偏屈先輩に優しくされる
「先輩ー」
私はぶんぶんと大きく手を振りながら走りました。全力疾走です。
「まるで犬だな」
後ろでススが何か言ったのが聞こえました。私は目も耳も鼻もいいんですよ。でも、文句は言いません。抗議もしません。今はこのまま走って先輩に体当たり、じゃない、抱きつくのが最優先事項です。
「おい! 貴様! ストップ! 止まれ!」
走る先にいる先輩が怒鳴りました。
「いいえ! もう止まれません! 私の心のエンジンはもう恋のエネルギー満タンで止まることなどできないのですー!」
「何をわけ分からんことをほざいてるんだっ!?」
ちょっと上手いこと言えたと思ったんですけどねー。心のエンジンは恋のエネルギーで満タン……。やっぱ、いい感じの言い回しだと思うんですけど。
「貴様、数年前にここで俺を殺しかけたのを忘れたわけではあるまい!」
そうです。思い出しました。私が1年の時。先輩が3年の時。忘れもしません。先輩の卒業式後、ここで私は先輩に告白しようとして突撃し、勢い余って先輩を突き飛ばしてしまい、先輩は軽トラに轢かれて腕を骨折したんでした。あの二の舞を再び演じるわけにはいきません。
私は慌てて足を止めました。アスファルトの上を靴底のゴムが擦ります。子供向けの漫画とかだとここでゴムが磨り減ってこげたり火花が散ったりするんですけど、現実、そんなことはありません。せいぜいがアスファルト上に薄く積もった砂(おそらく校庭の砂が風に巻き上げられて飛んでくるのでしょうね)が舞い上がって砂埃を立てるくらいです。
と、その砂の粒が少々大きかったのか私の靴底がずるりと滑って、すってんころりんと私はその場で転んでしまいました。こう右足が上滑りして、お尻から地面に。咄嗟に突いた手が、特に手首が痛いです。
「あー! もう! 俺が怪我しなかったらお前が怪我するんか!?」
先輩がイライラした様子で駆け寄ってきました。
「大丈夫か? 立てるか? 痛いとこは?」
「はい。たぶん。手首」
先輩が立て続けに質問してきて、私は忠実に答えました。それから、よいせと立とうとしました。いつまでも下校する生徒の群れの中で尻餅ついているのも、さすがに恥ずかしいですからね。
「こら。立つな」
ところが、先輩に両肩を摑まれ、無理矢理尻餅続行をさせられました。は、まさか、周知プレイを!?
「しゅうちの字が違う。まぁ、確かに、お前が尻餅しているのを周知させてはいるが。勿論、羞恥プレイでもない」
先輩は私の前にしゃがみこむと私の両手を掴みました。いつもみたいにぎゅっと強く掴むんじゃなくて優しく硝子細工を持つように持ってくれるんです。こんな繊細な扱いされたのたぶん初めてですよ! あ、それだけで、興奮して、鼻血出そうです。
「手を突いたのか。阿呆め。手首が折れてはどうする。馬鹿者。ちょっとした事故でぽきっといってしまうこともあるのだぞ? このボケ。まぁ、幸い大事はなさそうだがな。まったく、愚か者」
「合間合間に貶さないで下さいよー」
阿呆とか馬鹿とかがなければもっと良い感じだったのにー。何で、こう台無しにしてしまうんでしょうか?
阿呆とか馬鹿とかがなければもっと良い感じだったのにー。何で、こう台無しにしてしまうんでしょうか?
「煩い。貴様が阿呆で馬鹿でボケな愚か者だから悪いのだ。あー、ほら、手の皮が少し剥けているではないか。血は出ていないようだがな」
先輩は私の手を取って、砂を払ってくれます。
「ケツは? 痛くないか?」
「ケツって言わないで下さいー。お尻と言って下さいー」
「ケツも尻も一緒だろ」
「一緒じゃありませんよー。感じが違うでしょー」
「どっちも一緒だ。少なくとも、俺には同じにしか思えん」
「どっちでもいいならお尻って言って下さいー」
「そもそも、何故に尻はよくてケツはいかんのか?」
「何かケツっていうと汚い感じがするんですー」
「じゃあ、汗臭い男の尻って言ったら、汗臭い男のケツよりもマシだっていうのか?」
「それはどっちも汚い感じがしますけどー」
「人の往来の真ん中でケツだ尻だ言い合うなよ。処女、乳の次は尻か」
いつの間にか背後に来ていたススが呆れ顔で言いました。仰るとおりです。
「貴様のせいで須々木に注意されたではないか」
「先輩のせいですよ」
「どっちでもいいから、さっさと立ち上がったらどう?」
ススはすっかり呆れ果てたようです。まぁ、さっきの台詞のときから呆れていたようですがね。
「ほら、立てるか?」
先輩は私の両手を持って、優しくゆっくりと引き上げてくれました。
「大丈夫か? 足とか挫いてないか?」
表情はいつも通りむっつりと不機嫌そうな顔をしていますが、その言動は何故だかいつもの先輩ではありえないほどに優しいです。
いや、まぁ、彼女がコケたら「大丈夫? 怪我ない?」とか聞いて優しく立たせてやるのが彼氏としては普通なんでしょうけど。先輩にそんな普通の優しさを求めるなんてことは無意味なことですし、そもそも、間違いです。そんな優しさを期待する人は先輩の彼女になれません。友達にもなれないでしょう。
そんな彼氏としてというか人間としてどうかというほどに優しさを持ち合わせていないはずの先輩がこんなに普通に(まぁ、かなり馬鹿にされましたけど)優しく接してくれるなんてことは異例であり、驚くべきことなのです。
そんなわけでついつい私は口を滑らせてしまいました。
「……何だか、今日の先輩。やたらと優しいですね。ちょっと気持ち悪い」
「何だと!? 貴様! いっつも優しくしろ優しくしろ言ってるくせに、いざ、優しくしてやると気持ち悪いだと!? 馬鹿も休み休み言え!」
あぁ、せっかく、さっきまで優しい先輩だったのに、あっという間にいつもの人を怒鳴ることが趣味みたいな怒りっぽい先輩に逆戻りしてしまいました。豚も煽てれば木に登るというのだから、先輩も「先輩ってこーいうときは優しいんですね。そーいうとこ好きです。テヘ」とか言って煽ててもっと優しくなってくれるように仕向けれるべきでした。失敗失敗。
「はぁ、まぁ、いい。ほら、大丈夫か?」
先輩は呆れ顔で言いました。何だか、凄くあっさりと引き下がってくれました。これもまた珍しいです。先輩は人のことをねちねちねちねち虐めるのが大好きなんです。それが、こんなにあっさりと「まぁ、いい」で済ましてくれるとは。
それから、私のお尻をぺんぺん叩きました。
「あ! セクハラですかー?」
「ちゃう! 砂埃を払ってやってるだけだろ!」
「分かってますよー。ノリで言ってみただけですー」
「ノリでそーいうことを抜かすな! ボケ!」
先輩はまたぷりぷりと怒りましたが、すぐに溜息とともに「まぁ、いい」で済ませてしまいました。これは何とも不思議なことです。何故に、先輩がこんなに心優しい(普通の人に比べればさしたる優しさでもありませんけど、先輩にしては大層な優しさなんです)のか不思議でしょうがありません。
「先輩ー。何で、今日はこんなに優しいんですかー?」
「……俺が貴様に優しくしてはいかんのか?」
「いや、いかんことは何もないし、これからもそーしてくれると私としては嬉しいのですがー。あ、勿論、私は先輩に他の人と同じような優しさなんて求めてませんよー? 普通の優しさが欲しければ、先輩となんか付き合いませんからねー。でも、やっぱり、先輩はちょっと意地悪が過ぎるっていうか、もうちょっと優しくてもいいかなーって、少なくとも人間として真っ当な程度の優しさは持っていて欲しいなーって思うわけですよー」
「貴様は俺を馬鹿にしているのか? それじゃ、俺がまるで血も涙もない鬼畜のようではないか」
そんなつもりはないんですけどねー。