第8話 二つの影
月の姿が全く見えない暗い夜。
港に近い都内某所の事務所では、《大和組》の組長が机の上に足を乗せ、葉巻を吸いながら若い組員と話をしている。
「この前の話、もう一度聞かせてくれ」
「あの夜、仲村が占い師の連れっぽい奴と話ししてた時です。俺は、少し離れた鉄柵から覗いてたんですが、奴の目が光ったあと、仲村の様子がおかしくなって、奴に連れられてサツまで歩いていってました」
「お前は何で助けなかったんだよ。マジで」
組長《龍田正治郎》の言葉は静かだったが、低いしわがれ声で迫力があった。
「すいやせん! 足がなぜか動かなかったんです」
「続けろ」
「本当に仲村が自分で自首するのはあり得なくて……。あいつ百キロ以上あんのに、片手で持ち上げられていたし。仲村はナイフで刺していたように見えたんですが、平然としてました。『不気味』の一言です!」
「お前、奴のこと調べられるか? このまま引き下がるのも癪だ」
「はい!」
「行く時は、俺の息子の吾郎も連れて行け」
「おお! 心強い! ありがとうございます」
若手組員、青木勇は深々とお辞儀をした。
◇
あたしはと言うと、日の明るい夕方から、深夜明け方近くまで、仕事を頑張っていた。
当たると評判の売れっ子だからだ。守護霊様のおかげだが……。
帰ったらそのままベッドにダイブした。
「ピンポーン」
「今頃誰……」
ドアホンを覗くと、アロンの顔が見えた。
玄関で押し問答する気力もないので素直にドアを開けた。
アロンが『優子ー』と呼びかけながら、勢いよく抱きついてきた。
「ど、どうしたの?」
あたしはドアを閉めた。
――家の壁の向こう側、外の路上に二つの影があった。アロンが家に入ると影はすぐに姿を消した。
アロンは、ホストクラブを解雇されたと話し始めた。だが、あたしはもう眠気で半目しか開けていない。そんな優子を見て、アロンは心配そうに眉を寄せた。
「うん、うん」
頷いていたつもりが、いつのまにか船を漕いでいた。
見かねたアロンが、ひょいとあたしをお姫様抱っこし、軽々とベッドまで運んでくれた。
「え?!」
と声をあげたが、ベッドに置かれた途端、意識がなくなった。
◇
昼過ぎ、美味しそうな香りで目が覚めた。キッチンを見るとアロンが料理していた。
鮮やかな赤いトマトスープと、香ばしい香りを放つ鶏肉のソテー、それに焼きたてのパンがテーブルに並んだ。
「わー、美味しそう。いただきます」
「どうぞ。僕の故郷の味に寄せてみたよ」
アロンがにこやかに言った。
スープは、トマトベースの少し酸味があり野菜も入って美味しい。鶏肉も香辛料が効いていてスパイシーで美味しかった。
あたしはすっかり満たされていた。
「美味しかった。また作ってー」
「いいよ」
「眠くてあんまり覚えてないけど、解雇されたの? ホストクラブ」
「そう。僕は、就労ビザがないから……」
「なんか痛いところ突かれたね。どうにかできないか、考えとくわ」
「ありがとう」
アロンは力無く笑った。
「アトリエの鍵返しに、梨沙ママのとこ行こっか」
と、あたしが言うと、アロンは急にこう言った。
「昨日もらった給料、使わない分渡しとくよ」
なんと、十万円封筒に入っていた。
「え、こんなにもらえないよ。何かのために取っといたら」
「わかった」
最初は家賃の半分払ってもらう予定だったが、働けないと分かったから仕方ない――
ノートパソコンを開き、ビザ関連について調べてみたが、参考になりそうな情報はあまりなかった。
アロンはきっと戸籍のようなものすらないだろう。ルーマニアで、一から市民登録するか、日本人と結婚するしかなさそうだ。
(結婚……)
あたしは頭を振った。アロンと結婚だなんて考えられない。
アロンに聞いてみた。
「パスポートとかって持ってる?」
「ないよ」
「どうやってここまできたの?」
「服咥えて飛んできたよ」
「そんな嘘みたいな話……」
「本当だよ」
「アロンは今までどうやって生きてきたの?」
素朴な疑問をぶつけてみた。
「昔は今ほど法律が厳しくなかったから、働けもしたし、優しい人にお世話になっていたよ」
「そっか」
「ちょっとまだ早いけど、ママんとこいってみよか」
途中手土産を買ってから向かった。
『準備中』の看板がかかっているが、構わず中に入る。
カラン、カラン。
いつものように紫のバラのドアを開けた。すると、ママではなく、黒服の男性がいた。
梨沙ママのパートナーの《柿崎誉》だ。
「梨沙は今買い出し行ってるよ」
柿崎は、食器を拭いたり、開店の準備をしている。
「忙しいところ、ごめんね。これ、この前借りた鍵。助かったわ」
「構わないよ。適当に座ってて……。結局一緒に暮らすことにしたんだ?」
柿崎は、ニヤニヤしながら聞いてきた。
「うん……まあ。あたしも鬼の子てわけではないし」
少し、しどろもどろになって答えた。
アロンがホストクラブを辞めたことは、梨沙ママには伝えてある。
「アルバイトとかならどっかありそうだけどなあ。こっちも探してみるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
アロンがお辞儀をした。
柿崎が、流し台をゴシゴシ洗いながら、こう言った。
「アロンさんて、礼儀正しいよね。日本人より日本人らしいっていうか」
「ありがたきお言葉、かたじけない」
アロンが古い言葉を使ったので、みんなで笑った。
「どこでそんな言葉、覚えたんだか……」
あたしはアロンの方を見ながら言った。
カラン。
梨沙ママが帰ってきた。
「あら、お二人揃って。今回のこと、大変だったわね」
ママは荷物を柿崎に渡した。
「お土産なんてもらっちゃったよ」
柿崎がママに教えた。
「いいのにー。余計気を使わしちゃったわね」
「せっかく紹介していただいたのに、申し訳ない……」
アロンがお辞儀をして謝った。
「いいの、いいの。あそこの店長もいい人だから、気にしなくていいわよ」
そう言ってママは笑った。
「今日は鍵返せたし、帰ろうかな」
あたしは、少しいたたまれない気持ちがあったので、帰ることにした。
「もう帰るの? 飲んでいけばいいのに……ねえ」
ママが柿崎の方を見つめる。
(ほんと、この二人仲良いな)
「今度ゆっくり来るわ。またねー」
あたしたちは手を振って店を出た。
「あの二人、昔は親友同士の幼馴染だったらしいの。同性の」
「同性?」
アロンが聞き返した。
「あれ? 言ってなかったっけ。梨沙ママは、ニューハーフよ」
「えーっ! 全然見えないな」
「ママがカミングアウトした時に告られたんだって。好きだったと」
「きっと昔から魅力的だったんだね、梨沙ママは」
アロンが感心したように言った。
「たぶんね」
街を歩きながら話していたが、声のトーンを落としてアロンがこう言った。
「明け方もだけど、つけてくるやつがいるんだ」
あたしが振り返ろうとすると、アロンが制止した。
「後ろは見ないで。そこの角まで行ったら、ちょっと立ち止まって待ってて。脅してくる」
「え?」
角に行くと、横道にサッとアロンは消えた。なるべく後ろは見ないように待っていた。
遠くで走っていく足音が聞こえた気がした。
さっきの横道からアロンが戻ってきた。
あたしがホッとすると、アロンはこう言った。
「前に優子が嵌められた件に関わってる奴らと思う」
あたしが不安に思っていると、アロンはこう言った。
「大丈夫。優子には指一本触れさせないから」
「……引っ越した方がいいのかな?」
「逃げても追ってくるかもしれない。ああ、怖がらせてごめん」
アロンは手を握ってくれた。温かみが伝わってきて、少し安心した。
「帰ろうか」
アロンは手を握ったまま、遠くの暗闇をじっと見据えていた。肩に力が入り、ゆっくりと息を吐く。その背筋からは、長い年月を戦い抜いてきた戦士のような気配が漂っていた。




