第2章 新米ジャーナリスト
正義という言葉を、僕はまるで万能薬のように信じていた。
誰かが泣いているなら、その涙を止める言葉を書けばいい。
誰かが苦しんでいるなら、その苦しみを訴えればいい。
――そうすれば、きっと世界は少しだけ良くなる。
そんな風に思っていたのは、十八の春。
僕は「王都報社」という大手新聞社に入ったばかりだった。
入社試験で書かされた作文の題は「真実とは何か」。
僕は迷いなくこう書いた。
“誰にでも平等に届く光。”
今なら笑ってしまう。
当時の僕は、光の眩しさが誰かの影を作ることを知らなかったのだ。
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初めて編集部に入ったとき、インクの匂いが胸を打った。
床はいつも埃っぽく、印刷所の音が響き、机の上には紙が山のように積まれていた。
それでも僕は高揚していた。
ようやく「言葉で戦える場所」に立ったのだ。
編集長のアルノは、白髪混じりの壮年の男だった。
最初の朝礼で、彼は僕ら新人にこう言った。
「いいか。新聞は正義の味方じゃない。正義を“選ぶ”側だ。」
若い僕は意味がわからず、手帳にその言葉を書き留めた。
“選ぶ正義”。――その響きが少し怖かった。
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僕の初任地は、王都の東にある市場通りだった。
戦後の混乱の余韻が残る街。
昼の民と夜の民が肩を寄せ合って暮らしていたが、どこかにまだ線があった。
市場ではいつも喧嘩が絶えなかった。
昼の民の男が怒鳴り、夜の民の少年が逃げ出す。
果物を売る声と、罵声と、笑い声が混ざりあっていた。
僕はその喧噪の中に真実を探していた。
――どちらも間違っていない。
そう思ったけれど、記事は一方しか書けない。
夜、編集部に戻ると、上司の女性記者マルタが僕の原稿をのぞき込んだ。
「ふむ、勢いはあるけど……あなたの主張が見えないわね。」
「主張? 現場で見たことをそのまま書いたつもりです。」
マルタはくすっと笑って言った。
「“そのまま”じゃ、誰の心にも届かないのよ。
記者は鏡じゃない、レンズなの。焦点を、あなたが決めなきゃ。」
僕は口をつぐんだ。
当時の僕には、“焦点を決める”ということが、
“誰かを切り捨てる”ことのように思えたのだ。
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最初の数か月は失敗の連続だった。
取材に行っても、誰も本音を話してくれない。
「記者なんて、どうせ都合のいいように書くんだろ」と言われ、追い払われる日もあった。
それでも諦めずに足を運び、
ついにひとつの記事が採用された。
“夜の民の少女、食料配給所で倒れる”。
見出しの下には、僕の名前。
活字になったそれを見て、胸の奥が震えた。
これが、世界に“届く”という感覚なのか。
けれど、翌朝にはもう現実が追いついてきた。
見出しが勝手に変わっていた。
“夜の民、配給所で騒動”。
僕の書いた記事とは似ても似つかない。
編集部の誰かが、読者の目を惹くように“整えた”のだ。
「仕方ないさ」と同僚が肩をすくめた。
「読まれなきゃ意味がない。活字ってのは、伝わってこそ正義なんだ。」
その言葉が、妙に心に残った。
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それから僕は、“伝わる言葉”を意識し始めた。
感情の強い言葉を選び、登場人物に背景を付け、
ときには少し誇張して書くようになった。
たとえば“寒い”は“骨まで凍える”に。
“困っている”は“飢えに喘ぐ”に。
――文章が生きてくる。
そう思えた。
マルタに見せると、彼女は苦笑いをした。
「少し“作りすぎ”ね。」
「でも、読まれるようになりました。」
「読まれることと、届くことは違うわ。」
その違いを、当時の僕は理解しようとしなかった。
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新聞が売れ始めると、編集長の態度も変わった。
「いいぞアルベルト。お前の記事は燃える。」
「ありがとうございます。」
「だがな、もっと煽れ。読者が求めているのは安心じゃない、“敵”だ。」
その一言に、ぞくりとした。
“敵”を作れば、読者は結束する。
分かりやすい構図ほど、人気を呼ぶ。
僕はその誘惑に勝てなかった。
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夜の民による盗難事件が起きたとき、
僕は現場にいた。
誰が犯人なのかもわからない。
ただ、人々の怒りだけが確かだった。
僕はその“怒り”を書いた。
“民の怒号止まず、夜の民に不信の声”
それは、確かに読者の感情を動かした。
新聞は飛ぶように売れた。
だが、数日後に知った。
夜の民の集落で、報復の暴行が起きたと。
僕の記事が、きっかけだった。
その夜、眠れなかった。
ペンが重く、手が震えた。
けれど翌朝には、編集長が笑顔で僕を称賛した。
「君は、時代の声を掴んだ。」
時代の声――。
それが、誰かの悲鳴だとは思わなかった。
その日から、僕は一気に“人気記者”の仲間入りを果たした。
王都の酒場では、知らない人が僕の名を口にするようになった。
「アルベルトの記事、読んだか?」
「痛快だよな、夜の民に遠慮なんかいらん。」
笑いながら言う声を聞くたび、胸のどこかがざわめいた。
彼らは、僕の書いた“真実”を称えている。
……そう思い込もうとした。
けれど、記事に登場した果物商の老夫婦が翌週に市場を畳んだと聞いた。
「誰も買いに来なくなった」
その言葉が頭の奥でこだました。
僕の記事では彼らを責めていない。
それでも、読者の目には“敵”として映ったのだろう。
その夜、灯りを消した編集部に一人残り、印刷前の紙面を眺めた。
紙の白が、やけに冷たく見えた。
僕が書いたのは、“光”のはずだった。
なのに、その光で誰かを照らすたび、
誰かの影が、またひとつ濃くなっていく気がした。
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翌朝、編集長アルノに呼ばれた。
「お前の記事、王都評議会でも話題になってるぞ。」
「……それは、光栄です。」
「まさに“時代の筆”。お前の文章には勢いがある。
民衆の声を代弁している――そう評判だ。」
“代弁”。
その言葉に、僕は軽い眩暈を覚えた。
民衆の声なんて、誰が決めた?
僕が? それとも、新聞社が?
「だがな、もっと燃やせ。」
アルノは笑って、指で机を叩いた。
「炎は強いほど人を惹きつける。
冷静な正義より、燃える言葉が人を動かすんだ。」
そのとき僕は頷いた。
――これが、“伝える”ということなんだ。
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記事を書くたびに、筆は速くなった。
語彙は増え、感情の起伏を煽るコツも覚えた。
「読まれる」ことが、まるで愛されることのように錯覚していた。
社に届く投書の束が、僕の肯定そのものに見えた。
“アルベルトさんの記事を読んで勇気をもらいました”
“真実を語ってくれてありがとう”
“あなたこそ王都の正義です”
正義――。
その二文字が、麻薬のようだった。
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ある晩、マルタが僕の机にやって来た。
「ねえ、アルベルト。あなた、最近の自分の記事を読んでる?」
「もちろん。毎日欠かさず。」
「じゃあ、もう一度読んでみて。あなたの記事には“敵”しか出てこない。」
僕は笑って受け流した。
「世の中に敵がいなければ、誰も立ち上がれませんよ。」
マルタは首を振った。
「あなたは今、“誰かを立たせるために、誰かを倒してる”のよ。」
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
でも、そんな痛みを感じる余裕はなかった。
僕の記事は次々と評判を呼び、ついに特集の依頼まで来たのだ。
“戦後三年――共存の夢は終わったのか”
記者として、これほど大きな題を任されたのは初めてだった。
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取材のために、夜の民の居住区へ向かった。
薄暗い路地、息を潜める人々。
街灯のない通りで、小さな子どもが石を蹴っていた。
「君、学校には行かないの?」
声をかけると、少年は肩をすくめた。
「行っても、昼の民の子が笑うだけさ。」
その目には諦めと、どこか憎しみの影があった。
――これが現実。
だけど、これをそのまま書いて誰が読む?
誰が理解する?
僕はその夜、原稿用紙に向かって筆を走らせた。
“夜の民の少年、無垢な笑顔の裏に潜む怨嗟”。
事実を少し飾るだけで、文章は息を吹き返した。
「これでいい」――そう思った。
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翌朝、その記事は一面を飾った。
見出しは編集部がつけたものだ。
“共存の理想、崩壊か”。
紙面を手にしたとき、胸の奥で何かが軋んだ。
僕が書いたのは、少年の孤独の話だ。
けれど読者が受け取るのは、共存が“終わった”という印象。
街では、僕の記事を語る声が増えていた。
「やっぱり夜の民は信用ならん」
「共存なんて綺麗ごとだったな」
僕の言葉が、僕の意図とは違う刃になって人を切っていた。
それでも――その声が嬉しかった。
“読まれている”という感覚が、それを上書きしていった。
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その日の夕方、マルタが静かに言った。
「あなたの記事で、夜の民の女の子が襲われたわ。」
「……何を言ってるんです?」
「誤解よ。でもね、誰かが“あなたの記事を読んだ”って言ったの。」
彼女は震える手で紙を差し出した。
血の跡がついた少女のスカーフ。
「正義が、誰かを救うならいい。でも、あなたの正義は今、誰かを傷つけてる。」
その言葉が、頭の奥でこだました。
……正義って、なんだ?
夜、ひとりで社屋の屋上に立った。
街は灯りに満ちていた。
人々が僕の言葉を信じ、怒り、涙を流している。
それを見ながら、僕は呟いた。
「俺が書かなければ、誰が真実を伝える?」
その夜、風が強かった。
まるで誰かが答えを拒むように、新聞の切れ端が空に舞い上がっていった。
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翌朝、編集長が言った。
「昇進だ。政治部の副主任として異動してもらう。」
「……政治部?」
「王都の中枢と関われる。名誉なことだ。」
喜ぶべきことだった。
だが、胸の奥では何かが腐っていくような感覚がした。
それでも、笑顔で礼を言った。
自分がどこへ向かっているのか、もう分からなかった。
政治部の部屋は、他の部署とはまるで空気が違っていた。
窓際には重たい絨毯、机の上には封書が山のように積まれ、
昼でも薄暗い。まるで、光を制御しているような場所だった。
「これが王政広報からの“参考資料”だ。」
上司のセディルが分厚い書類束を机に置いた。
「明日の紙面には、この内容をそのまま載せる。」
「取材は……?」
「不要だ。これが“正しい情報”だ。」
取材を重ね、泥だらけで街を歩いてきた自分が、
一瞬で無意味になったような気がした。
机に向かう同僚たちは黙々と筆を動かしていた。
誰も疑問を口にしない。
――それが、この部署の平穏の形だったのだろう。
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最初のうちは、僕も従った。
“記事を書かない記者”でいることの居心地の悪さを、
名誉と給金で誤魔化した。
取材ではなく、言葉の整形。
真実ではなく、正しさの演出。
それでも、ペンを握る指先だけは覚えていた。
あの日、マルタに言われた言葉を。
――あなたの正義は、誰のため?
だが、問いを閉じるほうが楽だった。
ここでは、疑問を抱かない者が“賢い記者”と呼ばれる。
僕もまた、その群れに混じっていた。
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そんなある日、宮廷報道の中で異変が起きた。
夜の民の集落で火災が発生し、多くの犠牲者が出た。
その報せが届いた夜、
僕は久々に外に出て現場を見に行った。
焦げた家屋、すすけた空、焼け焦げた果物の匂い。
泣き崩れる母親の肩を抱きながら、少年が言った。
「誰も助けに来なかった。
『夜の民のせいだ』って……誰も。」
僕の喉が詰まった。
火の手が上がった夜、人々は新聞を読んでいたのだろう。
その新聞には、僕が書いた“彼らへの不信”の記事が載っていた。
――それが引き金になったのだと、気づくまで時間はかからなかった。
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翌朝、編集部に戻ると、上司たちはすでに次の記事を準備していた。
“夜の民、報復か?”
僕の口から、無意識に声が漏れた。
「……違う。これはただの火災だ。」
部屋が一瞬で静まり返った。
セディルが眉をひそめる。
「アルベルト。君はまだ若い。だが、感情で記事を書くな。
読者は恐怖を求めている。真実よりも、秩序を信じたいんだ。」
“真実よりも、秩序”――。
その言葉に、背筋が冷たくなった。
「……それじゃあ、俺たちは誰のために書いてるんです?」
セディルは苦笑し、机を指先で叩いた。
「誰のため、か。
それを考える暇があるうちは、君はまだ一流じゃないな。」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
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夜、印刷所に降りると、鉄の匂いがした。
輪転機が唸り、無数の紙が吐き出されていく。
そこには、僕の名前が載っていた。
内容は――王都政府の声明文をそのまま書き写しただけの“記事”。
それでも、読者はそれを“信じる”。
僕が書いたから。僕が記者だから。
……そんなものが、正義のわけがない。
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その週の終わり、マルタが僕を呼び止めた。
「まだ戦ってる?」
「何と?」
「あなた自身と。」
彼女の笑顔は相変わらず穏やかだった。
「ねえ、アルベルト。真実って、掴むものじゃなくて、
見ようとし続けることじゃない?」
その言葉が、妙に温かく胸に残った。
彼女の背中を見送るうちに、
僕は気づいた――この場所に居続けたら、自分を失う。
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その夜、机の上に辞表を置いた。
紙はわずかに震えていたが、手は静かだった。
あの頃のように、正義を叫ぶことはできない。
でも、もう一度“見ようとする”ことならできる。
街を出る前に、マルタに会いに行った。
「辞めるのね。」
「ええ。……でも、書くことはやめません。」
「あなたらしいわ。」
「たぶん、俺にしか書けないものがある。
それを――見つけに行きます。」
彼女は少し寂しそうに笑った。
「その言葉、きっと後で笑われるわよ。」
「そのとき笑えばいい。」
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夜風が頬を撫でた。
王都の灯りが遠ざかっていく。
背中の荷物には、筆記帳とペンと、数枚の紙。
記者としては最低限。だが、人としては十分だった。
――真実は、誰かの許可を得て語るものじゃない。
そう思えた瞬間、胸の奥に少しだけ熱が戻った。
これが、僕が記者として“生まれ直した夜”だった。
そして後に、
僕の小さな個人新聞《街の目》が産声を上げることになる。
だがそのときの僕はまだ、
「真実を語れば世界は変わる」と本気で信じていた。
――それが、次の過ちの始まりだった。




