鱗のない人魚
「紀乃ちゃん、そこの扉、ママが帰って来るまで開けちゃダメだよ」
「どうして開けちゃダメなの?」
「蛇口が壊れちゃって、お水ジャージャージャーなの」
「お水、じゃーじゃーじゃーぁ?」
扉を開けると部屋に貯まった水が洪水の様に流れ込むから『開けちゃいけない』、そう母に言われていた。だからその部屋はずっと開かずの間になっている。
小さい頃はなんの疑問も持たずに「うん、わかった」と返事して、一人でお留守番をした。お留守番の間、勝手に扉が開かない様にと見張ったりもしていた。
いつ頃からか「なぜ家の中に水が貯まった部屋があるんだろう?」、そんな疑問を抱くようになっていた。それは当然の好奇心と言えるだろう。決して開けてはいけない部屋がこの家の中にあるのだから。
その日も母はまた外出するのだという。
「紀乃ちゃん、出掛けてくる間、お留守番お願いね」
幼かった頃の様に、あの扉の前に立ってみた。扉を見張るためなんかじゃなく、開けてみるためだ。だが、流石に中学校に入るくらいの年頃ともなれば、勢いよく扉を開こうだなんて真似はしない。
そっと扉に耳をあててみた。
コポコポシュジュシュシューーー ゴボゴボゴボゴボ
何かが水中を泳いでる? 目を見開いたまま紀乃は扉から遠のいた。だが扉に手繰り寄せられる様にもう一度、耳があたる。聞き間違いじゃない。やはり何か大きなモノが泳いでるいる様な音がする。
水中を泳ぐなんて言ったら魚以外に何がいるというのだろう? 人魚? まさか。家に人魚が住まうなんてあり得ない。それ以前の問題だろう、母からは何も聞かされていない。
視界に映る扉にはノブが付いていなかった。深く考えた事は無かったが、そういうものだと、ずっと思っていた。『開けちゃいけない』も何も、開かないし、開けられない様になっている。
どれくらいの時間が経っただろう ────
急に目の前がぱっと明るくなった。光が差し込んだ様に濁っていた視界を澄み渡らせる。白く小さなタイルが敷き詰められたそこは、目地が汚れて網の目の様に見えなくもない。
まるで捕らえられた魚の様。
しっかりと水が注がれ、冷たく揺らめいて体に沿うと滴って、網の目を伝い排水口で音を立ている。直ぐ近くに掬い上げられていたのが人魚じゃなくてほっとした。足もしっかりと付いている。
組織の固定が済んだ献体なのだろうか。端にはホルマリンやエタノールの容器。
「紀乃ちゃん、遅くなってごめんね」
機嫌がいいのか声のトーンが高くて若々しい。
この人は母なんかじゃない。
そうか今日は容器から取り出されてまた解剖されるんだった。