第十四話『900万円の悪夢と、10000の肉体』
「……ピー、ピー、ピー」
いつものアラーム音。
だが、今日はやけに鼓膜に突き刺さる。
灰色の天井が、いつもよりクッキリと見える。月曜の朝だ。
昨夜――ECHOから強制ログアウトさせられたのは、現実の廃墟モール駐車場。
あの途方もない疲労感と、それ以上の高揚感を引きずったまま、なんとかアパートへ。
泥のように眠った――はず、だった。
「……うるせえ」
枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。
指先が、停止ボタンに触れた瞬間――
バキッ!
「…………は?」
甲高いプラスチックの割れる音。
「ピー、ピー」と鳴り続けていたアラームが、ブツリと途絶える。
俺の手の中で、目覚まし時計が――粉々に砕けていた。
「なっ……」
慌ててベッドから跳ね起き――
ゴツンッ!!
「いってぇ……!」
バネ仕掛けのように跳ね上がった身体が、勢いのまま天井に頭をぶつけた。
安アパート特有の薄っぺらい天井板が、メキメキと悲鳴を上げる。
床に転がり、砕けた時計の残骸と、ヒビの入った天井を交互に見上げた。
――なんだ、これ。
俺の身体、どうなってやがる。
そうだ。昨日のリザルト。
《新規フォロワー:+12050》
《フォロワー(合計):15673》
一万五千人超。
ECHOのWikiで読んだ記憶が蘇る。
フォロワー1000人で「人外一歩手前」。
フォロワー1万人を超えると――「超人級」。
「……これが、“超人級”……!」
焦ってスマホを掴む。
危ねえ、これも握り潰すところだった。
ECHOアプリを起動する。
《保有LP:277》
悪夢が、蘇る。
9000LP――900万円相当を、俺は“ノリ”で消費した。
ストアを開く。
昨日買った機能が、堂々と「加入中」になっている。
《鏡界突入時オート装備:加入中(月額500 LP)》
《ログアウトポイント登録:加入中(月額1000 LP)》
喉がカラカラになる。
合計、月額1500LP。
1LP=1000円。つまり、毎月150万円が自動で引き落とされる。
「……ヤベェ」
今の俺のLPは277。――27万7千円相当。
来月の1日まで、あと三週間もねぇ。
それまでに1500LP……150万円を稼がなきゃ、俺は破産する。
「……破産?」
ECHOで破産って、なんだ? 機能が停止するだけか?
それとも――現実の銀行口座から……?
ゴホッ、ゴホッ。
壁の向こうから、隣のジジイの咳――いや、違う。
壁なんてないみたいに、耳元で聞こえる。
五感が、鋭すぎる。
900万の悪夢と、このバケモノみたいな身体。
俺は、こんな状態でどうやって“空気”に戻れって言うんだ。
どうやって、会社になんて行けと――。
なんとかアパートを出て、会社に着いた。
地獄だ。
満員電車。隣のイヤホンから漏れるシャカシャカ音ですら、鼓膜を裂く。
オフィスでは、キーボードに「豆腐」を触るように指を置くだけ。
少しでも力を入れれば、プラスチックが砕けそうで、仕事にならない。
息を潜め、存在感を消そうとする。
昔の“空気”だった俺を思い出そうとする。
だが――もう違う。
フォロワー1万5千人、超人級の力が、皮膚の下で暴れたがっている。
――昼休み。
同僚が食堂へ向かい、オフィスに俺一人。
……今だ。
900万の恐怖が、胃を締めつける。
月額1500LPのサブスク。残りは277LP。
だが、現実の「金」はまだある。――あの15万が。
超人級の握力に怯えながら、スマホをそっと操作した。
銀行アプリを開く。
「……頼む」
ログイン。残高表示。
そして――
「…………は?」
目を疑った。
15万どころじゃない。ゼロが、多い。
《残高:¥1,350,280》
「ひゃ、130万!?」
声が出そうになるのを、必死で飲み込む。
入出金明細をタップ。見慣れない文字列が目に入った。
《振込:エコー コウケンド ホウシュウ ¥1,200,000》
「い、120万!?」
昨日までの15万に、ミッションの“貢献度報酬”が上乗せされてる!
そうだ。あのギャルが言ってた。LPとは“別枠”だって!
これが……本物の“金”。
120万!
脳が焼ける。
900万の浪費の恐怖が、120万の現金収入の快感で塗り潰されていく。
これなら――サブスク代も……いや、足りねえ。けど、稼げる!
あの世界なら、俺は――稼げる!
「ヒャパパ……!」
ダメだ。現実なのに、口元が勝手に吊り上がる。
異界の“ヒャパパ”の笑いが、灰色のオフィスに滲み出しそうになる。
そうだ。俺が勝てたのは、あのコメントのおかげだ。
『塵も積もりゃ……燃えるゴミくらいにはなるんじゃねぇのか』
俺は震える指で、ECHOアプリを開き、検索窓に入力した。
「鴉森 狂夜」
――いた。フォロワー700万。
DM画面を開く。
(ヤベェ……一応アドバイスくれたんだ。社会人として“お礼DM”送っとかねえと……殺されるかもしれん)
現実の黒江直也として、恐る恐る文字を打つ。
これが社会人の“常識”だ。
「昨日は、その……貴重なアドバイス、ありがとうございました。
あなた様のコメントのおかげで、勝つことができました。
本当に、ありがとうございました。
ヒャパ」
完璧。クソ丁寧。社会人の鑑。
「送信」ボタンを、震える指でタップ。
……でも、脳内はまだ“ヒャパパ”だ。
900万と120万の高揚で、理性が焦げついてる。
顔が、勝手にニヤけていた。
――その最悪のタイミングだった。
「……あの、黒江くん」
「えっ!?」
顔を上げると、いつの間にか白石さんが俺のデスクの横に立っていた。
マズい。今の俺、完全にヤバい顔してる。
白石さんは心配そうに、俺のニヤけきった顔を覗き込んで――
静かに、小さく言った。
「……あなた、また目がイッてるよ」
「えっ!?」
白石さんに“異界の顔”を見られた!?
ヤベェ! 900万と120万に酔って、現実を忘れてた!
慌てて、いつもの“気弱な黒江くん”の顔を作ろうと、デスクに手をついた。
ミシリ。
「……あ」
鉄製のデスク脚が、グニャリと飴のように曲がった。
――シン。
オフィスの空気が凍る。
白石さんは、俺の“イッた目”と“曲がった鉄”を、ゆっくりと二度見して――
「…………え?」
「あ、あの、これ、金属疲労っていうか、元から安物で……!」
「黒江くん、ちょっと来て」
その声は氷点下。
俺の言い訳を遮り、彼女は俺の腕を掴んだ。
「ちょ、白石さん!?」
「いいから」
1万5千人の“超人級”の力を持つ俺が、なぜか振りほどけなかった。
――その夜。
会社帰りのファミレス。
白石さんに呼び出された。二人きり。
彼女はコーヒー。俺は、水。900万の衝撃で、それ以外が喉を通らなかった。
「……で?」
白石さんが、冷ややかに切り出す。
「デスクの脚、どうやったの?」
「い、いや、だから、金属疲労で……」
「私の目を見て言って」
「……っ」
ダメだ。この人には、嘘がつけない。
「その目……この前、あなたが駅前で倒れてた時もそうだったけど、今日はもっとひどい。……あなた、やっぱり『ECHO』をやってるのね?」
「……!」
なんで、それを――。
「私、見たの。この前、あなたが駅前で倒れてた時。あなたを撮ってた、あのドローンを」
――そうか。あの時、俺は彼女に“見られていた”。
唯一、俺を“現実の存在”として見つけてくれた、この人に。
もう隠せない。観念した。
「……はい。やってます」
「……そう」
「俺、『ヒャパ』って名前で……」
「知ってる。……あなたのフォロワー、今、1万5千人なのね」
「え!? なんで……」
「ECHOのアプリ、私も入れてるから。……『見る』だけなら、誰でもできる」
白石さんがスマホの画面を差し出す。
そこには俺の『ヒャパ』のアカウントページ。虎のナックルを構えた俺が、バッチリ映っている。
だが、もう戻れない。
120万の現金収入。900万の価値観。
俺は水を一口飲み、決意を固めた。
「でも、白石さん! 俺、もう大丈夫なんです! 今日、120万も稼いだんです! これであのサブスク代も……!」
「……サブスク?」
「あ、いや、なんでもないです! とにかく、俺、もうあの“空気”だった黒江直也じゃ……!」
「ダメ」
「え?」
俺が「会社辞めます」と言いかけた瞬間、白石さんが食い気味に遮った。
「宝くじに当たって、そのまま破滅する人の目をしてる。……だから、ダメ。会社は辞めさせない」
カップを置き、真っ直ぐに俺を見据える。
「ECHOでいくら稼ごうと、あなたが『ヒャパ』としてどれだけ強くなろうと、関係ない」
「……」
「あなたは、明日もちゃんと会社に来て、『黒江直也』として働きなさい」
「な、んで……」
「……それが、あなたが“人間”でいるための、私との約束」
それは、命令だった。
俺を“現実”に縛り付ける、“鎖”のような言葉だった。




