殿下の『いつも通り』を半年分数えましたら、遅刻は三十分に伸びておりました
王立庭園で開かれる献花の儀は、王家と縁のある貴族が一堂に会する、年に一度の公式行事だった。庭園には白と紫の花が丁寧に飾られ、楽団が静かな旋律を奏でている。私、エヴリン・ダルトワは、婚約者である第二王子セドリック殿下の到着を、他の招待客と共に待っていた。
セドリック殿下は、明るく人当たりの良い方だった。婚約が決まった当初、私はその気さくな人柄を好ましく思っていた。多少の遅刻も、忙しい公務の合間を縫っての婚約者付き合いなのだから仕方がない、と最初のうちは自分に言い聞かせていた。
式典開始の合図となる鐘の音が、庭園に静かに響いていた。定刻を十五分過ぎた頃、ようやく殿下の馬車が到着した。彼は悪びれる様子もなく、爽やかな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「やあ、待たせたね。いつも通り、少し遅れてしまった」
周囲の貴族たちは、慣れた様子で苦笑いを浮かべるだけだった。「殿下らしい」「いつものことだ」という空気が、当たり前のように場を満たしている。私だけが、表情を変えずにその場に立っていた。
「いつも通り、でございますか」
「ああ。まあ、今日くらいは大目に見てくれ」
近くに立っていた年配の伯爵夫人が、小さく私に耳打ちした。
「殿下は昔からああいう方ですから。あまり気に病まれませんように」
伯爵夫人は、悪気のない口調でそう言った。それが、この場に集う誰にとっても当たり前の認識になっていることを、私は改めて思い知らされた。
「ご心配をおかけいたします。ですが、今日は少し、事情が違うのです」
伯爵夫人は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も尋ねなかった。
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私は静かに口を開いた。
この半年、何度も同じ言葉を聞いてきた。「いつも通り」。最初は微笑ましく思っていたその言葉が、今では違う響きを持って耳に届く。
「殿下。その遅刻を、『いつも通り』とは申しません」
セドリックは一瞬、意味を測りかねたように眉を上げた。
「いつも通りだろう。今さら何を言い出すんだ」
「いいえ。今日、私が申し上げたいのは、まさにその『いつも通り』という言葉についてでございます」
周囲がわずかにざわめく。侍従長オーウェンが、少し離れた場所から静かにこちらを見守っていた。
「私は、殿下との待ち合わせの刻限と、実際にいらした時刻を、この半年間、控えてまいりました」
「……何のために、そんなことを」
「最初は、単なる記録のつもりでございました。ですが、今日、それをお見せする時が来たようです」
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私は持参していた手控えを開いた。半年分、几帳面に書き溜めてきた記録だった。
「三月十二日、待ち合わせの刻限は午後二時。ご到着は午後二時五分。五分の遅刻でございました」
セドリックは軽く肩をすくめた。
「その程度、誤差の範囲だろう」
「当時の私も、そう思っておりました。ですから、この時点では特に気に留めておりませんでした」
「四月の茶会では、十分の遅刻。五月の観劇では、十五分」
私は、日付と時間を淡々と読み上げていった。近くにいた若い伯爵夫人が、小さく息を呑む音がした。
「その二回については、私からも一度、それとなくお伝えしたはずでございます。ですが、お返事は『心得ておく』の一言でございました」
「六月の夜会では、二十分。七月の視察随行では、二十五分。そして先月、八月の茶会では――三十分の遅刻でございました」
会場が静まり返る。侍従の何人かが、顔を見合わせているのが見えた。
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「はじめは五分だった遅刻が、半年をかけて三十分にまで伸びております。これが、殿下のおっしゃる『いつも通り』の実態でございます」
「そんなに、悪化していたとは……」
「殿下は、毎回同じ言葉でこの遅刻を片付けていらっしゃいました。ですが、記録に照らせば、『いつも通り』ではなく、悪化し続けていた、というのが正確な表現かと存じます」
「言葉の綾のようなものだろう。そんなに深刻に受け止めなくても」
「言葉の綾で片付けられるのは、変化のない場合でございます。ですが、五分が三十分になるというのは、変化と呼ぶべきものかと存じます」
侍従長オーウェンが、静かに進み出た。手には、王宮の公式行事の記録簿を携えている。
「畏れながら、公式行事の到着記録につきましても、確認いたしました」
オーウェンは記録簿の該当箇所を開き、一つ一つ読み上げていく。
「三月の観桜の宴、五分の遅刻。五月の建国記念式典、十五分。七月の視察随行、二十五分。いずれも、エヴリン様の記録と寸分違わぬものでございます」
周囲の貴族たちが、驚いたように顔を見合わせる。二つの独立した記録が、一致するはずのない偶然でここまで揃うことはない。それが、何よりの裏付けだった。
「これほど正確な記録を、半年もの間、お一人で続けておられたとは」
オーウェンの言葉に、私は静かに頭を下げた。
「特別なことをしたわけではございません。ただ、毎回の刻限を、忘れないように控えていただけでございます」
その言葉に、セドリックの顔から血の気が引いていった。
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「私は、遅刻そのものを責めているのではございません。問題にしているのは、悪化し続ける事実を、『いつも通り』という一言で片付けてこられた、その姿勢でございます」
「エヴリン、それは……」
「一度きりの遅刻であれば、誰にでもあることでございましょう。ですが、これは半年をかけて確実に悪化してきた記録でございます。殿下にとって、私との約束が、少しずつ軽くなっていったということかと存じます」
周囲の貴族たちが、顔を見合わせ始めた。先ほどまでの「殿下らしい」という空気は、既に消えていた。
「そんなつもりでは、決してなかった」
「つもりの有無ではございません。半年分の記録が、既にその事実を物語っております」
少し離れた場所に立っていた年配の侯爵が、堪えかねたように口を挟んだ。
「殿下。エヴリン嬢は、感情論で殿下を責めているのではございません。記録という、誰の目にも明らかな事実をもって、お話しになっているのです。反論なさるのであれば、記録そのものの誤りをお示しになるべきかと存じますが」
「……いや、記録に誤りはない。私自身、覚えがある」
「でしたら、殿下がすべきことは、弁明ではなく、この状況をどう受け止めるかということかと存じます」
侯爵の言葉に、周囲の何人かが小さく頷いた。セドリックは、もはや何も言い返せずにいた。
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「殿下」
私は、真っ直ぐに彼を見た。
「『いつも通り』とは、悪化し続けることの言い換えではございません。次にその言葉を使われる時は、その意味を、今一度お確かめいただきたく存じます」
セドリックは何も言い返せず、その場に立ち尽くしていた。しばらくして、ようやく絞り出すように口を開く。
「これからは、必ず刻限を守る。約束する」
「約束、でございますか」
「ああ。今度こそ、必ず」
「その言葉も、半年前の三月に、一度伺った記憶がございます。当時は五分の遅刻の後、殿下は同じように仰いました。ですが、結果は今日お示しした通りでございます」
セドリックは、言葉に詰まった。周囲の誰も、彼を庇う言葉を持たなかった。
「私は、婚約解消を申し出させていただきます。刻限を守っていただけるかどうかは、些細なことのようでいて、私という存在をどれほど大切に思っていただいているかの、一つの表れだと考えておりますので」
「エヴリン、待ってくれ。今日を境に、必ず変わる」
「殿下がそう仰るのは、これで何度目でしょうか。少なくとも私の記録では、三度目でございます。四月、六月、そして本日でございます」
セドリックは絶句した。何か言おうとして、けれど言葉が見つからないまま、口を閉ざした。
私は一礼し、手控えを閉じた。会場に、静かなざわめきが広がっていく。先ほどまで「殿下らしい」と笑っていた貴族たちの視線は、今や気まずそうに逸らされていた。
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王宮からの帰り道、馬車に揺られながら、私は膝の上の手控えを見つめていた。三月から書き続けてきた数字の羅列が、こんな形で役立つとは、記録を始めた当初は考えてもいなかった。
窓の外を流れる景色を眺めながら、この半年を振り返る。最初の遅刻の時、私は特に気にも留めなかった。二度目、三度目と重なるうちに、胸の奥に小さな違和感が積もっていった。それでも、殿下の笑顔の前では、その違和感を口にすることができずにいた。数字として書き留めることだけが、当時の私にできる、唯一のことだった。
もともとは、単なる習慣だった。刻限に几帳面な性分ゆえ、待ち合わせの時刻をつい記録してしまう。それだけのことだったはずだ。だが、続けているうちに、数字の並びから見えてくるものがあった。
屋敷に着くと、母が心配そうな顔で出迎えた。事の次第を簡単に伝えると、母は少し驚いた様子を見せたが、やがて静かに頷いた。
「あなたらしい判断ね。声を荒げるでも、涙を見せるでもなく」
「感情で訴えても、殿下には響かなかったと思います。数字であれば、誰の目にも明らかでございますから」
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「それにしても、半年分もよく記録していたこと。途中で面倒になったりしなかったの」
「面倒だと思うことも、正直ございました。ですが、続けているうちに、これが単なる記録以上の意味を持つようになったのだと思います」
母は小さく笑い、私の肩にそっと手を置いた。
「あなたは昔から、そういうところがあったわね。気になったことは、きちんと確かめないと気が済まない性分。子供の頃からそうだったもの」
「今回ばかりは、その性分に助けられました。もし私が、面倒だからと途中で記録をやめていたら、今日、あの場で何も示せなかったでしょう」
「疲れたでしょう。今日はもう休みなさい」
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扉が軽く開き、父が顔を覗かせた。王宮での出来事は、既に耳に入っていたらしい。
「エヴリン。大変だったな」
「お騒がせいたしました」
「騒がせたのは殿下の方だろう。……お前が半年間、几帳面に刻限を記録していたことは、私も薄々気づいていた。まさか、それがこんな形で役立つとは」
「私自身、記録を始めた当初は、こんな結末を想像しておりませんでした」
「後悔はないか」
「殿下を信じられなくなったことに、寂しさがないと言えば嘘になります。ですが、悪化し続ける事実に目を瞑り続けることの方が、私には耐え難いことでした。見て見ぬふりを続けた先に、幸せな未来があるとは、どうしても思えなかったのです」
父はしばらく黙り込んでから、静かに頷いた。
「お前らしい判断だ。誇りに思う」
父はそれだけ言うと、静かに部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、私はしばらく手控えを見つめ続けた。半年分の数字の連なりが、今の自分をここまで運んできたのだと思うと、不思議な感慨があった。
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自室に戻り、机に向かう。手控えの最後の頁を開くと、そこには「八月十八日、三十分」とだけ記されていた。この数字が、私の婚約生活の終わりを告げる印になるとは、書いた時には思いもしなかった。数字そのものは、ただの記録に過ぎない。だが、積み重なった数字は、時に言葉よりも雄弁に、人の在り方を語るのだと、今の私は知っている。
この記録をつけ始めたのは、去年の冬、初めての公式行事で殿下を待つ間の、ただの手慰みだった。刻限に几帳面な性分ゆえ、待ち合わせの時刻をつい書き留めてしまう。それだけの、他愛のない癖のはずだった。まさかこの半年後、自分の未来を決める証拠になるとは、当時の私は思いもしなかった。
父からも、後日、短い手紙が届いた。「よくやった。刻限を軽んじる者に、大切な約束は守れない」とだけ書かれていた。飾らない一文だったが、私には十分だった。
窓の外は、既に暗くなっていた。灯りを一つ灯し、私は新しい頁を開く。次に何を記録することになるのかはわからないが、少なくとも、誰かの『いつも通り』に振り回される日々は、もう終わったのだと、静かにそう思った。
蝋燭の炎が、頁の上でゆっくりと揺れている。明日からは、自分自身の刻限だけを、自分のために守っていけばいい。それだけで、十分だった。
手控えを閉じ、私は静かに椅子から立ち上がった。窓の外に広がる夜空は、いつもと変わらず静かだった。約束の重さを、誰かに教えられるのではなく、自分自身の記録によって証明できたことが、今は何よりの支えだった。




