龍の見下ろす国
老婆は国を憎んでいた。
熾国の後宮最奥に、その老婆の住まう離宮はあった。
かつて国を戦から救ったことで皇帝に召し抱えられ、国政に迷いある時の相談相手となった。
老婆が望んだ地位ではない。
是非にと乞われ、応じただけだ。
今代の君に仕えるだけとの約束は反故にされ、頭に霜を置くまで留め置かれた。
大事な宝珠を取り上げられ、国に飼い殺されそうになっている。
比喩ではなく、今まさに。
◇ ◇
老婆の名は朱華といった。人の形をしているが、真の姿は赤龍であった。緋色に煌めく美しい鱗は、いつも番の黒龍が褒めてくれた。並んで空を悠々と舞う姿は、他の龍からも憧憬の目で見られた。
朱華は地上の人間を眺めるのが好きだった。
ちまちまと小さな体で動き回り、村を作り、道具を使い、遊び、戦い、狩り、育て、短い繁栄と衰退を繰り返す。その終わりのない営みが、朱華を感動させた。
なんという健気な生き物だろう。ほんの数日のうちに世代交代が幾度もあり、生まれたと思ったら、もうその生を終えている。
「どうしてあれほど簡単に死んでしまうのか」
朱華が黒龍の玄燿に問うた。
「地上と天上では、時の流れが違う。
ここの三日は、地上の百年だ。
人の寿命は長くて六十年。ここで二日もすれば、地上のあらかたの人間が入れ替わる」
儚いものだ。
朱華は、人間を愛おしく思った。
龍には人間の美醜など分からない。
皆等しく、弱く、健気な生き物に見えた。
朱華が天上で齢千年を数えた時、体内のエネルギーが満ちて一つの宝珠を宿した。
口から取り出したそれは、鱗と同じ緋色に輝いていた。
宝珠があれば姿が変えられる。
朱華は地上に降りて、人の形をとってみようと思った。
行き先の目星はつけてある。今いちばん勢いのある熾国だ。
そこに向かう途中、高山の麓に、硬い金属を纏った大軍を見た。
あれは戦を仕掛ける者たちだ。
朱華は儚い存在の人間たちが、命を散らし合うのを好まなかった。
だから急いでこの国の宮殿に向かい、白砂を敷いた中庭に降り立った。
そして、およそ人の声とは似つかない天からのごとき音声で、『北に二万の騎兵と八万の歩兵あり』と知らせた。
いきなり現れた緋色の髪をした麗人の言葉に、宮中は大騒ぎとなった。
皇帝が裸足で庭に降り、彼女の前に跪いた。
家臣たちは驚愕した。そして、ワラワラと集まり、皇帝に倣って朱華に頭を垂れた。
「天を翔ける龍神様をこの地にお迎えできるとは、幸甚の至りにございます」
「そう畏まらなくて良いぞ。気まぐれにこの世を見に来ただけだ」
「では、龍神様のことは、何とお呼びすれば宜しいでしょうか」
「我が名は、朱華。赤龍と呼ぶも朱華と呼ぶも、好きにして良い」
「では、人の姿を取っている時は朱華殿とお呼びしましょう。朱華殿、此度は北の果てに大軍が迫ってきているとの報せ、まことにかたじけなく、即座に軍議を開き迎え撃つ準備をいたします」
「それだがな、私は戦いは好まぬ。大雨と強風で奴らを軽く吹き飛ばしてくるので早まるでない。其方とて、徒に民を失いたくないであろう?」
「もちろん民草を守るのが我が使命と思うておりますが、かようなことをお任せしてしまってよろしいのでしょうか」
「なに、かまわぬ。一飛び、一吹きで済む話よ」
そう言って朱華は緋色の鱗を日に煌めかせる龍となり上昇し、北へと向かって行った。
四半刻もしないうちに朱華は戻ってきた。
「済んだぞ」
緋色の髪の麗人は、何事もなかったかのように龍から人の姿になって、皇帝の前に再び立った。
皇帝は国の守護神として朱華を歓待し、しばらく国に留まるよう懇願した。
朱華は、国中を自由に動き回ることを条件に、それに応じた。
朱華は気儘に過ごした。時に龍となって国境を周回し、時に街に下りて人々の暮らしを眺め、時に皇子や妃たちと盤上遊びに興じた。
皇帝から国政の相談を受けると、朱華は人の世の太古の例を挙げ、皇帝はそれを参考にした。朱華に頼り切るのではなく、自らの力で国を率いる覚悟のある皇帝を、朱華は弱き人間なれど中々気概のある者よ、と評価した。
熾国は隆盛を極めた。龍の守る国として、諸外国も攻め入っては来なかった。
やがて皇帝が崩御し、朱華ともよく遊んだ皇太子が帝位に就いた。
朱華は若き皇帝に乞われて、代替わりした世が落ち着くまで傍にいようと約束した。
それが間違いだった。
皇帝は何者かに毒を盛られ、叔父が帝位を簒奪した。
朱華はこれを許せず、天上に帰ろうとした。
龍に戻ろうと宝珠を手にした時、足元やら肩口やらに龍が苦手とする百足を幾匹も投げつけられた。朱華は思わず宝珠を取り落としてしまった。
宝珠は床を転がり、下種な皇帝の手がそれを拾い上げた。
「返せ。私の宝珠だ」
「ふん、これがなければお前は天に帰れない。龍の守護する国だと、笑わせるな。俺だって、この宝珠があれば世界を支配することができる。兄上は馬鹿だ。龍に助言しか求めないなど、宝の持ち腐れというもの。天下を全て手中にできるのにしないのは、為政者の器ではないわ」
「愚かな」
「ふん。朱華よ、お前の役目はもう終わりだ。この宝珠で俺は願いを叶える。お前も俺の妻となれ。年増とは言え、見た目はまだ生娘のようではないか。可愛がってやるぞ」
「断る」
「強気なことよ。いつまでそれが続くかな。おい、こいつを奥宮に連れて行け」
朱華は宝珠を取られると人の姿を保つのがやっとで、連行されるのに逆らえなかった。
奥宮は鉄でできた建物だった。龍は鉄を嫌う。おまけに至るところを五色の糸で巻かれていた。これも龍が苦手とするものだった。
宝珠を奪われ、鉄の建物に五色の糸で閉じ込められた朱華は、地上の人間と同じように年をとり始めた。
口元に小皺が浮かび、手の甲に血管が浮いた。内から発光していたような緋色の髪も輝きを失った。
数年ぶりに朱華の姿を見に来た皇帝は、嘲笑った。
「惨めなものよな。これでは俺の伽の相手は務まるまい。女が若さを失えば価値などないが、お前が生きている限り宝珠は有り続けるのだろう? だから生かしておいてやる」
でっぷりと肥えた男は気高さの欠片もなく、頬の弛んだ顔を歪ませて満足そうに去っていった。
鉄の扉がガシャンと閉じた。
生かしておいてやる、とは言ったが、朱華の元には誰も来なかった。部屋を整える者も、食事を運ぶ者も、話をする者も。そして誰もそのことに気付いていなかった。
その後、傲慢な皇帝が死に、愚鈍な息子が玉座に座った。
彼は何も知らなかった。
父皇帝が何人もの女を後宮に召し上げ、幾つもの宮を建てたことは知っていた。だが、その奥にある鉄の離宮に誰を押し込めたのかは聞いていなかった。誰かが住んでいるとも思わなかった。
朱華のことは、とうに人々の記憶から剥落していた。離宮の鉄は錆に埋もれ、五色の糸はくすんで原形を留めぬほどに朽ちていた。どうして中に生きた者がいると思えよう。
何もできぬ皇帝は、奸臣の言いなりであった。
父親から朱華の宝珠のことは聞かされていなかった。ただ、宝物殿にある緋色の玉だけは、そこから出してはならぬとだけ、きつく言い含められていた。これさえ手中にあれば、帝国は繁栄が未来永劫約束されているからと。
その時は、どうせ帝国に箔をつけるための伝説だろうと、男は気にも留めていなかった。
しかし、帝位に就いたものの、愚昧な男に華々しい活躍の場はなかった。ただお膳立てされた通りに動き、渡された文を読みあげ、国政は一部の者に都合よく回っていた。
皇帝という地位が、それほど心躍るものでもないと遅ればせながら気付いた男は、かつてくどいほどに父親から念を押された宝物殿の緋色の玉を見に行った。
それさえあれば国は意のままだと言うのなら、さぞかし美しく秘めた力が漂うような玉なのだろうと予想した。しかし、桐箱の中で金襴の布団の上に鎮座していたのは、ただの濁った赤黒い球だった。愚鈍な男は裏切られた思いで、この玉を宝物殿から持ち出した。我が帝国の宝物殿には相応しくないと判じたのだ。
錆だらけの鉄の離宮の中で、朱華は自分の宝珠が以前より近くにあるように感じた。
「人としての命の尽きる前の夢なのか」
朱華は薄目を開けてみた。寝具の他は何もない部屋で、朱華は横たわっていた。老いさらばえた容貌は見なくても分かる。枯れ枝のような朱華の腕が、宝珠を求めて伸ばされた。
突如、宮殿の真上に黒雲が湧いた。
それまでの晴天が嘘のように、分厚い雲が空を覆い、真夜中の様相を呈した。
雷鳴が轟き、宮殿のあちこちで煙や炎が上がった。
悲鳴と靴音と人や物がぶつかる音が絶え間なく響いた。
朱華は雷鳴の中に、愛しい黒龍、玄燿の咆哮を聞いた。
「玄燿」
力なく朱華は番の名を呼んだ。
刹那に閃光が黒雲を引き裂き、黒龍が姿を現した。
宮中の人間は腰を抜かし、気を失い、まともに立っていられる者はいなかった。
「我が番、朱華はどこにいる」
答えられる者はいない。
「どこにいると聞いている」
「お許しください。存じませぬ」
ポツリ、と降り始めた雨が、たちまち豪雨となった。
黒龍は人間どもを捨て置いて、朱華の気配を探った。
「あそこか」
忌まわしい鉄の檻が朱華を閉じ込めていることに気付いた。
黒龍は五本の爪で鉄の檻を器用にこじ開けた。
そこで目にしたのは、人の形で老いさらばえ、今にも命の灯が消えようとしている朱華の姿だった。
「玄燿?」
朱華は色をなくしかけた眼で番を見て微笑んだ。
黒龍はすぐさま自分の宝珠を朱華に持たせ、命を繋ぎ止めた。
黒龍は怒り狂った。
咆哮を放ち、雷雲を呼び起こした。
滝のような豪雨が山や畑や建物を流した。
龍の怒りは留まることを知らず、国は泥土に埋もれた。
雲が薄まり、雨が止んだ。
日が差すと、泥から飛び出た木の枝の先に、煌めく緋色の宝珠が載っていた。
「あれ、あそこに」
黒龍に抱えられた老婆は宝珠を手にした。
すると、白髪は伸びる端から抜け落ち、艶のある緋色の髪が形の良い頭を覆った。
肌の皺はみるみる消え、萎びた指先はふっくらと、爪は珊瑚の輝きを放った。
美しき人の姿の女は、宝珠を抱いて額に当てた。
たちまち緋色の龍に姿を変え、黒き龍と天に昇った。
その世にも気高き光景を目にした人間は一人もいなかった。
やがて泥の中から緑が芽吹き、
草が生え、木々が育ち、
飛んできた鳥が棲みついた。
黒龍は、もうここには人の子は入れぬと決めた。
人以外の生き物の棲む国にしよう。
見栄も、邪心も、野心もない、ただ日々の単純な営みを繰り返すだけの生き物の国にしよう。
番の朱華が心安らかにいられるように。
読んでいただき、ありがとうございました。




