マイナス三日目。
1
「夏休みもあと三日だな! お前ら、冬休みはこうなるんじゃないぞー?」
教室に、明朗な声が響く。その声で起きた。
若い男の声だ。確か数学担当の四木とか言っていたような気がする。俺と同じ名字だけど漢字は違うのか、とか考えた記憶がある。
少し眠っていたらしい。夢を見ていた。あの頃の。あいつの――いなくなってしまった、あいつの。
今でもはっきり頭に残っている。声も、笑顔も、手の感触も。
……未練がましいな。
頭を振って、考えるのをやめた。
ちなみにここは教室だ。
四木教諭が言っている通り、今は夏休み。細かく言えば八月十八日。ここの辺りだけかどうか知らないが、三学期制の公立は二十日前後で夏休みが明け二学期が始まるのだ。
では何故ここにいるのか? 補習だ。
何気なく窓の外を眺めると遠くをゆったり流れる綿のような雲が見え、耳に入るのは蝉のうるさい鳴き声と、そんな蝉に負けない四木教諭による無駄に元気な声でのサインコサインタンジェント。呪文か。横文字解せぬ。
三倍角の公式がどうのとのたまう四木教諭の声をBGMに、とりあえず注意されない程度に授業を受けているフリでもしておこう。
ディスカウントストアで買った、二本で税込五十三円の安物シャーペンをとり、ノートに呪文を綴る。どこかの委員長様に今度訊いておかないと、赤点まっしぐらだ。面倒なことは出来るだけ回避したいものだ。
さて、続きの数式でも書……。
「……あうー……」
「…………」
黒板にでかでかと書かれている図を写し終えて再び前を向くと、目の前に、目を瞑ったまま涙を滲ませ呻いている生徒の顔があった。
同時に、床に何か落ちる音がする。目を移すと、だらっと力なく垂れている両手から落ちたのだろう、小さく可愛らしいマスコットキャラがついているシャーペンが転がっていた。
この子らしいセンスだ。クラスメイト、補習仲間の女子である草葉弓智の顔をなんとなく見ながら思う。
「分かんないようー……」
今にも死にそうな声で、草葉がうっすら目を開ける。目が合う。
「…………」
「…………」
無言で二秒ほど見つめ合った後、
「し、しし、志葵く、っ!?」
草葉は目を見開き、その顔が真っ赤になった。
ついでにどこか口の中を噛んだらしく、「むぅっ!?」と口を手で押さえながら跳ね起き、机に突っ伏して震えている。
「……大丈夫?」
「あふぅ、ら、らいじょうぶ……!」
無理な笑顔だった。
芯を出すとき痛くないのかとか考えながら、床に落ちたシャーペンを取り、渡してあげることにした。
「ほい」
「ありがと……」
草葉はペンに手を伸ばし、受け取る。
その時に少しだけ、俺の手に草葉の指先が触れた。
「あっ、う、ごめんなさい!」
瞬間凄まじい勢いで、弾かれるように草葉が手を離した。なんだこの迅雷の如き俊敏さは。
「気にしなくてもいいよ。ちょっとだし、別に草葉なら嫌じゃないし」
「っ――!?」
俺がそう言うと、草葉はこれまたいい勢いで前を向き直った。今の発言、ちょっと気持ち悪かったか……? 耳まで赤くして……そんな、憤怒するほど嫌なのか。
春先に入学して草葉と同じクラスになり、何回もこういうことが起きている。俺は嫌われているのかもしれない。もしや、それなのに何度も話しかけてくるのは罵倒がしたいからなのか……。
ふと、耳に染み付いた呪詛のような言葉が蘇る。
『しにがみだ! こいつといると死んじゃうぞ!』『うっわ、机さわっちゃったぜ! 感染して死ぬー!』『やだ、怖い、こっちこないで……!』『うう、ママを返してよ……』『あきちゃんを泣かさないでよ!』
あの頃のクラスメイト。
『なんで、あんなに人が死んだのに生きてるんでしょうね?』『あの子、小学校で死神、って呼ばれてるらしいわよ』『ひどい話ね……でも、なんで生きてるの、っていうのが三度もあれば、それも納得しちゃうかも』『よねー』
近所の人達。
『やめなさいよっ、あんたたちっ!』
――これは、あいつ。救いだったのかもしれないが、今は……いない。
切り替わる。草葉に嫌われているのかもしれない、と考えても、痛むはずの心は荒みきっていた。
まあ、いい。避けられるのは慣れている。
心を洗い流し、ぼーっと、何も考えずに補習授業を受けた。
2
まだ続くよ!(10/13)