第一話 『見られない男、バズの音を聞く』
俺の名前は黒江直也、28歳。
……まあ、覚えてる人はいないだろうな。
俺は「空気」だ。
いるのに、いない。
会話しても、認識されない。
人生の彩度ゼロ、グレー一色。
「ピー、ピー、ピー」
朝。静かなオフィスに、無機質な電子音。
俺の横の複合機が、紙詰まりのアラートを上げていた。
(またかよ。昨日補充したばっかなのに)
腰を上げようとした瞬間、同期の田中が通りかかる。
「うわ最悪。誰だよ、補充してねーの。……おい!」
おい、俺ここにいるんだけど。
すり抜けるように、俺の“背後の空間”に声をかける田中。
俺は一応、口を動かす。
「……おはよう、ございます」
が、田中は逆方向に向かって「おはよー!」。
はい、今日も背景オブジェ。
俺の「おはよう」は、エアコンの風音に吸われて消えた。
俺のデスクには、書類タワー。
誰が置いたのかも分からない。付箋もない。
でも、やるのは俺だ。誰もやらないから。
崩れても気づかれない。俺と同じで。
「……あー、えーっと、君」
背後から上司の声。
(また“君”か)
「これ、今日の昼までにまとめといて。最優先ね」
書類の束が、タワーにドン。
入社5年。まだ名前を覚えられない。
“黒江直也”じゃない、“君”という便利ワード。
手取り20万ちょい。昇給なし。彼女歴=年齢。
ニュースは「物価高騰」だの「将来不安」だの。
そんなの、俺の給与明細を見りゃ十分だ。
(……何のために生きてんだ、俺)
酸素より、認識のほうが人間には必要かもしれん。
昼休み。社員食堂の隅。
冷凍唐揚げ弁当。冷めてる。味もしない。
少し離れたテーブルでは、同期たちが盛り上がっていた。
「昨日の『バベるTV』見た?」「冒頭のキメ台詞ヤバくね?」「登録十万いったらしいよ!」
「やっぱ夢あるよな〜配信者」
(配信。バズ。十万。)
キラキラ単語が、俺の灰色世界を通り抜けていく。
俺は通知ゼロのスマホを開く。
メッセージも「いいね」も、不在着C着信もゼロ。
墓標みたいな画面。
(俺も……いつかバズる、なんて。無理か)
誰かに見つけてもらうなんて、奇跡だ。
俺の人生には、そんな演出はない。
夜。駅前。雑踏。
群れに混ざる俺も、無音のまま流れる。
その時だった。
ブツン。
街の巨大スクリーンが、一斉にブラックアウト。
雑踏が一瞬、遠のいた。
──ECHO
《見られた分だけ強くなるSNSアプリ》
《あなたの“視線”が、誰かの力になる》
「……なんだ、これ」
思わずつぶやく。目が離せない。
“見られた分だけ”。
胸の奥。埃かぶってた何かが、かすかに動いた。
(俺は? 今、誰かに見られてるか?)
……いや、いるわけない。
(一回でいい。たった一瞬でもいい。誰かが俺を見てくれたら——)
そんな希望、馬鹿げてる。
でも、もう限界だった。
「……なんでもいい。今を変えられるなら」
俺はポケットからスマホを取り出す。
アプリストアを開き、「ECHO」と検索した。
あった。
アイコンを、強くタップする。
《インストールしますか?》
「……してやるよ」
《ECHO インストール完了》
震える指で、アイコンをタップする。
《起動しますか?》
「ああ」
《YES》
スマホの画面が切り替わる。
ズラリと並んだ、無数のサムネイル。
どれも『LIVE』のマークがついている。
『最強の俺がまた最強になっちまった件』
『新人Vtuber、鏡界おさんぽ配信!』
「……なんだ。結局、ただの配信アプリか」
人気配信者ばっかりじゃん。
どれも視聴者数が万単位だ。
俺みたいなのが入る隙間なんて、どこにも……
諦めてアプリを閉じようとした、その時。
画面の隅っこ。
他のどのボタンよりも小さく、しかし不気味に点滅している赤いボタンに気がついた。
《あなたも“観測対象”になりますか?》
《:鏡界へ転移:》
「……鏡界? 転移?」
厨二病かよ。
ゲームか何かのメタファーか?
でも。
もう、どうでもよかった。
今のこの、空気みたいな現実よりマシなら。
どこだっていい。
「……どうにでもなれ」
俺は、その赤い転移ボタンを、強くタップした。
真っ暗。音が消えた。
重力も、曖昧。
ドクン、ドクン。心臓の音だけがやけにうるさい。
視界が、唐突に戻る。
「……ここ、駅前?」
だが違う。
色が、ない。人も、いない。
セピア色の世界。
ザザァ……。
風の音じゃない。ノイズだ。
(ヤバい。ここ、現実じゃない)
走り出そうとした時——
視界の上、駅ビルの屋上に“それ”がいた。
薄汚れたパーカー。割れたスマホを握る人型。
だが動きがバグってる。
コマ送り。再生と一時停止を繰り返す。
(ホラー映画の演出やめろ……!)
「すいませーん! ちょっといいですかぁ!!」
声が裏返った。恐怖よりも、現実感を確かめたい一心で叫んでいた。
だが、“それ”はピクリとも動かない。
次の瞬間——ギチギチギチ、と首が音を立てて、180度ゆっくりと俺を向いた。
「ヒッ……!」
目が光ってる。スマホが点滅してる。
“それ”が屋上から飛び降り、
空気を裂きながら、まるで重力を忘れたように滑り落ち——
俺の目の前、3メートルで静止した。
「……(ザザッ)……(カエセ)……(イイネ)……」
(声が、バグってる!?)
歪んだノイズが空気をねじ曲げ、皮膚の下を這い回る。
“それ”の腕が上がる。
その手のひら、画面のように黒く、無数のピクセルが崩れ落ちていく。
(死ぬ!!)
反射的に地面を蹴る。
「うぎゃああああ!!?」
アスファルトを滑りながら、息を吸う間もなく走る。
背後の“それ”が、カクカクとした動きで追ってくる。
音がない。
けれど、背中の神経が叫ぶ。
“来てる”。確実に、俺を狙って。
その時。
ウィィィン……。
掌サイズのドローンが、俺の目の前に浮かんだ。
レンズが俺を撮っている。
《LIVE:OFF》
(な、なんだこれ)
《LIVEボタンをタップして配信を開始》
「できるか!!」
払いのけようとした手が触れた。
《LIVE:ON AIR》
《視聴者:0》
(押しちゃった!?)
背後。
バグ人型が、瞬間移動のように距離を詰めてきた。
ノイズが爆ぜ、電波の残骸が耳を裂く。
(あ、死ぬ)
その刹那——
《視聴者:0 → 1》
画面に小さなコメントが表示された。
【コメント:がんばれ!】
「……え?」
たった一言。
それだけなのに——
バチィィィィィィッッ!!
電撃じゃない。脳の奥で、何かが弾けた。
熱い。痛い。気持ちいい。
全部いっしょくたに溶けて、脳が沸騰する。
まるで、酸欠の脳に酸素を一気にぶち込まれたみたいに、快感が弾けた。
灰色の世界が爆ぜ、色が逆流してくる。
赤、青、金。音にすら匂いがついてくる。
世界そのものが、俺の神経を舐めてるみたいだ。
血が熱い。
鼓動がリズムを刻む。
コメントの一言が、心臓に刺さったまま、脈打ってる。
(……見てる。俺を見てる!!)
その瞬間、世界の密度が変わった。
空気がうまい。光が甘い。
ああ、これが——生きてるってことか。
「見てるんだな!? 見てるんだなァァァァ!!!」
叫びと同時に、バグ人型の動きが止まった。
ノイズの渦が弾け、世界がスローモーションになる。
次の瞬間、俺は掴み、叩きつけた。
ズドンッ!!
衝撃波。
ノイズが弾け、光が散り、バグの粒子が破裂して飛び散る。
時間が揺らぐ。俺の腕が、熱で赤く染まる。
全身が震えて、笑いが漏れる。
理性より早く、幸福が勝手にあふれてくる。
(もっと……もっと見てくれ。今の俺を。)
呆然と、自分の手を見る。
視界のウィンドウが、チカカカと更新される。
《撃退!》
《視聴者:1 → 3》
《いいね(Cheers)× 0》
《HYPE:上昇中》
熱い。脳が。指先が。心臓が、うるさい。
(これが、『生きてる』って感じか……!)
「……見られてる」
ああ、ダメだ。口元が、緩む。
笑いが、漏れる。止められない。
「ヒャ……ヒャパパパパァァァ!!!?」
訳の分からない奇声が、自分の喉から飛び出した。
なんだ今の!?
コメント欄が、ポツポツと流れる。
『ヒャパ!?www』
『急に壊れたww』
(……好きかも?)
ゾクゾクする。
ビルの影から、さっきと同じバグった人型が、一体、二体……いや、五体、六体と立ち上がった。
もう、怖くなかった。むしろ——
(あいつらも、俺を『見てる』)
もっと、欲しい。もっと、見られたい。
「ああ……いいぞ。見てくれ」
俺は空気じゃない。オブジェじゃない。
俺は、ここにいる。
頬が吊り上がるのを止められない。
俺は、28年間の人生で、初めて心の底から笑った。
「俺を、もっと見ろ」
視界のウィンドウが、眩しく光る。
機械的な音声が、脳に直接響いた。
《視線が、あなたを存在させる》
「ここからだ。俺の人生。」




