プロローグ。
「こっちにきなさい、さとり!」
あの頃は、ぞんざいに呼ばれることに納得していなかった。
まるで彼女は自分の召使いを呼ぶように「さとり!」とはっきり。言葉にさえ乗っているような気がする『呼んだら来るものだ』という確信をどうして抱いているのか、分からなかった。
正直――今でも分からない。
「なんだよう」
「お話するわよ」
「はあ」
おまけに自分勝手だった。
それだけぇ、と小さく溜息をついたさとりなど見えないかのように、或いはそんなものは関係ない私の話を聞けと言わんばかりに、彼女は嬉々として語る。
「あたしね、海外旅行に行ってくるの!」
「……海外?」
そういえば夏休みだった、とさとりは思い出す。
一年前のあの日から、夏休みや冬休みといった長い休みは嬉しいものではなくなっていた。
宿題をやる代わりに、学校でクラスメイトに会わなくてもいいんだと考えると多少嬉しくはあったが。
「外国よ外国! 二週間も、アメリカに!」
「アメリカ……」
頬を浅く染めて来たる旅行の時を珍しくオーバーに楽しみにしている彼女の前で、しかしさとりは不安になってしまう。
アメリカというと、
「あ、危ないよ!」
こういったイメージしかなかったから。
彼女はそんなさとりを見て、可笑しそうに笑う。
「あっはははは! さとり、大丈夫よ! お父さんもお母さんも一緒なんだから!」
それに、と付け加え、彼女は自分より頭一つ分小さなさとりの頭に手を置いて、胸の中に抱き寄せた。
「ふわっ――」
「……あたしはちゃんと帰ってくるから、待ってなさいよ」
素っ頓狂な声を上げるさとりを優しく抱いて頬にキスをする彼女は、少し恥ずかしそうだった。
もちろん、その彼女以上に恥ずかしかったのだけれど。
「…………」
数十秒は抱き合っていた。ゆっくりと彼女は腕を解き、数歩下がって両手を自身の後ろで組む。
さとり、と名を呼んで、少し前屈みになる。そのまま間を詰め、
「ん」
可愛らしく目を瞑ったと思えば、唇に柔らかい何かが触れた。
「あたしはさとりが好き」
照れたように、歳相応に微笑んで。
「絶対、帰ってくるからね」
そんな彼女は、耐えかねたように踵を返し、
「待ってなさいよ!」
そう言って、駆けていった。