Rescue Operation
予定通り、今回で麦野琴美の話は終わりです。
エピローグも忘れずに読んで頂きたくようお願いします。
眼前に広がる、周囲を月光によって照らされ仄暗さを演出している平地。ただ、いくら月光に照らされているとはいえ、流石に少し遠くとなると鮮明には見えない。来る際にリュックに入っている懐中電灯を持ってくれば良かったと後悔する。
それでも、何かヒントを求めて辺りを見回してみる。すると、運良く右斜め前方少し行ったところに動かない人影を見つけた。瞬間それに向かって、急いで走り出す。
進む。徐々に近付いていく。加速する。そして、十秒程で目的地に到着する。
今俺のすぐ正面にある、膝ぐらいまでの大きさと多少の凹凸を併せ持つ石。その上に麦野さんは座っていた。
ただ、俺の立ち位置とは逆方向に向いている為、背中しか見えていない状態だ。
俺は、自分の中で威力を増していく鼓動を感じながら、声を絞り出す。
「……麦野さん……」
その声に返答は無い。
しかし変わりに、麦野さんの右手は顔の中心辺りまで移動し甲が押し当てたられた後に、左右に数度動かされたのが見えた。
俺は素早く麦野さんの右隣に移動する。麦野さんが座っている岩とほぼ同じ大きさの岩が丁度良く設置されている為、足は伸ばし両手は尻より後ろに突いた状態でそれに座る。
そのまま、左隣にいる麦野さんを横目で見る。
麦野さんは俺とほとんど同じ体制で座っている。しかし、顔は少し上に傾いていて動き出す気配は無い。
それから何秒程経っただろうか。いや、何分と言った方が良いか。お互いに何も喋らない。そんな時間が流れた。聞こえてくるのは弱々しい風で草木が少し程度揺れる音だけ。
その間も麦野さんの顔は動かなかった。
だが相変わらず顔は一ミリ程も動かさないまま、ようやく麦野さんが発した声によってその時間は終わりを告げた。
「……どうかしたんですか、幸村君?」
俺はふうっ、と先程とは原材料が違う息を吐く。
とりあえず完全に無視されるなんてことは無くて良かった。そんな安堵の息だ。
他にも、もしやさっきの声は聞こえて無かったのではないかとも考えたが、そっちの可能性も消えた。
閑話休題。さて、麦野さんが答えたんだ。俺も答えなくてはならない。
「あの……」
すっかりおとなしさを失った俺の鼓動は、更に騒々しさを増していく。
「正直に答えてください……」
心臓が破裂する。
そんな錯覚にも陥ってしまう。
「……麦野さんは……今皆といて楽しめていますか?」
自分で言っといてなのだが、心に何か鋭利な物が刺さったような。そんな痛みを感じた。
一方で少し疲れたのか上に傾けていた首を少し下げ、今度は正面に固定する麦野さん。ただ、それだけ。言葉は発さない。
再び風が孤独に仕事を続ける音だけが聞こえる。
今の俺の心中は、麦野さんの回答への恐怖と回答を聞いて早急に恐怖から解放されたいという願望。そして、その恐怖による回答しないで欲しい、その願望による早く回答を聞いて楽になりたい、という相反する二つの願望で埋め尽くされている。
しかしその願望はさっきより確実に早い、秒単位の麦野さんの回答により、最終的には後者が叶ったという結果になった。
「……全くでは無いですが、そこまでは……楽しめていないと思います……」
さっき刺さったものを更に押し込まれた。気がした。
俺は言葉を返せない。
しかし、その所為か、それとも元から言うことを考えていたか。数秒の間を開けて、麦野さんが言葉を継ぐ。
「でも、それは私の問題です。求人部の皆には感謝しています」
一拍置いて、
「勿論、幸村君にも」
そう言えば、麦野さんには優しい以外にも良いところがまだ多数存在している。その中の一つに、嘘を吐かないということがある。
麦野さんが嘘を吐いてるところは、見たこともなければ聞いたこともない。それぐらい正直だ。
だから、今言った言葉に嘘は無い。そう確信している。その言葉を聞いた瞬間素直に嬉しかった。体中の緊張が解けていくのも感じた。
しかし、すぐにまた体は強ばる。
……今の言葉は、本心ではあるがそれが全てでは無い。そう雰囲気が言っているから。 だから……。
「麦野さん。俺のこと怒っていますか?」
「…………」
回答は無い。
だから、俺は続ける。
「麦野さん。俺はあなたに謝らなければいけない」
「……何故ですか?」
そこに置くだけのようにポツリと喋る麦野さん。
それにしても、何故ですか、っか……。おそらく、それは麦野さんが一番分かってると思うんだが。
でも聞いてくるということは、俺のことを試しているのか。俺の口から聞くのを望んでいるのか。
まあ、どちらにしろ俺のやることは決まっている。
「……俺は麦野さんの優しさを利用して無理矢理この場に連れてきた。麦野さんの為等と自分に言い訳をして。皆のことも利用して。……そして、傷付けてしまった。今、麦野さんはただでさえ大きな傷を負っているのに……。――だから、本当にすいませんでした」
俺は石の上で麦野さんに向かって土下座をする。額が石につく。昼間に熱を帯びた石も夜の冷気に晒され、冷たくなっている。だから額が冷たい。でもやめない。
今まで土下座なんてもんはやられた側にとっては何のメリットも無い無意味な行為だとしか思ってなかった。
でも、本当に責任を感じて。なのにそれを伝える手段が謝罪と他には知らない。だから、これは俺に残された最後の手段だった。
「幸村君、土下座なんてやめてください」
でも、やはり麦野さんはメリットどうこう以前にこんなことされるのを望んではいない。
だから俺は素直に顔を上げ、元の体制に戻る。
「……そうですね。正直言うと、少し怒っていますね」
やっぱり怒っている……。
「朝までは行く気なんか無かった。だから準備もしていなかったんです。なのにこっちの意見は無視されしたうえ、そっちは一方的に意見して、その上勝手に切って。……酷いですよ、幸村君」
正直少し肩透かしを食らった。
どんな罵倒も覚悟していたが、その口調は怒っているというには優しすぎたから。
でも、それでもまだ普段のあの心地よい声は再現されていない。
「でも、嬉しくもありました。普段強く言わない幸村君が、私と行く為にあそこまで言ってくれたんですから」
麦野さんの方を見る。
顔はまだこちらに向かない。
でも、何となく顔が綻んだような。そんな気がした。
しかし、
「だから、問題は私なんです」
その発言と共に再度顔が強ばった。ような感じがした。
「皆、私に気を使ってくれていましたよね。……でも、私はそれを素直に受け取ることが出来なかった。……私はそんな自分に一番怒っているんです」
麦野さんはまた少し上に顔を傾ける。
「だから、私の方こそすいませんでした。……そして、ありがとうございました」
凄い。この人は傷付けられても、傷付いても、ありがとう。そう言えるんだ。
本当に強い人だ。心からそう思った。
ただ、そう思う反面、
「……麦野さんは強いんですね」
分かっている。
「私が強い……ですか……。そう思うなら、それは幸村君の勘違いです。わたしは強くなんかありません」
そんなこと。
「今にも折れそうな心をなんとか必死に支えている。そんな状態です」
俺は少し目を見開く。
いくら強いといっても、一人の女性。しかもまだ高校生だ。なのに突き付けられた現実は大切な人の死。平気な訳が無い。どんなに笑顔を纏っても。どんなに強いところを見せ付けられても、そのほとんどはただの強がり。そんなの分かってた。
なのに俺は少し驚いてしまった。あの、麦野さんが何の躊躇いも無く俺に弱味を見せてきたことに。
俺が思っている以上に、麦野さんはもう自分ではどうしようも無くなってしまっているんだ。
……今言うしか無いと思った。
「……麦野さん。俺がここに来た理由は謝る為ともう一つあります」
「……もう一つ?」
「はい。いや。ここに来たというより、旅に行く前から決めていた。あなたに掛けてあげたかった言葉を言う為」
麦野さんは無言だ。
でも何だか、続きをどうぞ。そう雰囲気が言っている気がした。
「正直言って、俺には大切な人を失った経験は無いので、麦野さんの気持ちは所詮想像しか出来ません。……でも、麦野さんはあの日からずっと、苦しんでいる。どうしようも無い程辛い日々を送っている。それだけは分かるんです!」
さっきからの発言一つ一つに隠されていた、助けてという言葉。俺にはそれが聞こえた気がしていた。
「辛いなら……辛い時はもっと他人を頼ってください。一人じゃどうしようも無い時は他人に少し負担してもらっても良いんです。何でも自分一人で背負う必要はありません。その為の仲間なんですから。――それに、そういう時は俺が必ずあなたを救う! だから、一番に俺を頼ってください!」
あの麦野さんから電話が掛かってきた日。あの日以来、ずっと掛けてあげたかった言葉。
それをようやく言えた。
「俺は今まで人に救われてきました。中学の時。そして、高校でも。ついさっきも」
自然と声が大きくなっていく。
「それって、とてもありがたいことなんです。本当に嬉しくて、勇気が出て前に歩き出せる。だから、俺もあなたを救う!」
やばいな。結構な声量になってしまった。
周りは静かだし、テント内にも聞こえてしまっただろうか。
今更になって羞恥心と後悔の念が湧いてくる。
でもまだ言いたいことはある。
俺は少しボリュームを下げてまた喋り出す。
「俺は入学式の日。初めて会ったあの日からずっと、麦野さんの笑顔に救われてきましたから」
麦野さんは見ていない。だから意味は無いが笑顔を作ってみる。
「それに、何よりあいつら――求人部の皆もいますしね」
さて、麦野さんの顔はどうなっているのだろうか。
記憶を遡ってみると、なかなかに黒歴史化は間逃れないようなくさい発言ばかりしていた気もするが、実は笑ってたりしないだろうか。
しかし、そんな俺の心配は杞憂に終わる。どころか、次に麦野さんが口を開いて発した言葉は、俺どころか億万トレーダーでも予想は不可能であろうものだった。
「……だからこそ苦しいんです」
「えっ!?」
その言葉を聞いた時は、聞き間違いではないかとも思った。
だが、聞こえた言葉に一切の間違いは無かった。
「皆には本当に感謝しています。とても辛くて、一人じゃどうしようも無い時に傍にいてくれて。飛鳥君も葵ちゃんも、野坂君も。皆私に気を使って話しかけてくれて、心を支えてくれました」
だったら、やっぱり――
「――でも、そんな優しい皆だからこそ辛いんです」
麦野さんは膝を軽く曲げ、それを腕で囲む姿勢に変えながらそう言った。
よく意味が分からない。
頭が混乱する。
どういうことだ。助けられて、でもそれが辛い!? 矛盾、していないだろうか?
「――離れるのが」
ここで俺の混乱は頂点に達する。いや、パニックになったと言った方が正しい。
皆と離れる!? どういうことだ。話が急過ぎる。理解出来ない。
「どういう意味なんですか?」
とりあえず現状把握が第一だと考え、聞いてみる。
しかし、なるべく冷静に聞くように意識したつもりだったが、効果は薄く少し声が震えてしまった。
「……私、転校することになるかもしれないんです」
……転校?
頭にとてつもなく大きくて硬い物がぶつかったような。そんな衝撃に襲われたような感覚に陥る。
麦野さんが転校って、そんな急に? それに、転校ってもう麦野さんとはほとんど会えなくなるってこと、なのか……?
衝撃が強すぎて俺は言葉を返すことが出来ない。
「親戚が一人になった私を引き取ってくれると言ってくれて。でも、その親戚の家は、今の学校からは遠い所にあって、通うのが難しくなってしまうんです」
言葉が出てこない俺とは対称的に、説明を始めた麦野さん。
しかし、今の発言で気になったことが二つある。
俺は何とか自分を取り戻してその内の一つを質問する。
「一人になった私って、お父さんは、」
途中で言葉を止める。
何故、俺は聞いてしまったんだろう。後悔する。
聞かなくても分かることのはずなのに。
「お父さんは、小さい頃からいません」
麦野さんはぎゅっと少し腕を狭め、膝への圧迫を強くした。
俺の全く予想した通りの答えだ。
「……すいません」
俺は少し間を置いて謝罪をする。
それに対して麦野さんは左右に一回ずつ首を振った後、説明を再開する。
「だから、お母さんは私が小さい時からずっと一人で育ててくれたんです。そんなお母さんが私は大好きだった……」
麦野さんは説明を続ける。
その声は静かに、だが震えている。
「でも去年の九月急にお母さんが倒れて、入院したんです……。病気は癌。長期入院は確実でした。だから、元々仲の良かった親戚の人は私に、お母さんが退院するまで家に来ないかと言ってくれました」
麦野さんの声の震えが酷くなる。
「でも、病院は私の家の近くで、その人の家はさっきも言った通り、遠い。つまり、もし行ったら私はお母さんに会うのが難しくなってしまう。だから、私は今の家に残ることを選択したんです。毎日お母さんを励ましたいと思ったから。勿論親戚には反対されましたが、無理を言って認めてもらった。そして、親戚の人はそれを認めてくれた上でそれならばと、色々な面の資金援助までしてくれたんです。今高校に通えているのもそのお陰なんです。進学をやめようとまで考えていた私に、お金は私達が何とかする。だから琴実は何も気にしないで、高校は通って。そう言って、私の希望に合う今の学校を勧めてくれたんです」
そういえば……入学してすぐの頃に山中さんにこの学校に来た理由を聞かれた時、麦野さんは確か親戚に勧められてって言ってた気がする。あの時は疑問を持ったが、なるほど。そういうことだったか。
それに、麦野さんがほとんど部活を早く帰っていた理由も分かった。
「でもお母さんが亡くなって、私は一人になって……。いえ、お母さんの病状が悪化していった六月辺りから、その親戚の人は今度は私を引き取ってくれると言ってくれました。それは本当にありがたいこと。そして私にはもうこっちに残らなくてはいけない理由は無くなった。だから……」
だから、学校をやめる……?
やっぱり、意味が分からない。いや、言っていることは分かった。理解も出来た。でも、受け止めることは出来ない。
何故? 何故麦野さんがやめなければいけない。納得できない。他の手もあるはずだ。
俺は持っていた二つ目の疑問を投入する。
「何で……何でですか!? 親戚の人が麦野さんの家で一緒に住めば良いじゃないですか。もしくは、麦野さんが一人で住めば良い! 高校生なんだからそれぐらい出来るじゃないですか!」
言ってる内に声が荒げていく。自分でコントロールが効かなくなっていく。
何言ってんだ、俺。やめろ。分かってる、そんなの。
「何で俺らと離れる方をわざわざ選ぶんですか! 意味が分かりません!」
何言ってんだよ、俺は。
言いながらも本当は分かっている。その理由も。意味も。でも、やっぱり納得だけは出来なかった。急遽強いられた別れという選択肢に。
「……すいません」
未だに震える声でそういう麦野さん。しかし、必死に感情を抑えようとして喋っている。そんな意思も感じる。
――何で麦野さんが謝る? いや、何で謝らせてんだ、俺は。
俺は自分の胸に手を当てて、意図的な呼吸を数回繰り返す。少し冷静さを取り戻す。
「いや……。俺の方こそすいませんでした」
「でも、しょうがないんです」
俺の謝罪の終了とほぼ同時に喋る麦野さん。
でも、しょうがない、か……。
「私には私の大切な環境がある。でも、それは私だけじゃないんです。もしこっちに来ることになったら親戚の人は仕事はやめることになってしまう。つまり、どちらかが譲る必要があるんです」
だから……。だから、自分が……。
「私は、それまでも色々な面でお世話になった。一回は我が儘も聞いて貰ったのに、今までずっと。いや、これからも助けてくれる。本当に感謝してもしきれません」
続きの予想は容易だった。
というより、最初から分かっていた。
「――だから、私が譲るんです。二回目の我が儘を言う訳には行かないんです。それに、それで済むんですから……」
抑えが効かなくなった麦野さんの感情が徐々に声に含まれていく。体も小刻みに震えている。それと共に、元の足を伸ばした状態に戻す麦野さん。
俺は手を握りしめる。
「一人で暮らすにしても、そっちの方がお金がかかってしまう。――私には選択肢は一つしか無いんです!」
その言葉と共に、今まで固定されていた麦野さんの顔が静かに右に移動する。
……やっぱり、この人は自分を犠牲にしようとしている。それで解決しようとしている。
でも、ようやく見れた麦野さんの顔。その今にも泣き出しそうな弱々しい顔からは、抑えきれていない麦野さんの本心が伝わってくる。語りかけてくる。
だから俺は、麦野さんに自分自身の口から言わせなければいけない。そう思った。
「なるほど。大体の事情は理解出来ました。……でも、麦野さん自身はどうなんですか?」
「えっ!?」
俺の言葉に対してきょとんとする麦野さん。不意の質問に驚いたのか。いや、質問の意味が良く分かっていないといった意味合いの方が大きいだろう。
ならば、はっきり伝えよう。
そして、俺自身の気持ちも伝えたい。叫びたい。
「俺は、嫌です! 離れるなんて嫌だ! あなたは高校に入って、一番最初に俺に話し掛けてくれた。不安でしょうがなかった俺の支えになってくれた人! 綺麗で優しくて、いつも心を癒してくれて……ずっと一緒にいたいと思わせてくれる! だから、俺はあなたといたいんです! どこにも行って欲しくなんかない!」
本当に叫んでしまった。勿論羞恥心はまだある。でもそれ以上に叫びたかった。この想いを伝えたかった。そういう欲求の方が大きかったから実行した。
一方麦野さんの方は、呆然としている。
しかし十秒程経過してから今度は顔を伏せる。
「確かにさっきの麦野さんの説明は分かりました。でも、俺はその中であなた自身の本当の気持ちはまだ聞いていません。こうしなければいけないでは無く、麦野さんはどうしたいんですか」
唇を開いた後に一度噛み締めてから、もう一度開いて続ける。
「麦野さんは、俺達と離れたいんですか?」
沈黙。
風の音。何だか、久しぶりに聞いた気がする。
その中に一つの音が混ざる。
「――無いじゃない……」
麦野さんの声も体も、もう抑制する力は無いように震えている。
麦野さんは顔を上げる。
「そんな訳、無い!」
麦野さんからは聞いたことない口調。
そして、
「離れたい訳無いじゃないですか!」
目からは雫が垂れている。
――泣いていた。ずっと堪えていたものが抑えきれなくなったように。
「私も皆と一緒にいたい! 出来れば離れたくない! 良い人ばかりで、本当に楽しいことばかりだった! 高校に入って良かったって本当に思わせてくれた! 私の大切な人達! 離れたくなんか無い!」
口調だけじゃない。最早絶叫だ。今までこんなに麦野さんが意思を示したことは無かった。
「大切だった、大好きだったお母さんを失って、また大切な人達を失うなんてもう嫌だ! あんな悲しみはもう味わいたくない! 私ももっと皆と一緒にいたい!」
麦野さんの本心。俺の感じた通りだ。
「でも、それは出来ないんです……」
再び膝を圧迫して顔を伏せる麦野さん。
麦野さんがあの家に住むことはもう出来ない。親戚の家は遠くて通うのは困難。
確かに、厳しい。でも、良いことを思い付いた。手はまだあるんだ。
「大丈夫です。だから、ここにいてください」
麦野さんは俯いたまま。言葉は返ってこない。
俺は続きを喋る。
「あなたはいるべきだ。――それに選択肢は一つだけじゃないですよ」
顔を上げる麦野さん。ポカンといった顔をしている。
そりゃ、意味が分からないか。
「新しい選択肢。俺が毎朝迎えにいきます。どんなに遠くても。どんなに時間をかけても」
通うのは困難であって、不可能では無い。なら、俺が連れていけば良いんだ。
他から見れば頭が悪い考え方かもしれない。そっちの方が困難かもしれないが、俺にはそれが出来る気がするから。
「俺の自転車、機会も無いのに二人乗り出来るようになってるんですよ。だから、荷台の初めてはあなたに捧げます。毎朝あなたを乗せていきます!」
「……クスっ」
涙を手で吹いて、急に笑い出す麦野さん。久しぶりに見た。あの上品な笑いだ。
良かった。ようやく笑ってくれた。
「出会った時から思ってたけど、幸村君って本当に面白いですよね」
笑いながら喋る麦野さん。
嬉しいけど、今のは冗談では無い。
「俺は本気ですよ……」
麦野さんの笑顔が苦笑に変わる。
「……無理ですよ。その家からは、学校まで一時間以上かかりますし途中に険しい坂道も続くんです。私を乗せた上で毎日通うなんてとても……」
「俺は前言った通り毎朝運動して鍛えてるんで、大丈夫です。でも流石に最初はきついかもしれないんで、朝早く出ることになると思いますが。そこら辺は考慮お願いしたいです」
ここでまた首を傾ける麦野さん。
お互いに口を閉ざした静かな時間が流れている。
俺も少し上に首を傾ける。
無数に並んでいる小さな光の粒を擁する巨大な黒い平面。この夜空は見慣れたものであって、でもいつもとは違う。ここの星は綺麗だ。さっきから、いや、今もずっと麦野さんはこれを見ていたんだ。
しばらく眺めた後、俺は麦野さんの方に向き直す。
いつの間にか、麦野さんも俺の方を向いていた。
「……考慮しておきます」
相変わらずの苦笑でそう答えた。
その声はか細くすぐに闇に溶け込んでいく。でも、聞こえたその声からは、懐かしい、あの俺を救ってきてくれた優しい美声が確かに感じられた気がした。
「麦野さん。あなたはここにいても良いんですよ」
今度はちゃんと相手に向けて。笑顔でそう言った。
「……はい」
少し間を置いて、
「……ここのところ色々辛いことばかりでもうどうして良いか分からなかったけど……」
麦野さんは涙が止まらないその顔で精一杯の笑顔を作って、
「幸村君。本当に……ありがとう」
その後暫く、辺りには一人の女の子の泣き声だけが響き渡った。
☆★☆★☆★☆
「遅くなって悪い」
テントに戻ってから、顔の前で手を合わせながら皆に向かって謝る。
何分ぐらい話していただろうか。それは分からないが、とても長い時間であったのは間違いない。
そういえば、その間皆は何をしていたのだろうか。
「まあまあ、気にするなって」
「そうそう。ちゃんと二人で戻ってきたし、――それにこっちも楽しませてもらったしね」
「……でも、まさかあそこまではっきり言うとは……」
遅くなったことは別に気にしていないようで、俺と麦野さんを快く迎え入れてくれる野坂・山中さん・日向の三人。
と思ったら、日向は若干不服そうな顔しながら何か呟くし、後の二人はニヤニヤと他意を隠しきれていない笑みしてやがるし、最後の山中さんの発言も気になるし、どうも嫌な予感がしてきやがる。
背中から嫌な汗まで出てきやがった。
「「あの!」」
山中さんにさっきの発言の意味を聞こうと声を出したら麦野さんと被ってしまった。
「「あっ、すいません……。あっ!」」
とことん被ってしまう。
「ヒュー、ヒュー、暑いね、お二人さん」
そんな俺らを見て冷やかしてくる野坂。
何だ、この反応。
更にニヤニヤが増した野坂と山中さんの所為かもしれないが、今の反応は何故かやたらに引っ掛かった。
いや、まあでも、何も変では無い普通の反応だし、俺の考えすぎか。
「すいません、麦野さん。先、どうぞ」
「はい。じゃあ……」
皆の視線が麦野さんに集中する。
俺も勿論見る。
麦野さんは、何かを決心した。そういう顔をしている。
泣いた所為で腫れていた目は、少し引いてきたとはいえまだデフォルトには戻っていない。誰も指摘しないのは優しさ故だろうか。
ちなみに、俺は完全に引くまで外にいた方が良いと言ったのだが、麦野さんは皆を待たせすぎる訳にはいかないという固い意志をお持ちになられていたので、それを尊重し戻った。
……本当に根っからのお人好しだ。この人は。
「皆さん、すいませんでした」
深々と頭を下げる麦野さん。
誰も何も言わない。ただ次の言葉を待っているようだ。
「皆私を励ましてくれようとしていたのに、一日中暗い顔ばかりしてすいませんでした。……でも、もう大丈夫です。だから――これからもよろしくお願いしますね」
「「「「わぁー!」」」
麦野さんが言い終わった途端に、拍手喝采。日向に至っては、「ったく言ってくれんじゃねえか、こんちくしょー」とか性別どころか年齢詐称も甚だしい発言をしている。
でも何か良い場面っぽいが、ここってそういう場面か。という疑問は勿論あるがそんなの気にせず、俺も遅れて拍手をした。
そして暫くして拍手が止んでから、麦野さんがまた口を開く。
「……それから、野坂君」
「えっ、俺!?」
急遽照準が自分一人になり驚く野坂。
麦野さんはこくりと頷いてから、
「……あのメール返信出来なくてすいませんでした。だから今、私の口で返信させてください。――幸村君の想い、ちゃんと伝わりました。そして、ちゃんと受け止めることも出来ました。本当にありがとうございました」
そう言った。
「……そうか」
優しさを含んだ笑みでそう呟いた野坂。しかし、その顔は徐々に先程の憎たらしいニヤニヤ顔に変化していった。
「――いやー、それにしても、俺はずっとあなたと一緒にいたいんだは大胆過ぎたろ。ユッキー」
「なっ!?」
なっ、何ー!? そっ、それは……
「まっ、まさか……」
「そう。俺ら全員、テントから少し出てちゃんと聞いてやっていたぜ」
「ぎゃあぁぁぁ~」
思わず叫び声をあげてしまう。
そうか……どうりで、こいつらがやたらと冷やかして来るわけだ。麦野さんの目が腫れてるのを指摘しないのも事情を知ってたからか。
うわっー! あの台詞を叫んでるの全て聞かれたのかよ! クソー! やばい。スゲー恥ずかしい。マジ、死にたい。
「良かったね、麦野。幸村が救ってくれるんだってさ」
「えっ、いや、あの……」
山中さんに茶化され、顔を伏せる麦野さん。
照れたその仕草はとても愛らしいが、今はそれどころではない。
「もっ、もう皆さん、本当頼むんでやめてください」
「えー! じゃあ私にも言ってくれたらやめてあげようかな。――いやー、誰か私にも言ってくれないかな。救うとか大切とか……」
ちらっと、横目で見ながら言ってくる日向。
俺は一旦落ち着いて冷静に答える。
「いや、無理」
「そんな冷静に! ぷんぷん。流石の私も怒ったぞー!」
いや、そんなぷんぷんとか言って可愛さアピール入れながら怒られても。
俺の日向への好感度はちっとも上がりやしない。
「まあまあ、日向。さて、この辺にしてやるか。このままじゃ、ユッキー、生きていけないって顔してるしな」
どんな顔だよっ! ってまあ、心情は本当にその通りなんだが。
「じゃあ、仕切り直してトランプやりますか!」
そう言って、人数分に分配していたトランプを皆に渡していく山中さん。
それを見て、本当にこいつらは待ってくれていたんだなと実感する。まあ、待ち方に問題が大アリだった訳なのだが。
「よし、配り終わったな。さて、じゃあ始めますか。――競技はさっきやる予定だったババ抜き! では、俺からスタートだ!」
「「「イエッサー!」」」
「えっ、何その掛け声!? いつの間に出来たんだよ!? ていうか、俺知らないのに何で麦野さん知ってんの!?」
ってな感じで始まったババ抜き。
「んー、……これだ! ……だー! 惜しい!」
「ババ抜きで惜しいって何だよ」
ってな俺と日向のやり取りも含めて、一時間程盛り上がった。その後は、皆やはり疲れが溜まっていたようで、男女一緒なことを気にせずにすぐに寝るを選択して、長かったキャンプ一日目が終わりを告げた。
エピローグ
一日目以降はこれということもなく、相変わらず太陽の鬱陶しさを感じながらも、俺達は自転車で進みながら仲間と、変わり行く景色を見るのを楽しんだ。
最初は渋ったりもしたわけだが、今は色々な意味で来て良かった。そう思える旅になったよ。
んで、そんな旅は野坂が皆の疲労が激しいことを考慮して三日目に終了。
まあ、俺が見た感じだとあいつが一番疲れていたように見えたんだがな。何せ一番重い荷物を持ち続けたんだ。当然だと思うんだが、あいつは強がりからか自分が疲れたとは一言も言わなかった。
最終日はもと来た道を戻り、集合場所であった青いコンビニで解散。その時点で既に辺りは暗かったが、そこから一人で家路を進むと到着は九時くらいになった。
到着後はひとまず風呂に入った後に、飢えた獣の気持ちはこんなんかと理解しつつ、欲に支配されながら真っ直ぐ自分の部屋に直行。久しぶりの布団の感触をたっぷり味わいながらすぐに眠りに着いた。
それから一週間。
いくら鍛え上げられていた俺でも、流石に今回はきつかった。風呂場のカビ並にしつこい筋肉痛に未だに襲われている。
まあ、三日目までの筋肉崩壊を促すようなあの痛みに比べれば大分マシにはなったのだが。
そんな訳で家どころか部屋からも一歩も出たくない俺に対して、あろうことか母親はハンバーグにかけるソースを買ってきてくれ等と、厚さマイナス五センチの厚意をプレゼントしてきやがったのだ。
自分で買いに行けやとか、醤油で良くね? とも勿論思ったが、よく分からんが忙しそうだし、どうしてもソースじゃないと食べられない等と訳分からないことをおっしゃられるので仕方なく行ってやった。
で、今コンビニからの帰りで家の近くを、筋肉への刺激を減らす為にゆっくり自転車を漕いでいたら、たった今通り過ぎた家の辺りから声を掛けられた。
「あれっ、幸村君!?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれた俺は止まって、そっちの方向を見る。
――そこには、麦野さんの姿があった。