表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第2章 新米ジャーナリスト


 正義という言葉を、僕はまるで万能薬のように信じていた。

 誰かが泣いているなら、その涙を止める言葉を書けばいい。

 誰かが苦しんでいるなら、その苦しみを訴えればいい。

 ――そうすれば、きっと世界は少しだけ良くなる。


 そんな風に思っていたのは、十八の春。

 僕は「王都報社」という大手新聞社に入ったばかりだった。


 入社試験で書かされた作文の題は「真実とは何か」。

 僕は迷いなくこう書いた。

 “誰にでも平等に届く光。”


 今なら笑ってしまう。

 当時の僕は、光の眩しさが誰かの影を作ることを知らなかったのだ。


---


 初めて編集部に入ったとき、インクの匂いが胸を打った。

 床はいつも埃っぽく、印刷所の音が響き、机の上には紙が山のように積まれていた。

 それでも僕は高揚していた。

 ようやく「言葉で戦える場所」に立ったのだ。


 編集長のアルノは、白髪混じりの壮年の男だった。

 最初の朝礼で、彼は僕ら新人にこう言った。


 「いいか。新聞は正義の味方じゃない。正義を“選ぶ”側だ。」


 若い僕は意味がわからず、手帳にその言葉を書き留めた。

 “選ぶ正義”。――その響きが少し怖かった。


---


 僕の初任地は、王都の東にある市場通りだった。

 戦後の混乱の余韻が残る街。

 昼の民と夜の民が肩を寄せ合って暮らしていたが、どこかにまだ線があった。


 市場ではいつも喧嘩が絶えなかった。

 昼の民の男が怒鳴り、夜の民の少年が逃げ出す。

 果物を売る声と、罵声と、笑い声が混ざりあっていた。


 僕はその喧噪の中に真実を探していた。

 ――どちらも間違っていない。

 そう思ったけれど、記事は一方しか書けない。


 夜、編集部に戻ると、上司の女性記者マルタが僕の原稿をのぞき込んだ。

 「ふむ、勢いはあるけど……あなたの主張が見えないわね。」

 「主張? 現場で見たことをそのまま書いたつもりです。」

 マルタはくすっと笑って言った。

 「“そのまま”じゃ、誰の心にも届かないのよ。

  記者は鏡じゃない、レンズなの。焦点を、あなたが決めなきゃ。」


 僕は口をつぐんだ。

 当時の僕には、“焦点を決める”ということが、

 “誰かを切り捨てる”ことのように思えたのだ。


---


 最初の数か月は失敗の連続だった。

 取材に行っても、誰も本音を話してくれない。

 「記者なんて、どうせ都合のいいように書くんだろ」と言われ、追い払われる日もあった。


 それでも諦めずに足を運び、

 ついにひとつの記事が採用された。

 “夜の民の少女、食料配給所で倒れる”。


 見出しの下には、僕の名前。

 活字になったそれを見て、胸の奥が震えた。

 これが、世界に“届く”という感覚なのか。


 けれど、翌朝にはもう現実が追いついてきた。

 見出しが勝手に変わっていた。

 “夜の民、配給所で騒動”。


 僕の書いた記事とは似ても似つかない。

 編集部の誰かが、読者の目を惹くように“整えた”のだ。

 「仕方ないさ」と同僚が肩をすくめた。

 「読まれなきゃ意味がない。活字ってのは、伝わってこそ正義なんだ。」


 その言葉が、妙に心に残った。


---


 それから僕は、“伝わる言葉”を意識し始めた。

 感情の強い言葉を選び、登場人物に背景を付け、

 ときには少し誇張して書くようになった。


 たとえば“寒い”は“骨まで凍える”に。

 “困っている”は“飢えに喘ぐ”に。

 ――文章が生きてくる。

 そう思えた。


 マルタに見せると、彼女は苦笑いをした。

 「少し“作りすぎ”ね。」

 「でも、読まれるようになりました。」

 「読まれることと、届くことは違うわ。」

 その違いを、当時の僕は理解しようとしなかった。


---


 新聞が売れ始めると、編集長の態度も変わった。

 「いいぞアルベルト。お前の記事は燃える。」

 「ありがとうございます。」

 「だがな、もっと煽れ。読者が求めているのは安心じゃない、“敵”だ。」


 その一言に、ぞくりとした。

 “敵”を作れば、読者は結束する。

 分かりやすい構図ほど、人気を呼ぶ。


 僕はその誘惑に勝てなかった。


---


 夜の民による盗難事件が起きたとき、

 僕は現場にいた。

 誰が犯人なのかもわからない。

 ただ、人々の怒りだけが確かだった。


 僕はその“怒り”を書いた。

 “民の怒号止まず、夜の民に不信の声”

 それは、確かに読者の感情を動かした。

 新聞は飛ぶように売れた。


 だが、数日後に知った。

 夜の民の集落で、報復の暴行が起きたと。

 僕の記事が、きっかけだった。


 その夜、眠れなかった。

 ペンが重く、手が震えた。

 けれど翌朝には、編集長が笑顔で僕を称賛した。

 「君は、時代の声を掴んだ。」


 時代の声――。

 それが、誰かの悲鳴だとは思わなかった。


その日から、僕は一気に“人気記者”の仲間入りを果たした。

 王都の酒場では、知らない人が僕の名を口にするようになった。

 「アルベルトの記事、読んだか?」

 「痛快だよな、夜の民に遠慮なんかいらん。」

 笑いながら言う声を聞くたび、胸のどこかがざわめいた。


 彼らは、僕の書いた“真実”を称えている。

 ……そう思い込もうとした。


 けれど、記事に登場した果物商の老夫婦が翌週に市場を畳んだと聞いた。

 「誰も買いに来なくなった」

 その言葉が頭の奥でこだました。

 僕の記事では彼らを責めていない。

 それでも、読者の目には“敵”として映ったのだろう。


 その夜、灯りを消した編集部に一人残り、印刷前の紙面を眺めた。

 紙の白が、やけに冷たく見えた。

 僕が書いたのは、“光”のはずだった。

 なのに、その光で誰かを照らすたび、

 誰かの影が、またひとつ濃くなっていく気がした。


---


 翌朝、編集長アルノに呼ばれた。

 「お前の記事、王都評議会でも話題になってるぞ。」

 「……それは、光栄です。」

 「まさに“時代の筆”。お前の文章には勢いがある。

  民衆の声を代弁している――そう評判だ。」

 “代弁”。

 その言葉に、僕は軽い眩暈を覚えた。

 民衆の声なんて、誰が決めた?

 僕が? それとも、新聞社が?


 「だがな、もっと燃やせ。」

 アルノは笑って、指で机を叩いた。

 「炎は強いほど人を惹きつける。

  冷静な正義より、燃える言葉が人を動かすんだ。」


 そのとき僕は頷いた。

 ――これが、“伝える”ということなんだ。


---


 記事を書くたびに、筆は速くなった。

 語彙は増え、感情の起伏を煽るコツも覚えた。

 「読まれる」ことが、まるで愛されることのように錯覚していた。

 社に届く投書の束が、僕の肯定そのものに見えた。


 “アルベルトさんの記事を読んで勇気をもらいました”

 “真実を語ってくれてありがとう”

 “あなたこそ王都の正義です”


 正義――。

 その二文字が、麻薬のようだった。


---


 ある晩、マルタが僕の机にやって来た。

 「ねえ、アルベルト。あなた、最近の自分の記事を読んでる?」

 「もちろん。毎日欠かさず。」

 「じゃあ、もう一度読んでみて。あなたの記事には“敵”しか出てこない。」

 僕は笑って受け流した。

 「世の中に敵がいなければ、誰も立ち上がれませんよ。」

 マルタは首を振った。

 「あなたは今、“誰かを立たせるために、誰かを倒してる”のよ。」


 その言葉に、胸の奥がちくりとした。

 でも、そんな痛みを感じる余裕はなかった。

 僕の記事は次々と評判を呼び、ついに特集の依頼まで来たのだ。


 “戦後三年――共存の夢は終わったのか”

 記者として、これほど大きな題を任されたのは初めてだった。


---


 取材のために、夜の民の居住区へ向かった。

 薄暗い路地、息を潜める人々。

 街灯のない通りで、小さな子どもが石を蹴っていた。

 「君、学校には行かないの?」

 声をかけると、少年は肩をすくめた。

 「行っても、昼の民の子が笑うだけさ。」

 その目には諦めと、どこか憎しみの影があった。


 ――これが現実。

 だけど、これをそのまま書いて誰が読む?

 誰が理解する?


 僕はその夜、原稿用紙に向かって筆を走らせた。

 “夜の民の少年、無垢な笑顔の裏に潜む怨嗟”。

 事実を少し飾るだけで、文章は息を吹き返した。

 「これでいい」――そう思った。


---


 翌朝、その記事は一面を飾った。

 見出しは編集部がつけたものだ。

 “共存の理想、崩壊か”。


 紙面を手にしたとき、胸の奥で何かが軋んだ。

 僕が書いたのは、少年の孤独の話だ。

 けれど読者が受け取るのは、共存が“終わった”という印象。


 街では、僕の記事を語る声が増えていた。

 「やっぱり夜の民は信用ならん」

 「共存なんて綺麗ごとだったな」


 僕の言葉が、僕の意図とは違う刃になって人を切っていた。

 それでも――その声が嬉しかった。

 “読まれている”という感覚が、それを上書きしていった。


---


 その日の夕方、マルタが静かに言った。

 「あなたの記事で、夜の民の女の子が襲われたわ。」

 「……何を言ってるんです?」

 「誤解よ。でもね、誰かが“あなたの記事を読んだ”って言ったの。」


 彼女は震える手で紙を差し出した。

 血の跡がついた少女のスカーフ。

 「正義が、誰かを救うならいい。でも、あなたの正義は今、誰かを傷つけてる。」


 その言葉が、頭の奥でこだました。

 ……正義って、なんだ?


 夜、ひとりで社屋の屋上に立った。

 街は灯りに満ちていた。

 人々が僕の言葉を信じ、怒り、涙を流している。

 それを見ながら、僕は呟いた。

 「俺が書かなければ、誰が真実を伝える?」


 その夜、風が強かった。

 まるで誰かが答えを拒むように、新聞の切れ端が空に舞い上がっていった。


---


 翌朝、編集長が言った。

 「昇進だ。政治部の副主任として異動してもらう。」

 「……政治部?」

 「王都の中枢と関われる。名誉なことだ。」


 喜ぶべきことだった。

 だが、胸の奥では何かが腐っていくような感覚がした。

 それでも、笑顔で礼を言った。

 自分がどこへ向かっているのか、もう分からなかった。


政治部の部屋は、他の部署とはまるで空気が違っていた。

 窓際には重たい絨毯、机の上には封書が山のように積まれ、

 昼でも薄暗い。まるで、光を制御しているような場所だった。


 「これが王政広報からの“参考資料”だ。」

 上司のセディルが分厚い書類束を机に置いた。

 「明日の紙面には、この内容をそのまま載せる。」

 「取材は……?」

 「不要だ。これが“正しい情報”だ。」


 取材を重ね、泥だらけで街を歩いてきた自分が、

 一瞬で無意味になったような気がした。


 机に向かう同僚たちは黙々と筆を動かしていた。

 誰も疑問を口にしない。

 ――それが、この部署の平穏の形だったのだろう。


---


 最初のうちは、僕も従った。

 “記事を書かない記者”でいることの居心地の悪さを、

 名誉と給金で誤魔化した。

 取材ではなく、言葉の整形。

 真実ではなく、正しさの演出。


 それでも、ペンを握る指先だけは覚えていた。

 あの日、マルタに言われた言葉を。

 ――あなたの正義は、誰のため?


 だが、問いを閉じるほうが楽だった。

 ここでは、疑問を抱かない者が“賢い記者”と呼ばれる。

 僕もまた、その群れに混じっていた。


---


 そんなある日、宮廷報道の中で異変が起きた。

 夜の民の集落で火災が発生し、多くの犠牲者が出た。

 その報せが届いた夜、

 僕は久々に外に出て現場を見に行った。


 焦げた家屋、すすけた空、焼け焦げた果物の匂い。

 泣き崩れる母親の肩を抱きながら、少年が言った。

 「誰も助けに来なかった。

  『夜の民のせいだ』って……誰も。」


 僕の喉が詰まった。

 火の手が上がった夜、人々は新聞を読んでいたのだろう。

 その新聞には、僕が書いた“彼らへの不信”の記事が載っていた。


 ――それが引き金になったのだと、気づくまで時間はかからなかった。


---


 翌朝、編集部に戻ると、上司たちはすでに次の記事を準備していた。

 “夜の民、報復か?”

 僕の口から、無意識に声が漏れた。

 「……違う。これはただの火災だ。」

 部屋が一瞬で静まり返った。

 セディルが眉をひそめる。

 「アルベルト。君はまだ若い。だが、感情で記事を書くな。

  読者は恐怖を求めている。真実よりも、秩序を信じたいんだ。」


 “真実よりも、秩序”――。

 その言葉に、背筋が冷たくなった。


 「……それじゃあ、俺たちは誰のために書いてるんです?」

 セディルは苦笑し、机を指先で叩いた。

 「誰のため、か。

  それを考える暇があるうちは、君はまだ一流じゃないな。」


 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。


---


 夜、印刷所に降りると、鉄の匂いがした。

 輪転機が唸り、無数の紙が吐き出されていく。

 そこには、僕の名前が載っていた。

 内容は――王都政府の声明文をそのまま書き写しただけの“記事”。


 それでも、読者はそれを“信じる”。

 僕が書いたから。僕が記者だから。


 ……そんなものが、正義のわけがない。


---


 その週の終わり、マルタが僕を呼び止めた。

 「まだ戦ってる?」

 「何と?」

 「あなた自身と。」

 彼女の笑顔は相変わらず穏やかだった。

 「ねえ、アルベルト。真実って、掴むものじゃなくて、

  見ようとし続けることじゃない?」


 その言葉が、妙に温かく胸に残った。

 彼女の背中を見送るうちに、

 僕は気づいた――この場所に居続けたら、自分を失う。


---


 その夜、机の上に辞表を置いた。

 紙はわずかに震えていたが、手は静かだった。

 あの頃のように、正義を叫ぶことはできない。

 でも、もう一度“見ようとする”ことならできる。


 街を出る前に、マルタに会いに行った。

 「辞めるのね。」

 「ええ。……でも、書くことはやめません。」

 「あなたらしいわ。」

 「たぶん、俺にしか書けないものがある。

  それを――見つけに行きます。」


 彼女は少し寂しそうに笑った。

 「その言葉、きっと後で笑われるわよ。」

 「そのとき笑えばいい。」


---


 夜風が頬を撫でた。

 王都の灯りが遠ざかっていく。

 背中の荷物には、筆記帳とペンと、数枚の紙。

 記者としては最低限。だが、人としては十分だった。


 ――真実は、誰かの許可を得て語るものじゃない。


 そう思えた瞬間、胸の奥に少しだけ熱が戻った。


 これが、僕が記者として“生まれ直した夜”だった。

 そして後に、

 僕の小さな個人新聞《街の目》が産声を上げることになる。


 だがそのときの僕はまだ、

 「真実を語れば世界は変わる」と本気で信じていた。

 ――それが、次の過ちの始まりだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ