第28話 観光(後編)
今朝の朝食は、トキトゥーラとチョルバ・デ・ペリショアーレだった。
トキトゥーラは、トマトベースの角切り豚肉と野菜の煮込み。ママリガと目玉焼きが添えられている。旨みが凝縮されていて美味しい。ママリガもふわっとしていて美味しい。
チョルバ・デ・ペリショアーレは、肉団子や玉ねぎ、パセリ、セロリが入ったスープ。スパイシーで、ほのかな酸味のある優しい味わいだった。
特に気分が悪くなることもなく、美味しく食べられた。
「美味しかった!」
「それは良かった。今日また移動しようと思ってる。シギショアラまで。僕が放浪してたときに長く住んでた街だ」
「行きたい!」
あたしが大きな声を出すと、アロンは笑った。
◇
昨日訪れたコルヴィン城を再び訪れた。
あたしはドキドキしたが、例の場所に幽霊はいなかった。
「セシルはいない」
アロンは応える代わりに、手を繋いでくれた。
奥へ進むと、居住部屋が再現されており、赤い天蓋付きのベッドがあった。
「夢で、このベッドで出産していたわ」
あたしがそう言うと、アロンの握る手に力がこもった。
「わかるよ」
そう言って、アロンはあたしを抱き寄せ、頭を撫でた。
「大丈夫よ」
あたしは微笑む。
他に特に気になる場所はなかった。
「シギショアラ行こう」
あたしは笑顔で言った。
あたしたちはフネドアラを後にした。
「せっかくルーマニア語特訓したのに使ってないや」
「次のところで使ってみる?」
「うん、やってみる」
「ホテルは僕が予約しておく」
「ありがとう」
「運転してみる?」
「運転は怖いからやめとく」
アロンは少し笑った。
「わかった」
また眠気がやってくる。あたしがうとうとしていると、
「寝ていいよ」
とアロンが言った。
「うとうとして気持ちよかったのにー」
つい意味もなく文句を言ってしまう。
「ごめん」
アロンは素直に謝った。
あたしは言ったあと、自己嫌悪した。
「私こそごめん。なんかイライラしてて……あたってしまったらごめんなさい」
「わかってるよ、優子のこと。気にしなくていい。それに……イライラしてる優子も好きだよ」
アロンは微笑んだ。
あたしは言葉を失った。ただ、心の中で感謝した。
「ありがとう」
◇
建物の色がカラフルで可愛い景色が広がってきた。
「シギショアラに着いたよ。駐車場付きのホテルにしたから、車と荷物を置いたら出かけよう」
「うん。どんなところか楽しみ!」
「こじんまりしてるけど、見どころは多いし、病院もあるから」
「アロン、ありがとう」
あたしは微笑んだ。
「お腹すいた!」
あたしがお腹を押さえて言うと、アロンは笑った。
「ホテルのレストランで食べようか。優子が注文してみたら?」
アロンはニヤニヤして言った。
(さっき自分から言い出したんだった……)
「あー……やってみる」
レストランの席についてメニューを開く。
「アシュ ドリ アスタ ヴァ ログ」
(これください)
あたしは適当に指をさして言う。
「ウヌル」(ひとつ)
三回繰り返して三品頼んだ。
店員が優子に話しかけた。
「Spaghetti Al Verdure, Salata Cu Branza De Capra, Gulyas Unguresc. Asta e tot?」
(注文の確認かな?)
「ダ」
アロンは含み笑いで見守っている。
あたしはドヤ顔で言った。
「ちゃんと頼めたよ」
「だね」
アロンは笑った。
しばらくして料理が運ばれてきた。結構な量だ。
スパゲティは美味しかった。煮込み料理も美味しかった。チーズサラダのチーズだけはダメだった。
「それ、ヤギのチーズだね。少し癖があるから」
アロンが説明してくれた。
食後、手を繋いで街並みを散策する。
「寒くない?」
「まだ大丈夫」
この季節は雪が積もってかなり寒い。あたしは厚着をしていた。
建物は中世の雰囲気を色濃く残し、壁の色はパステルカラーで可愛い。
「時計の塔に行ってみようか。ここで一番高い建物だよ」
「そうなんだ。行く」
「足元気をつけてね」
たまに雪道に足を取られそうになるが、アロンが手を繋いでくれるので安心する。
「どこを見ても絵になるね。住んでみたい」
あたしがそう言うと、アロンが目を輝かせて言った。
「ほんと? きっと毎日楽しいよ。夏は中世のお祭りがあるし」
「夏にまた来たいね」
あたしは笑った。
「また来よう」
高台に登ると、下に広がる家々の屋根に雪が積もっていた。
「ここは世界遺産に登録されたんだ」
「そうなんだ。素敵だものね」
「今日はもう遅いし寒いから、明日また散策しよう。ここには一週間くらいいるつもり」
「ゆっくりできるね」
あたしは笑って言った。
帰り道も手を繋いで歩く。
「明日は父方の祖父、ヴラド三世の生まれた家に行ってみようか」
「アロンを幽閉した人ね」
「そう」
あたしはアロンの守護霊のフニャディ・ヤーノシュに、なぜヴラド三世はアロンをそこまで憎んだのかを聞こうとした。
「あれ?」
「どうした?」
「守護霊が呼べない。なんで?」
あたしは焦った。自分の守護霊も呼べない。姿も声も、まったく聞こえなかった。
寒さではなく、恐怖で震えた。
――この世に、また捨てられた気がした。
あたしは自分の腕を両手で掴んだ。何度呼んでも、いつもの厳しい口調の児玉さんの声は聞こえなかった。
アロンはあたしを後ろから抱きしめた。
「帰ろう」
あたしは泣いていた。
それだけ、守護霊の存在はあたしにとって大きかった。
◇
食欲はないと言ったけれど、アロンがスープを頼んでくれた。アロンは煮込み料理のようなものを食べている。
「食べられるなら少し食べたほうがいいよ」
スープを口にすると、優しい味がした。
アロンは静かな口調で話し始めた。
「ヴラド三世が僕を閉じ込めたのは、多分、期待してたからだと思う。両親には僕以外息子はいなかった。姉妹だけだったんだ。期待していたのに化け物ができた……」
「化け物じゃないわ。紳士だよ」
アロンはふっと笑って言う。
「ありがとう」
あたしはポツリと話し始めた。
「アロンの守護霊のフニャディ・ヤーノシュに、なぜヴラド三世はアロンを憎んだのかを聞こうとしたら、姿も声も、もう感じられないことに気づいたの」
「そうか……」
アロンは何も言わず、優しく抱きしめてくれた。あたしが元気になるまでずっと寄り添ってくれた。
◇
――それから一週間が経った。
今日から南下し、ブカレスト方面に向かう。一旦、ブラショフを通り過ぎてシナイアに向かう。ペレシュ城に行くらしい。
「王の城で、内装が素晴らしいよ」
アロンが説明してくれた。
「見たい」
アロンが運転しながら手を繋いでくれている。
二時間半かかり、シナイアに着いた。駐車場から歩いてペレシュ城に向かう。オフシーズンながらも観光客が結構いた。
「このお城は新しいよ」
あたしは吹いてしまった。
「十九世紀らしいよ」
さっきスマホで調べた情報。初代ルーマニア国王となったカロル一世が、一八七五年にルーマニア王室の夏の離宮として建てた城だそうだ。
中に入ると、常に絨毯が敷いてあり、部屋数も多く、調度品の装飾も豪華だった。
「すごく華やかで、まるで宮殿みたい」
「装飾が細かいよ」
あたしはこんな豪華なものを見たのは初めてだったので、気持ちが高揚した。
そんなあたしをみるアロンは安心したように見えた。
(心配かけちゃったかな)
「今日はあとどこ行くの?」
「トゥルゴヴィシュテ城に行く予定だよ。僕の生まれたところ」
「どんなお城かな」
「ほとんど残ってないよ。遺跡のような感じだ」
「そっか。残念」
「あそこは戦場に近いからね」
あたしはアロンの手を繋いだ。
「なんか歴史を感じるわ」
「色々あったな……本当に」
アロンは遠い目をした。
しばらく沈黙が続く――
「お腹すいた。何か食べてから移動しない?」
「いいね」
あたしたちは近くのレストランで食事をしてから、トゥルゴヴィシュテのホテルへ向かった。
◇
着いた時には暗くなっていた。遺跡に近いホテル。近くにスーパーがたくさんあるので、買ってホテルで食べることにした。
あたしは買ってきたパンを開け、スープを温めながら聞いてみた。
「もう数日後には日本だね。名残惜しい?」
「どうだろう。故郷といっても僕は転々としてたから、思い出はそっちの方がある」
「そうよね」
(長く旅してた分、色々あったんだろうな)
「いつか思い出話するよ」
そう言ってアロンは笑った。
お風呂から上がって、アロンとベッドに座りながら話をしていた。
アロンはあたしのお腹に手を当てた。
「まだわからないよ」
あたしはその上から手を乗せる。
「いや、生きてる!」
「わかるの?」
「……わかんない」
「なんだ。もう」
「病院行かなくていいの?」
アロンが聞いた。
あたしは言葉が通じない病院に行きづらかった。いくらかかるかわからないし。
「帰ってからでいいよ」
明日は観光してからブカレストに戻り、アロンのパスポートを受け取って明後日には日本だ。
「色々あったけど、あっという間だったな……」
あたしがボソッと呟くと、アロンがあたしを抱きしめてこう言った。
「改めて言うけど、僕は優子を一生、そして永遠に守るよ」
「アロン……」
あたしは涙が頬を伝った。
アロンは涙にキスをしたあと、そっと唇を重ねた。
外は今までの観光地と違う繁華街で、夜の喧騒に包まれていた。
◇
次の日、ホテルの朝ごはんを食べたあと、車を駐車場に止め、トゥルゴヴィシュテ城の遺跡を訪ねた。
「僕が生まれた時は戦争直後だったらしい。復興で大変だったそうだ。でも、物心ついた時にはポエナリにいたから記憶はない」
二人で手を繋いで歩いている。
「裕福な経験は一切できなかったのね」
「周りの人は優しかったよ。命令には背けなかったけど、影で色々良くしてくれた」
「例えば、お祭りの時は顔を隠して外出させてくれた」
「そっか」
あたしは、セシルが私の中に入ってきた時に見た、幼いアロンの笑顔を思い出した。
「なぜか、家庭教師は付けられた。今でも理由はわからない。おかげで読み書きは苦労しなかった」
「いつ呪いが解けても王子として振る舞えるようにしていたとか?」
「どうなんだろう」
「そろそろ、ブカレストに行こうか」
「うん」
一時間半ほどで、ブカレストに着いた。ここは捕まるといけないので優子が運転する予定だった。
「僕が運転するよ」
「大丈夫なの?」
「うん。もし警官いたら、アレ使うから」
「それって行きもだったんじゃ……」
「優子に運転してみて欲しかったからだよ」
「ふむー」
あたしは、少し納得いかなかったが、経験にはなったのかと思うことにした。
戸籍・パスポート総局に寄って、無事アロンのパスポートも取得できた。
「おめでとう」
あたしは微笑んで言った。
「ありがとう。優子のおかげだよ」
アロンはすごく嬉しそうな顔をした。
「あたしは連れてきただけだよ」
(これで結婚もできるよね。アロン何も言わないけど……)
「行きはブカレスト観光しなかったから、優子が行きたいところに行こう」
「うんと……」
あたしは観光ガイドを開く。せっかく買ったのに全然利用していなかった。アロンが案内してくれるからだ。
「なぜか教会に行きたくなったの。スタヴロポレオス教会行ってもいい?」
「もちろん、いいよ」
アロンは優しく微笑んだ。
そこは入ってみると空気が違った。外壁はクリーム色の優しい感じの建物だが、内壁には壁画がびっしり描かれ、高い天井にはキリストらしい絵が描かれていた。
「ちょうど三百年前の建物なのね。……すっかり忘れてたけど、教会苦手だっけ?」
「大丈夫。優子といると神聖になれた気がする」
あたしは無事赤ちゃんが産まれるようにお祈りした。人間の赤ちゃんとして――
アロンも隣りでお祈りしている。
それから、アロンが無事に人間になれるようにとお祈りした――
「他どこか行きたいところある?」
あたしはまた観光ガイドをめくって探す。
「銀行の博物館だって。珍しい。色んな貨幣があるらしいよ。行ってみたい」
アロンがすごく笑っている。
「なになに? 何でそんなに笑うの?」
「いや、近くに歴史博物館あるんだけど、銀行博物館選ぶの、優子らしい」
「そんな笑うことか?」
あたしは少し不貞腐れた。まだアロンは笑っている。
(なんでかツボに入ったらしい)
あたしが一人で歩き出す。
「ごめん」
アロンが追いつき、手を握った。
「笑いすぎ」
アロンが後ろから抱きしめる。
「変かな? あたし」
「変じゃないよ。すごく可愛いよ」
(そんな言われると怒れなくなるじゃん)
銀行博物館に着いた。
「すごい、いろんなコインがあるね。さすが歴史の街だ」
「そうだね。建物も豪華だ。まあ建物は新しいけど」
「アロンの《新しい》は古いから」
「最近だよ」
「違うよ」
二人であーだこーだ言いながら観てまわる。
アロンは内心、優子が元気になってきてホッとしていた。
◇
結局、歴史博物館も観に行った。いろいろな展示物があった。大きな柱とその彫刻は昔の大きな建物がいかに大きかったのかが連想されて壮大だった。
王冠は本当にあの王冠の形をしていた。昔の装飾品を見ると歴史を感じた。アロンもその時代の人だったなんて――
外に出るとアロンが提案した。
「今日は最後の夜だし、いいレストランがあるから、こっそり予約しといたんだ。そこに行こう」
その店は《カル・ク・ベレ》という名前だった。入り口のアーチには豪華に花が飾られ、中に入ると柱や壁には装飾が施され、宮殿のレストランという感じだった。天井からも豪華な花束がぶら下がっている。
奥の部屋の大きな窓は、ステンドグラスになっていた。
「すごい……。こんなレストラン初めてだわ」
「味も美味しいらしいよ」
サルマーレ、茄子のサラダ、パパナシを頼んだ。
飲み物はあたしはノンアルビール、アロンもノンアルビールを頼んだ。
どれも美味しかった。たくさんは食べられなかったが、十分堪能できた。量が多かったのでその注文で丁度良かった。
「満足した! 美味しかった」
「それは良かった」
アロンが微笑んだ。
ホテルに戻る前にお土産を買いにお店に寄った。可愛らしい雑貨が売っている。無難にマグカップにした。アロンはあたしに膝掛けを買ってくれた。
(まだ自分のお金持ってたのか!)
「今日は早く寝たいな」
「わかった」
少しすでに眠かった。ホテルに帰るとシャワーを浴びてそのまま寝てしまった。
◇
朝、ホテルで朝食を食べたあと、車を返して空港に向かった。これから十時ごろ出発し、イスタンブール空港で三時間ほど待機して、飛行機で一泊し、朝には日本だ。
空港でお菓子のお土産を買った。
飛行機に搭乗すると、アロンが心配してくれた。
「寒くない?」
「大丈夫よ」
アロンが客室乗務員に声をかけて膝掛けを借りてくれた。アロンの分も掛けてくれた。あたしはアロンにもたれて眠った。
――あたしは若いアロンとお城を散策する夢を見た。そこではアロンは自由に羽を出して飛んでいた。人目をはばかるわけでもなく――
あたしを抱きながらアロンは飛ぶ。夕日をバックにアロンは言った。
「僕と結婚してください」
あたしは泣いて答える。
「……はい」
アロンは平らな屋根の上に降りて座ると、ポケットから指輪を取り出してあたしの指にはめた。
あたしの髪は長い栗色の髪だった。ブーツを履いていて、乗馬服を豪華にした感じだ。
アロンは唇を重ねる。舌が震える。アロンの唇があたしの首に移動していく。
あたしは痛みを覚えた。あたしの首筋でアロンの舌が血を求めた。あたしの体の中を、彼の存在が流れ込んでくるみたいだった。
アロンは唇を離すとあたしの目を見つめた。唇が赤く染まっている。
「ごめん。つい……」
「最近、吸ってなかったからね」
幼い頃から続いていた習慣だった。
「まだ、我慢しきれていない」
「ゆっくりやればいいわ」
あたしはアロンに微笑んだ。
――飛行機の中。意識が戻る。
セシルとアロンの秘密を見てしまった気がした。
(アロンは、もしかしていつも我慢しているんだろうか……)
考えているうちにまた眠っていた。




