偏屈先輩が帰省なさる訳
俺が電車に揺られている事の発端は昨夜に遡る。
昨日の昼間は知人が大勢集まっている衆人環視の中、絹坂と今思い返せば凄まじく低レベルで下らない糞みたいな口喧嘩をした挙句、包丁で刺されそうになったというか、ちょっと刺されて今も脇腹が少し痛むのだが、そんなことは瑣末な問題ということにしておく。
まあ、色々あった結果、俺は絹坂と男女交際する羽目になったのだが、そこからが大変だ。
絹坂は夏休み中ずっと俺の部屋に寄生していたわけだが、その間、絹坂の立場は俺の後輩であり、俺から見れば妹かペットみたいなもんだった。
しかしながら、絹坂の告白を俺が受諾した時点でこの関係は大いに変化することは言うまでもない。つまり、俺は絹坂の先輩で彼氏。絹坂は俺の後輩で彼女というわけだ。
絹坂は今までだって俺にべたべたとくっ付いて甘えていたが、そいつが彼女という大義名分を得ればどーなることか想像に難くない。
「先輩ー先輩ー」
と、べたべたくっ付くのは、まあ、前からだから、まだ良いとしても、
「先輩ー?」
「……何だ?」
「ちゅーしてください」
上目遣いにそんなことを10分毎に言われては、大変対応に困る。
しかも、絹坂はへらへら笑っているように見えて、目は凄いマジで本気で、全然笑ってないっていうか恐いくらいにギラギラ光って俺を見据えていたのだ。
更には妙に強い力で俺を押し倒そうとまでしてきて、俺は結局絹坂と1時間も無言の押し合い力比べを行ったのだが、絹坂が一瞬バランスを崩したとき、巧く流して、絹坂は頭をテーブルにぶつけて静かになった。一件落着。
とりあえずゆっくり風呂に入ってから、身体をバスタオルで拭いていると電話のけたたましい音が鳴り始め、俺はバスタオルを身体に巻き付けたままで慌てて電話に出た。電話に誰も出んわという状況は避けるべきだ。そこ。ここは笑うところだ。そんな冷たい苦笑をするな。
「もし」
「あっ! 双葉っ!?」
俺が電話での常套句である「もしもし」を完全に口にする前に受話器から女のでかい声が聞こえてきて俺は耳を電話機から離した。
「何だ。貴様か」
「あんたねぇ。姉さんに向かって貴様って何よ! 相変わらず失礼な奴ねぇ」
受話器から聞こえてきたのは俺の愚姉の声だ。俺の姉は樹という名で、俺よりも3つ年上で、今は大手新聞社の社員で、記者見習いみたいなことをしているらしい。あんまり興味も無いのでうろ覚えだ。
「あのさぁ。双葉」
「その名を呼ぶな」
「いや、だって、あんた、双葉じゃん」
その言葉に俺は閉口するしかない。何故なら、俺の名は「双葉」なのだ。何だって、こんな女みたいな名前なのか大変に不満だ。故に友人にも知人にも誰にも彼にもできるだけこの下の名前を教えないし、言わせないようにしている。呼んだらキレる。
しかしながら、家族である姉が苗字で俺を呼んでは意味不明なので、下の名を呼ぶのは当たり前である。
でも、嫌なのだ。なんだって、こんな名前にしたんだっ!? あの糞親父めっ! ぶっ殺してやりたいっ!
「それでさ。双葉」
「その名を呼ぶなっ!」
「いや、だって、あんた、双葉って、これ、繰り返すの?」
繰り返すことに意味はない。意味はないが、双葉と呼ばれるのは嫌だ。
「あんたで良いだろ」
「自分のことあんたって呼べって奴なんか初めてよ」
姉の呆れたような声が聞こえてくる。あいつに呆れられるのは業腹だが、ここは我慢する。ここで怒鳴って電話越しに口喧嘩するのは避けたい。昼間、怒鳴り過ぎて喉が痛いのだ。
「それでさ。あんた。まだ夏休みでしょ?」
小中学校及び高校の夏休みは8月をもって終結であるが(ちなみに、北海道はもっと早くて8月20日くらいには終了らしい)、大学生の夏休みは無意味に長いのだ。
「まあ、確かにまだ夏休みだが」
てか、どーでもいいが、着替えたい。夏ゆえ寒くはないし、部屋の中ではあるが、いつまでも全裸にバスタオル一枚という格好をしているのは気に入らん。
「じゃあ、あんた、ちょっと里帰りしなさいよ」
「はぁ?」
「はぁ、じゃないわよ。あんた、もうそっち行ってから一回もこっち帰ってきてないじゃない」
姉が言うとおり、確かに、俺はもう長いこと実家に帰っていない。俺が大学進学によりこっちに来たのは去年の春であるから、もう丸1年と5ヶ月程度、およそ1年半帰っていない。
しかし、俺は母上はともかく父とはあまり関係が宜しくない。というか最悪だ。
そもそも、今の大学に通っているのも父の意向を無視して勝手に決めたことなので勘当同然の状態なのだ。いや、まあ、毎日のように「出てけっ!」だの「死ねっ!」だの言い合うような父子関係だったので、俺が勝手に進学先の大学を決めた時に親父が言った「出てけっ!」に勘当的な意味合いがあるのかどうかは不明だ。
まあ、ともかく、そんなわけだから、実家には帰り辛いのだ。それに、帰る意味も必要もないしな。
「まあ、確かに帰ってはいないが、帰る必要もあるまい」
「あるまい。じゃないわよ。母さん、心配してるわよ? 顔くらい見せに来なさい」
姉が言うことも尤もだ。父は論外としても、母上は結構良い人であった。穏やかで優しくのんびりとした人だ。凄くごくたまーに怒るのだが、その時は地味に凄く恐かった。
あとは、姉と妹か。そいつらは別にいいや。祖父さんもいいや。
「うぅむ。母上か……」
「そうよ。母さんよ。父さんはとか祖父ちゃんとかは別にいいとしても、母さんは心配させちゃダメよ。母さんは強そうに見えて弱いんだから。弱そうに見えて強いけど」
凄く矛盾している言葉だが、同じ母上の子供としては大いに頷ける言葉だ。あの人は強いんだか弱いんだか全くもって分からん。しかし、少なくとも我が家で一番強いことは確かだ。誰も母上には逆らえないというか敵わんからなぁ。
「母上に心配をかけるのは俺の本意ではないし、母上の心労を解消することは吝かではないのだが、しかし……」
「しかし?」
「めんどい」
受話器の向こうから呆れたような溜息が聞こえた。嫌な予感がして受話器を耳から離す。
「いいから来なさい! あんたが来なかったら家族でそっちに押しかけるからね!」
受話器から姉の怒鳴り声が聞こえてきた。離して正解だった。離していなかったら鼓膜が損傷していたな。
しかし、押しかけられるのは勘弁願いたい。せっかく、俺の部屋から寄生していた厄病女神が退去するのだから、そこへまた何かがやってきて居座ることは何としても避けるべきだ。
それに、母上の心労を解消してやりたいというのも本心だ。うちの家族は皆母上に弱いのだ。
「仕方あるまい」
俺が呟いた時だった。
「せせせせせせ先輩ぃぃっ!?」
いつの間にか目を覚ましていたらしい絹坂が顔を真っ赤にして目をぎらぎら輝かせて俺を見据えている。今、俺は風呂上りの真っ裸にバスタオルで大事な部分を隠しているだけという状態だ。
「何何っ!? ちょっと! 今、女の子の声が聞こえたわよっ!?」
受話器から興奮した姉の声が聞こえてくる。うざ。俺は黙って受話器を電話に叩きつけた。
「せせせ先輩ー。はぁはぁ……」
「おい、絹坂。何でそんなに顔が赤いんだ?」
「それは先輩の裸を見て恥ずかしいからですー」
「何でそんなに息が荒いんだ?」
「先輩の裸を見て興奮しているからですー」
「何でそんなにじり寄ってくるんだ?」
「先輩を食べちゃうためですー」
以上、赤頭巾ちゃん風会話。
この後、絹坂と俺の力比べ第2回が起きたのは言うまでもない。
はい。先輩の名前です。双葉ちゃんです。呼んだら殴られます。
ついでに先輩の姉上も受話器越しで登場です。