第五話 ゴミとカリスマ
霞む視界の中、ゴーストノイズの拳が、無防備な俺へゆっくりと——
(ここまで、か……)
——落ちてくる。
俺は死を覚悟して、固く目を閉じた。
ドンッ!
衝撃音。……いや、違う。
痛みが、ない。
恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
俺を殴り潰すはずだったゴーストノイズの巨腕が、根元から“横”に吹き飛んでいた。
……じゃまだ、ゴミが。
静かで、冷たい声が鼓膜を刺した。
いつの間にか、俺の真横に“誰か”が立っている。
光を反射するような赤い髪が、鏡界のセピアの空気を切り裂く。
冷たい瞳が、吹き飛んだノイズの残骸を一瞥する。
『!?』
『え』
『うそ』
『今の何!?』
『あの赤髪……まさか』
『鴉森狂夜!?』
『なんでフォロワー5のゴミ配信にガチのランカーがいんだよ!?』
コメント欄が爆発した。
観測ドローンが俺と“彼”を交互に必死で映す。
レンズが震え、オートフォーカスが追いつかない。
視聴者数が跳ね上がっていく。
《視聴者数:5 → 1500 → 8000 → 50000》
なんだ、これ……。
数字がバグったみたいに暴走してる。
鴉森……狂夜……?
以前、ECHOのWikiで見た名前が脳裏をよぎる。
——闇の炎上カリスマ。
フォロワー700万の、本物だ。
『マジかよ! 狂夜が人助けとか!』
『炎上系が善行とか一番オイシイw』
『明日のECHOニュース確定!』
『いいね!』『いいね!』『神回!』
鴉森狂夜の配信でもない。
それなのに、俺の配信のコメント欄が、彼への「いいね」で埋め尽くされていく。
……違う。
俺の配信に、「おこぼれ」が流れ込んでる。
《いいね:3 → 50 → 130》
……っ!
脳が焼ける。
覚えている、この感覚。あの快感。
だが……違う。
こいつらは、俺を見ていない。
俺が欲しいのは“いいね”じゃない。
“俺を見てくれる視線”だ。
この「いいね」は、ただの憐れみだ。
今日のそれは、ひどく……不味い。
鴉森狂夜は、コメントの爆発を一瞥して、盛大に舌打ちした。
そして、残ったゴーストノイズの本体——
いや、俺を助けたことで新たに沸いたレブナントの群れへと向き直る。
その手には、いつの間にか黒曜石のような大剣が握られていた。
《エコーアームズ》
『うおおお、本物の武器!』
『フォロワー5のバット(笑)と格が違うw』
鴉森狂夜は、その大剣を、まるでゴミでも払うように振るった。
空気が切断音を置き忘れる。——一瞬だった。
俺が命懸けで殴りかかっていたザコも、あの絶望的だったゴーストノイズも、
すべてが一撃でノイズに還って霧散した。
『うっそ』
『一撃……』
『これがランカー……』
『なんで狂夜がこんな底辺エリアに?』
『通り道だろ。ヒャパが邪魔だっただけww』
『レブナント掃除おつですw』
これが、ランカー……。
呆然とする俺の視界に、観測ドローンが俺の顔をアップにする。
コメント欄が「おこぼれ」の“いいね”をさらに俺に寄越してきた。
『助かってよかったなヒャパw』
『フォロワー5、奇跡の生還www』
『狂夜様に感謝しろよ、ゴミw』
《いいね:130 → 180 → 250》
脳が、不味い快感で痺れかける。
ダメだ。
こんなの、俺が欲しかった肯定じゃねぇ。
震えが来る。
怒りだ。
奥歯を噛みしめ、俺は立ち上がった。
背を向けて立ち去ろうとする赤髪の男に、俺は叫んでいた。
……おい、テメェ!
鴉森狂夜の足が、ピタリと止まる。
俺の配信で勝手にバズってんじゃねぇぞ、コラァ!!
シン……と鏡界の空気が凍りついた。
次の瞬間、コメント欄が今日一番の速度で爆発する。
『は?』
『え、今なんて?』
『フォロワー5のゴミが狂夜にケンカ売ったwwwww』
『アホすぎて草』
『死ぬぞwww』
『まず狂夜様にお礼言えや』
『炎上カリスマにケンカ売るとか、別の意味で炎上w』
観測ドローンが、狂夜の背中と、俺の顔を交互に映す。
視聴者数がさらに跳ね上がっていく。
鴉森狂夜は、背中を向けたまま、静止していた。
そして——
まるで俺の存在など最初からなかったかのように、
ゆっくりと一歩、踏み出した。
『スルーされてやんのwww』
『ガン無視www』
『フォロワー5なんか目に入ってねぇよ』
『はい、ヒャパお疲れw』
煽りの濁流。
その中で、たった一つ、違う色のコメントが流れた。
『……いや、コイツ、ヤバすぎだろ。フォロワー5が狂夜にガチで殴りかかろうとしてるぞ』
(うるせぇ……)
お礼? なんで俺が礼を言わなきゃならねぇんだ。
あいつは俺の配信を荒らしただけだ。
俺の視聴者を奪った。
(俺を見ろ)
(そいつじゃねぇ)
(俺だけを見ろ……!)
待てっつってんだろ、コラァ!!
理性が焼き切れた。
俺は拳を振りかぶり、無防備なランカーの背中へ渾身の一撃を放つ。
渾身のパンチが空を切る——!
その瞬間。
鴉森狂夜は、振り向きもしなかった。
ただ、俺の踏み込みに合わせて、背後に持っていた大剣の柄の先端を、
俺の鳩尾に「コツン」と軽く合わせただけだった。
……グエッ。
カエルが潰れたみたいな、ダサい声が出た。
衝撃はない。
ただ柄が触れた一点から、全身の力がスッと抜けていく。
呼吸が止まり、視界が白く点滅。
白目を剥いた俺は、その場に膝から崩れ落ちた。
……瞬殺。
コメント欄が一瞬静止したあと、爆笑の渦に包まれた。
『wwwwwwwwwwww』
『ギャグかよwwwww』
『だっさwwwww』
『フォロワー5の限界wwwww』
『腹筋ちぎれるwwww』
鴉森狂夜は、ゆっくりと俺を振り返った。
そして、心底汚いものを見る目で見下ろしていた。
……うるさい、ゴミだ。
吐き捨てるように言い、そのまま立ち去った。
遠のく意識の中、俺は脳に流れ込んでくる“いいね”を感じていた。
それは憐れみじゃない。
ガチのランカーにケンカ売って、カエルみたいな声で瞬殺された、
クソダサいフォロワー5のゴミ——。
そんな俺自身に向けられた、純度100%の“嘲笑”による「いいね」だった。
(ああ……最悪だ……)
(でも……見てる、見てるぞ……)
俺の意識は、そこで完全にブラックアウトした。
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