愛想にしかめ面を保ち「むー」と唸るのみだ。
「ぎゅー」
そんな台詞を口に出しながら抱きついてくるような奴がいたら即文句の2つ3つを浴びせ、それが男であれば即暴力的手段に出るような俺であるが、それが母上では別である。為す術もなくされるがままになるしかない。
勘違いされては困るというか甚だ遺憾なのであるが、俺は別にマザコンとかではない。
現に母上とここ2年間以上隔絶されて生活してきたが特に何の問題もなく生きてこられたし、母上と電話連絡することさえ向こうからされなければこちらからは一切しなかった。
それでも母上に逆らえないのは何故なのか。この現象は姉上にも三津花にも見られる現象であるが、この原因はおそらく幼児期からずっと何か悪いことをしたり母上を拒むと泣かれたり拗ねられたりして子供心に大変困惑した経験からきているとの説が有力であるが確たる説には至っていない。今後のより深い研究が望まれる。
まあ、とにかく、俺は母上の気が済むまでハグされ続けたのだ。凄く恥ずかしいのだが、まあ、ここには事情をよく理解した姉妹しかいないのだから我慢できないものではない。
こんな姿を家族以外の人間に見られた日にゃあ俺は首を吊るね。
お母さんです。冴上家最強キャラなんです。まあ、おいおい。
親父と祖父様はいずれ。