偏屈先輩と檜の亡霊
檜。それは、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹です。まぁ、それは関係ないですけど。
先輩は私たちの前に現れた少女を見つめて「檜」と、そう言いました。この場面で、先輩が意味もなくヒノキ科ヒノキ属の針葉樹のことを口にする必要などあるはずがありません。
先輩が言った「檜」という言葉は、おそらく人の名前に違いありません。それ以外に先輩がその言葉を口にすることなど考えられません。そして、私はその「檜」という名前の人に心当たりがあるのです。
檜利乃、という人のことを私は聞いたことがあります。先輩は勿論、誰も彼もあまり喋りたがらないので、よくは知らないのですが、その檜さんという方は先輩の元彼女だったのですが、どーやら先輩と死に別れた人らしいです。
その檜さんとの死別は先輩に結構なトラウマを植え付け、長らく私が先輩にアタックし続けていた間、それに対し満更でもなかった先輩が私と付き合うことを頑なに拒んできたのはその死別した檜さんが原因であるらしいのです。未だもって、先輩はそのトラウマを克服しておらず、時折、心痛に悩んでおられるらしいです。
その檜さんの名前がこの場面で出るとはどーいうことでしょうか。
はっ! まさか、この目の前の少女が「檜」なのでしょうか!? 死んだっていうのは嘘だったとか!? 或いは、死んだってのは何かの比喩だったとか!? だとしたら、最強のライバル出現っていう展開ですかー!?
と、1人で興奮・混乱している場合ではありません。
「私のことは覚えているんですね」
目の前の少女は、怒りと憎悪に満ちた目で先輩を睨みながら刺々しい口調で言います。
「お姉ちゃんのことは忘れたくせに」
この言葉で、少しピンときました。つまり、彼女は、先輩の元彼女である檜さんの妹ということでしょうか? しかし、また1つ疑問が浮かびます。「忘れたくせに」というのは如何なることでしょうか?
「いや、忘れていない」
先輩はとても静かに答えます。いつもの短気で怒りっぽい先輩っぽくありません。
「嘘っ!!」
檜さん(勿論、元彼女である檜さんの妹である檜さんのことです)が、先輩の言葉を聞くなり、即座に怒鳴ります。
「あなたはお姉ちゃんに全然会いに来ないじゃない!」
死んだ人にどーやって会うっていうんですか?
「あぁ、確かに、俺は墓にも仏壇にも行ってない」
あぁ、お墓参りとか仏壇参りとかのことですか。先輩が参らないのも、私には理解納得できます。というのも、先輩は神様嫌い宗教嫌いを公言するだけあって、天国も地獄も死後の世界も幽霊さえも信じていないのです。先輩に言わせれば、人というか生物は「死んだらそれで、はい、おしまい」であり、その後はもう何もないそうです。だから、死んだら、その人は、お墓にも仏壇にも、天国にも地獄にもいなくて、会うことはもう2度とできないんだそうです。
大変、冷たく感じられる思想です。しかし、考えてみると、これは先輩が苦悩の末に導き出したものではないかと私は思います。
そう。人が死んでも、何処か(例えば、天国とか)に存在するとします。すると、先輩は死んでしまった檜さんに絶対に会えない、わけではないことになります。何処かには存在するのですから、その何処かに行ければ会えるということです。その何処かに行くにはどーすればいいかといえば、相手は死人なのですから、死んだ人が行く場所にいるに決まっていますから、会いに行くにはこっちも死ななければいけません。と、なれば、先輩は自殺しなければいけない。という論法になります。これは、さしておかしな思考ではないはずです。
そもそも、神や死後の世界という概念は、元を辿れば、死んだ人にもう一度会いたい。或いは、死んだ人が、死んでも安寧にあって欲しいという遺された人々の想いから生まれたものに他なりません。そして、死んだ人をお世話するために、その人の妻や召使、奴隷などが一緒に殺されたり、殉死したりしたのは、死んだ人に会うには自身も死ななければいけないという論法そのものです。と、これは、殆ど、ある書物の受け売りです。先輩の蔵書の1つです。これを先輩が読み、私が推理したように思考したことは十分に考えられます。
まとめましょう。つまり、死後の世界があるとすれば、死んでしまった檜さんは、そこにいるということになります。その檜さんに会いたくて会いたくてしょうがない先輩は、彼女に会う為には死ななければいけない。しかし、安易に死ぬわけにはいきません。もし、死後の世界がなければ、死に損ですし、檜さんだって、先輩に死んでまで来て欲しいと思うはずがありません。どころか、自分のせいで、愛する相手も死んだとなれば、自分が相手を道連れにしたということになってしまいます。それは哀しく、辛いに決まっています。
さて、ここまで考えた先輩は、どーすればいいのか。
結果、先輩は、檜さんはもうこの世にもあの世にもどの世にもいない。もう2度と、何をしても、絶対に会えないということに、決めたのです。そーすれば、先輩は、自分の檜さんに対する恋慕と後を追いたい衝動を胸の内に抑えておけるというわけです。
全ては、私の推理ですが、きっと遠からず同じことを先輩も考えたはずです。とっても強引で屁理屈で偏屈な論法は先輩の好みです。
さて、そんなわけで、死後の世界など信じない先輩が、お墓という石の塊と、仏壇という木の塊に、何の価値を見出すというのでしょう。ただ、檜さんの名前があったり、写真が飾ってあったりするだけです。
「確かに、行っていない。しかし、檜のことは忘れていない」
先輩ははっきりと言いました。そんな所にわざわざ行かなくとも、先輩は、きっとずっとその檜さんのことを想っていたに違いありません。ちょっと、いえ、かなり妬けちゃいます。
「じゃあ、その隣の女はなんなの!?」
女とか言われましたよ。誰かっていえば、当然、私に他なりません。
「お姉ちゃんのことを忘れて、のうのうと他の女とよろしくやっているんでしょう!」
「そのことをお前に説明せんとならん」
怒る檜さん(妹)に対し、先輩は落ち着いた声で話しかけます。
「俺は、檜と…お前の姉さんと別れた後」
が死んだ後、と言わないのは、やはり、檜さんの死を少しでも意識したくないのかな。と私は思ったり思わなかったり。
「もう2度と恋とかそーいうのはせんと思っていた」
そう。そうなのです。その先輩の心中自分ルールみたいな誓いのせいで、私は大層苦労する羽目になったんです。そんな自分ルールしないでくれれば、私も無意味に傷付いたりせんでよかったのに。まったく、なんなんですかねー? この人は。妙なところで、妙なことに拘る人ですからね。思えば、今の状況もそうです。きっと先輩は、もう2度と恋しないっていう自分ルールを自分で破ってしまったことに何か罪悪感みたいなのを抱いていて、それを謝るか何かしたいのでしょう。
そこで、彼は考えた。自分で自分に謝罪など阿呆らしい。心など籠もるはずがないし、自分1人でやっていては馬鹿みたいだ。じゃあ、誰か、他の人に叱ってもらえばいい。でも、誰が叱る? 私と先輩がどれだけ乳繰り合おうが他人にとっては関係ないこと。ただ、「このバカップルうぜー」とか思うだけです。それだけでは不足も不足です。
そこで白羽の矢が立ったのが、檜さん。例の自分ルールは先輩の中では先輩の先輩に対する誓いであったと共に、死んでしまった檜さんへの誓いでもあったのでしょう。それを破ったからには、檜さんにも謝罪するか何かしなければならない。しかし、檜さんは死んでる。じゃあ、他に誰がいる?
「じゃあ、今のその女はなんですか!? あなたたちの関係は!? 恋人でしょう!?」
ほら、目の前にいる。この何故だかお姉さんの元彼に大層な敵意を抱いている彼女です。
何か、全部、種明かしすると、馬鹿馬鹿しく思えてきますねー。これって、結局、先輩の自己満足なんでしょうね。先輩ってば、心が強いのか弱いのか分からない人ですねー。
あれ。何か、今日、私、思考が黒い? いやいや、そんなことはないんですよー。私は天真爛漫にして無邪気で幼稚な天然少女なのです。きゃぴ☆ とか言ってみます。虚しい。
と、こんなふうに私が、虚しくも頭の悪い思考を1人繰り広げているのは、何といっても暇だからです。先輩と檜さんは何か熱くなって言い合っていますけど。私にとってはどーでもいいことです。先輩にとっては罪悪感を減らすための自己満足。檜さんにとっては、なんでしょうね。姉を失ったことを元彼のせいにして、悲しみを怒りに還元して、ぶつけているんでしょうかね。
私はこっそりと欠伸をしながら、空を見ました。あぁ、いい天気。今日は小春日和です。
やたら絹が黒いです。
たぶん、作者の黒さが出ているのでしょう。