最終話 陽は落ちても、灯は残る
その日、ギルドの誰もが口を閉ざしていた。
アレクシオ=リオンドール、帰還せず。
サイアも、カイルも同様。
それでも、ただ一人、諦めなかった者がいた。
エルド=アルバトロス。
雷斧の戦士は、愛する妻と生まれたばかりの息子を抱えながらも、日々、奈落の調査報告に目を通し、討伐隊の編成に協力し、自らも深層に何度も潜った。
「帰ってくる。俺には、そうとしか思えない」
何年経っても、そう言い続けた。
周囲は「気持ちはわかる」と言いながらも、もう“英雄たちの墓標”を作るべきだと諭してきた。
それでも、彼は雷斧を手放さなかった。
――時は流れる
エルドが50を過ぎた頃、息子ギルバートもまた、父に憧れて冒険者となり、名を上げた。
そして、彼もまた、最高の仲間達と奈落に挑み、六大将との戦いで、命を落とした。
第二の別離。
だが今度は、エルドは泣くことすらできなかった。残されたのは、ギルバートの妻と、二人の幼い孫――
ジャンとマロン。
そしてリーネ。かつて奈落をともに生き抜いた仲間であり、最愛の妻。だが彼女もまた、身体に病を宿し、少しずつ弱っていった。
その冬。リーネが、静かに眠るように旅立った。その手を握ったまま、エルドは一晩中、言葉を失った。
家は静かだった。
冒険の音も、雷斧の爆音も、もうここにはなかった。あるのは、日々の食事の支度と、泣き声と笑い声と、眠れぬ夜のための薬草の香り。
雷斧の戦士は、今や、孫の寝顔を守るただの老人となっていた。
そして、試練は再び訪れる
孫の一人、マロンが不治の病を患った。目が見えず、喉が焼け、呼吸もままならなくなる病。
マロンは静かにベッドに横たわり、何も言わなかった。医者も、神官も、呪術師も首を振った。
「もう……してやれることは、祈ることだけだ」
そう言われた日の夜。ジャンが、エルドの前で一言、こう言った。
「じいちゃん。俺、奈落に行く。“百薬の水”を手に入れる」
同じだった。かつて、父ギルバートが、祖父エルドが、そして英雄アレクシオが、命をかけて挑んだ道。
数ヶ月後。ジャンはその手に、小さな瓶を携えて帰ってきた。中には、凍らぬ一滴の、透き通った液体――
「百薬の水」
それは確かに、あのときアレクシオたちが手に入れたのと同じ光を宿していた。
「これをくれた人がいる。アルガードって名前だった。すごく強くて、優しくて……そうそう、アレクシオさんの話を知ってた」
「……ああ、あの人の遺志を継いだのか」
エルドは笑った。涙をこぼしながら、ゆっくりと。
マロンは、回復した。奇跡は、確かに受け継がれていた。その背中を見つめて、ジャンは呟いた。
「俺……もっと強くなりたい。今度は、俺が守る側になる」
その瞳に、かつてアレクシオを追った自分自身の面影を重ねながら、エルドは静かに頷いた。
数日後。
雷斧の戦士にも、ついにその時が来た。
老いた身体はもう、かつてのように動かなかった。
だが、静かに目を閉じたその顔には、満ち足りた安らぎがあった。
手元には、古びた雷斧と、幼き日のジャンが描いた「家族の絵」が置かれていた。
灰色の空の下、雷斧の戦士は旅立った。幾多の戦いを越え、仲間を見送り、家族を愛し、希望を繋いだ老いた英雄・エルド=アルバトロスの最期は、静かな微笑とともに、まるで眠るようだった。
その葬送の日、街中が鐘を鳴らした。
その名は、多くの人の胸に深く刻まれた。
――そして、目を開ける
あたたかい風が頬を撫でた。
もう痛まない肩も、きしむ膝も、痺れる指もなかった。エルドは立っていた。まばゆい白の原に。
目の前に、ひとりの女性が佇んでいた。
リーネ。
年老いたはずのその姿は、結婚したころと同じだった。
柔らかく微笑むその顔に、懐かしさが胸を打つ。
「……遅かったじゃない。何年待ったと思ってるの」
「まさか……お前の方が先に逝くとは思ってなかったさ」
エルドはそう言って、肩をすくめた。
リーネは軽く笑いながら、彼の頬に手を添える。
「でも、ずっと見てたよ。ギルバートも、ジャンも、マロンも。……よく頑張ったね」
「いや……俺は、何一つ救えなかった気がしてた」
「そんなことない。あんたは、全部守ってたよ。あの子たちの心も、未来も」
リーネはそっと彼の胸に額を当てた。
エルドはその肩に腕を回し、小さく、深く息をついた。
しばらくして、ふたりで並んで歩き出す。
この世でもあの世でも、エルドはリーネと並ぶのが一番好きだった。
「なあ、俺たち……ずいぶん“歳”を取ったな」
「ううん。……あなたの方は、まだマシよ? 私なんて、髪もシワも……それはもう酷かった」
「いやいや、お前のシワなんか、全部宝物だったさ」
「上手くなったね、そういうの。もうちょっと早く言ってくれてたら、もっと惚れたかも」
「これ以上惚れられても、困るんだけどな」
ふたりは笑った。そして、白い丘の向こうに見える誰かの背中に、エルドの足が止まる。
そこに、あの背中があった
雷のような巨斧を肩に背負い、長身の男が丘の向こうで風を浴びていた。
アレクシオ=リオンドール。
その姿を見た瞬間――
エルドの体から、雷光のような熱が走った。握っていたリーネの手が、すっと離れる。
「行ってあげて」
「……でも、お前を――」
「私は、待ってる。ずっと、これからも」
振り返ったとき。エルドの姿は、もう“少年”だった。
雷斧に憧れ、英雄の背中を追い、旅を始めた――
あの日の少年。
彼は、ただ叫んだ。
「アレクシオ様ーーーッ!!」
アレクシオがゆっくりと振り返る。
笑っていた。懐かしい、あの笑顔で。
「よく来たな、エルド」
「……遅れてすいません! でも、ずっと……ずっとあなたの背中を、見てた!」
言葉が涙に変わる。少年の姿のエルドが、走る。
丘の上で、二人はようやく再会した。
何も語らず、ただ、強く抱き合った。
遠くで、雷のような笑い声が響く。サイアが小さく手を振り、カイルが肩をすくめていた。
――みんなが、待っていた。
やがて、雲の向こうに広がる新しい奈落が、彼らを包み込む。
永遠に続く冒険の道を前に、エルドは、あの日と同じ気持ちで、雷斧を背に立った。
「行こうか、アレクシオ様。……俺たちの、もう一つの旅へ」
「おう。今度こそ、全員で帰ろうぜ」
雷鳴が、祝福のように鳴り響いた。
陽は落ちても、灯は残る
── 生きて、愛し、継ぎ、信じ抜いた男の物語。
ーーー 完 ーーー
この物語は、たったひとつの問いから始まりました。
「英雄は、歳をとったらどうなるのか?」
「戦いが終わった後も、生き続ける者にこそ“物語”はあるのではないか?」
エルド=アルバトロスという男は、最初から“勝者”でも“英雄”でもありませんでした。
彼は、仲間の影にいた。偉大な者たちに憧れ、追いつけない背中を追い続け、それでも自分の手で未来を守ろうと、泥にまみれてあがいた――そんな普通の男です。
だからこそ、彼が大切にしたのは「人」でした。
戦場よりも、帰る家。
力よりも、傍にいる誰か。
伝説よりも、未来に何を残せるか。
彼の歩みは、何度も悲しみに沈みました。
最愛の妻、子、仲間を失い、取り戻せない過去に何度も足を止めそうになったはずです。
それでも――彼は、諦めませんでした。
家族のために。仲間のために。
生き残った者として、背中を見せる者として。
最後の一歩まで、雷斧の誇りを捨てることはなかった。
やがて、物語は孫へと託され、伝説は灯火のように引き継がれていきます。
それが、エルドが選んだ“英雄の生き様”でした。
そして最終話。
ついにすべてを終えたエルドは、雷斧を背に少年の姿で、あの背中に再び手を伸ばします。
人は死んで終わりじゃない。
想いを繋ぎ、生き様を見せ、愛した誰かの中で生き続ける。
この物語が描きたかったのは、そんな“生きた英雄譚”でした。
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もし、あなたの中に、
「誰かの背中を追い続けていた自分」
「もう手遅れだと思いかけていた夢」
「それでも、歩みを止めなかった日々」
があるのなら――
このエルドの物語が、ほんの少しでも背中を押せたのなら、
それこそが、最高の“雷斧の継承”です。
読んでくださって、本当に、ありがとうございました。
もしよろしければ、また本編で会いましょう。
――著者より