第34話 記憶
――出産当日の夕方。
「高木さん」
「授乳の時間です。指導しますから、やってみましょう」
消毒をして赤ちゃんに乳首を含ませる。かなり強い力で吸っている。お腹がキューっと痛くなる。
「いたた……」
「後陣痛ね。子宮が戻ろうとしてるのよ」
「女ばっかり痛い思いする……」
「ははは。赤ちゃんに授乳したり、幸せを感じられるのは女だけだけどね」
「確かに……」
「今度は逆側ね。初乳は、免疫が詰まってるから、必ず飲ませてください」
看護師がオムツをチェックする。
「オムツが濡れたら呼んでください。ここをつまむとわかります」
「なるほど。ありがとうございます」
「休める時は休んでおいてくださいね」
血圧と熱を測り、看護師は去って行った。
あたしは慣れないながらも、授乳とオムツ交換をこなした。泣かれて困った時は、看護師さんがそっと手を貸してくれた。
◇
次の日の診察。体の回復は順調で、今日からシャワーもオッケーらしい。
徐々に慣れてきて、授乳もオムツ交換も手際良くできるようになってきた。
午後、シャワーを浴びてさっぱりした。
(なんか、忘れてる気がするんだけど……)
看護師の言葉が耳に入る。
「明日は沐浴指導があります。旦那さんが来れるなら、一緒に受けてくださいね」
「旦那さん……?」
「そう」
看護師は少し訝しむ表情を見せた。
(旦那さんって誰……?)
あたしは赤ちゃんの父親の顔を思い出せなかった。
書類を探すと、サイン欄にはアルファベットが書かれている。達筆すぎて読めない。
看護師を呼んで聞いてみた。
「私の連れって覚えていますか? 一人で来ましたっけ?」
「確か旦那さんと来てませんでしたっけ? 顔は覚えてないけど……ごめんなさい」
看護師は忙しそうに去っていった。
「どうしよう……」
あたしは情報をかき集めようとした。
すると、セシルが泣いた。
(この子の名前は、セシル……)
旦那の名前だけ、ぽっかりと穴が空いたように記憶になかった。
授乳をしているとスマホが気になり、中身を確認する。
昨日の日付で、三人で映っている写真があった。
(この人……?)
その人は日本人ではなかった。
スマホの電話帳を調べると、カタカナは一人だけだった。
『アロン・ドラクレシュティ』
(アロン……。わからないや)
あたしは電話しようか迷った。
「授乳後、してみよう」
授乳が終わると、セシルはベッドにすやすや寝てくれた。
個室なので、ここで電話する。
呼び出すが、出ない。しばらく待ったが、結局出なかった。
あたしは、梨沙ママに電話してみた。
「ママ?」
『優子ちゃん、どうしたの? もしかして産まれた?』
「うん、元気な女の子だよ! 名前はセシル」
『セシルちゃんか……今度会わせてね!』
「でもね、セシルの父親の顔が思い出せないの……」
『あら……。でも、あたしもわからないわ。ごめんなさい。会ったかしら?』
「何度かママの店行った気がするんだけど、覚えてないや」
『うーん……。優子ちゃん以外、覚えてないわ。申し訳ない』
「ううん、いいの。あたしもわからないし……」
『なんかわかったら連絡するわ』
「ありがとう。ところで、今どこにいるの?」
『誉と田舎に来てるわ。場所は今度教えるわ。というか、お祝い送る』
「そっか、元気ならいいよ。お祝いいいのに。ありがとう」
『休める時、休んどきなさいよ。じゃあ、またね』
「またね」
(結局、情報なかったな……)
オムツをチェックすると、濡れていたので交換する。
「あたし、なんか忘れてる……」
思い出すかわからないけど、スマホのホーム画面に三人の写真を設定する。
「この人じゃなかったら、アホみたいだけど……」
昼も夜も定期的に起きなければならず、出産後の体にはしんどかった。
◇
三日経った。授乳の量も増え、退院診察と産後検査の日。異常がなければこのまま退院となる。
検査結果は特に異常なし。無事、明日退院となった。
セシルも母乳をよく飲み、体重も増えていた。
――次の日。
「お世話になりました」
あたしは挨拶して、セシルと退院した。
帰りはタクシーで帰宅。
家に帰ると、ベッドに知らない人がいた。息はしているが、高熱がある。
よく見ると、写真の人だった。
(この人がもしかして、あたしの旦那? ……じゃないと説明がつかない)
熱以外は異常なさそうだ。
念のため、セシルとこの人を別の部屋にした。
買い物はまだ生後一ヶ月未満なので家に置いていった。
高熱なので水分を取らせる。ストローで飲み物を与えると、飲んだ。軽いゼリーも食べた。
脱水症状はなさそうだ。
(最低でも一リットルは飲ませないと……)
むくっと起き上がると、彼はトイレに行った。
(トイレの場所、知ってるのね)
あたしはセシルの世話と、この人の看病で追われた。
その夜、枕元に《児玉さん》が立っていた。
(久しぶり、児玉さん……)
『思い出したほうがいいのか、そうでないのかわしにはわからんが、知ることが優子の運命であろう』
――その瞬間、あたしはアロンのことを全て思い出した。
あたしは……涙が止まらなかった。
(何で最愛の人を忘れちゃったんだろう)
何度か授乳で起きた時、アロンの様子も見にいった。
体温は平熱に戻っていた。
次の日、朝授乳をしていると、アロンが起きてきた。
「アロン、具合どう?」
「Cine eşti tu?(君は誰だ?)」
「何て言っているか、わかんない」
「ここは日本ですか?」
(まさか……)
「日本です」
「ここは、どこですか?」
「ここは……あたしの家です」
涙が出てきた。
「自分が誰なのか、わかりません……」
「あなたの名前は、アロン・ドラクレシュティです」
「僕の名前は、アロン……」
アロンは頭を抱えた。
「わからない」
「少しずつ思い出せばいいよ」
「いや、迷惑かけられません」
あたしはセシルを連れて来る。
「この子はあなたの子です」
「本当ですか? ……わからない」
――この世にアロンは存在しなかったかのように全ての者の記憶から無くなっていた。
あたしはとっさにアロンが書き残したノートを持ってきて、彼に読ませた。
「これ読んでみて!」
アロンは手に取ってページを捲る。次第に手が震えてくる。
「ごめんなさい……全く記憶にないです」
彼はそっとノートをテーブルの上に置いた。
「そんな……どうしたらいいの……」
――あたしの涙が、セシルの額に落ちて弾いた。
その瞬間、セシルの額から迸る光が放射状に広がりキラキラ舞いながらアロンの体の周りに渦を巻き、吸収されていった。
「あ……」
アロンは目を見開き、しばし言葉を失った。
その瞳の奥に、戸惑いと驚き、そして少しずつ記憶の光が戻っていくのがあたしにもわかった。
(……思い出してる?)
光が消えると、アロンはそっと駆け寄って、あたしとセシルを抱きしめた。
「ごめん……本当に、ごめん……」
「アロン……」
あたしは言葉が出てこない。力が抜け、立てなくなった。
腰をおろしても、涙が止まらない。安堵感で胸がいっぱいだった。
アロンがセシルを膝に乗せて抱き、あたしも包み込むように抱きしめてくれる。
温かさ、安堵、愛情――すべてが胸いっぱいに押し寄せ、涙と一緒に溢れ出る。
三人はしばらく、言葉も動作もなく、ただ抱き合いながら幸福を噛みしめていた。
「……優子、聞いて」
アロンは静かに話し始めた。
「僕の体はどうなるかわからない。なので、胎児に記憶を刻んだ。最後の手立てとして」
「あー、あのセシルを焦がそうとした時か」
「そう。自分の名前まで忘れてしまうのは計算外」
アロンは笑う。
「笑い事じゃないでしょ!」
あたしはこんな時でもつい聞いてしまう。
「もしも人間の子じゃなかったら…?」
「今までと変わらないはずだ」
「なるほど……」
「あたしが泣かなかったら?」
「いや、絶対泣く」
あたしはアロンの自信満々さに笑ってしまった。
「あたしが思い出さなかったら……?」
「その時は……僕は優子には必要ないかもしれない。と思ってた」
「それはないわ……絶対。というか、一人で育てさせようと思ってたのか。無責任」
「実は……いくつも保険をかけてたんだ。いろんな形で記憶を刻んで」
「じゃあ、あたしだけ記憶が戻らないとかあったのね」
「その時は、出会い直してた。多分。優子のいない人生は考えられないから」
「じゃあ、もし保険が……」
「うるさい……」
アロンがキスして次の言葉を出せなかった。
「ゥア゛ーー!」
セシルが泣いた。
◇
――三年後。
アロンはセシルを肩車して、繁華街を歩いている。
隣には赤ちゃんを抱っこしたあたしがいる。
ふと、すれ違った人を見ると、龍田吾郎だった。
あたしとアロンは目を合わせた。
空は秋晴れ、爽やかな風が吹き、すっきりとした空気だった。
初の長編小説、無事完結いたしました。
ここまで読んでくださった皆様には感謝申し上げます。
少しでも楽しんでいただけたら本望です。




