奈落の果てに咲いた雷花
【奈落 第八層 雪原エリア】
永遠に凍てつく銀白の世界。氷と雪に閉ざされたこの層は、降下と同時に命を削られる環境であり、低温による魔力減衰、視界不良、さらには氷霧に紛れて襲いかかる“雪鬼種”と呼ばれる凶悪なモンスターたちが徘徊する難関の層だった。
それでも、四人の冒険者は、その銀世界を進んでいた。
エルド=アルバトロス。雷斧を背負った歴戦の戦士にして、未来の父親。
アレクシオ=リオンドール。伝説の英雄。長年、奈落に挑み続けた雷の巨斧使い。
カイル=ヴァレンツァ。元王国騎士団の盾剣使い。堅牢な守りと鋭い突きで、パーティの前衛を固める。
そして――
「風氷」
後衛から飛んだ矢は、青白い魔力を纏い、空中を駆け抜けるようにして、雪鬼の額を貫いた。風属性に氷の魔力を混ぜ込んだ狙撃だった。魔力の芯を叩き割られた雪鬼は、苦鳴も上げずに崩れ落ちる。
「……ナイスショット、サイア」
「当然。こうでもしなきゃ、ここの奴ら、魔力コアごと凍ってるんだから」
弓使いの少女、サイア=エルネスト。銀髪のポニーテールに、魔法細工の弓を携えた天才魔術弓手。属性矢の使い手として名を馳せる彼女は、アレクシオの古い縁でパーティに加わった。
普段は口数が少ないが、弓を構えると豹変する。狙った標的は逃さず、矢一本で仕留める凄腕スナイパーだ。
「……にしても、寒すぎる。帰りたい」
「リーネの腹の子の顔も見てないんだろう? だったら帰る理由にはなるさ」
アレクシオが小さく笑った。エルドは苦笑を返す。
「帰るさ、必ず。全員で」
「その意気だ。でなきゃ、親になる資格がねぇ」
カイルがふと、雪の下に潜んでいた反応を察知し、前へ出る。
「来るぞ! 三時方向、複数体接近!」
「行くぞ……!」
雷斧を構え、エルドが大地を蹴った。
アレクシオが後ろから援護の雷撃を走らせ、サイアの矢が軌道を読み切るように回避ルートを塞いだ。カイルは正面から体当たりしてきた雪鬼の爪を弾き、カウンターの突きを叩き込む。
四人の動きは、まるで長年連携してきたかのように無駄がなかった。
かつてはバラバラだった過去を持つ者たちが、いまや“ひとつの力”としてまとまりつつある。
やがて、最後の雪鬼が倒れ、静寂が戻った。
しばらく進むと、雪嵐がやんだ。だが、それは静寂ではなかった。
地を這うような異音と共に、空が凍りついたような圧力が周囲を包む。
「……空の、色が変わった?」
弓使いの少女、サイアが弦に手をかけながら声を漏らした。
彼女の瞳が、一点を見据える。
次の瞬間、冷たい轟音が天を割った。
――ズン。
白銀の大地を踏みしめる重い足音。それは、巨大な影の登場を告げていた。
「……氷の竜、グラシア・エンバークルス」
カイルが剣を引き抜き、氷の吐息をまとったその姿を凝視する。
現れたそれは、まるで氷で彫られた彫刻のようだった。
透き通る蒼氷の鱗が陽を反射し、まるで星々のかけらを散らしたように輝いている。
凍てつく咆哮は、周囲の魔力さえ凍らせ、地形すら歪めるほど。
「この距離で魔力が凍るって……相当ヤバいわよ、これ」
サイアが矢に炎の魔法を付与する。
紅蓮の気配が矢じりを包み、その力で凍結を押し返す。
「いくぞ!散開!斧と剣で接近、魔法と矢で誘導!集中砲火で、まず片翼を狙う!」
アレクシオの号令で戦闘が始まった。
竜が咆哮とともに翼を広げる。
その一撃で、氷の刃が吹雪と共に降り注いだ。
「くっ……!」
カイルが前衛で剣を交差させ、防御魔法を重ねて防ぐ。
その背後を、エルドがすり抜けるように斧を振るう。
「雷斧連閃・嵐牙ッ!!」
雷を纏った斧が空気を裂き、グラシアの左前脚に深く食い込んだ。
だがすぐに、凍てつく再生の瘴気が傷を閉じていく。
「こいつ……再生力まで持ってんのか!」
「魔力凍結だけじゃない。こいつ……魔法陣の上に棲んでる。再生フィールドごと引き剥がさなきゃ!」
サイアが急速に後退し、三本の矢を同時に放つ。それぞれに雷・炎・風の属性を宿し、竜の翼に集中砲火を浴びせた。
爆音とともに左翼が砕け、グラシアが氷原に墜ちる。
「今だ!総攻撃ッ!!」
全員の攻撃が一点に集中する。雷と炎、風と斬撃。怒涛の連撃の末、エルドの斧が最後の一撃を決める。
「――これが俺たちの、全力だッ!!」
振り下ろされた雷斧が、氷竜の心臓を貫いた。
竜が絶叫し、天空が割れるような音を響かせて――その身体は蒼氷の欠片となって崩れ落ちた。
氷原に、静寂が戻る。
呼吸を整えながら、エルドは倒れた竜の中心へと歩み寄った。
そこに残されていたのは、一滴の透き通る液体。
「……これって……」
「見たことない……でも、感じる。強力な生命力……」
サイアがそっと近づく。その液体は、淡く輝きながら、凍結せずに大地に留まっていた。
アレクシオが膝をつき、それを慎重に瓶へと採取する。
「これは……“百薬の水”だな。まさか、実在していたとは」
伝説の治癒の聖水。どんな毒も、病も、呪いすらも浄化するとされる奇跡の水。
今まで誰一人として地上に持ち帰った者はいなかった。
その後、彼らがギルドに帰還した際、百薬の水は正式に確認され、
「グラシア・エンバークルスの血液から得られた奇跡の遺産」として歴史に刻まれた。
新たな称号が与えられる――
「雪原の星を穿つ者たち」
かつての“雷斧の若獅子”は、今や新たな伝説を創り出す者となっていた。
エルドは空を見上げてつぶやいた。
「リーネ。俺は今、誰よりも生きているって実感してるよ。君と、これから生まれる命のためにも、まだまだ進み続ける」
凍てつく風が吹き抜ける雪原の果てに、朝の光が差し込む。
銀世界を染めるその光は、彼らの影を長く引き伸ばしながら、どこまでも続く冒険の道を照らしていた。
「……帰るか」
アレクシオがふと呟き、背中の巨斧を肩へと乗せる。
エルドはその横顔を見やり、静かにうなずいた。
「家があるって、いいもんだな」
「家族が待ってるんだろう? さっさと帰ってやれ。英雄の凱旋ってやつだ」
「……英雄になったのは、あんたの方だよ」
アレクシオは苦笑を返す。
カイルは冗談めかして言った。
「ま、子供に“最初に抱かせたい男”の座をめぐって争ってもいいぜ?」
「全力で断る」
エルドの即答に、全員が笑った。
その横で、サイアが小さく息を吐く。
「……笑って帰れるの、久しぶりだな」
その瞳は、どこか遠くを見ていた。
「大丈夫。これからは、もっと増えるさ」
エルドの言葉に、彼女はわずかに口元を緩め、頷いた。
《数日後》
それは“底のない深層”――第九層の最奥部にある異界の領域。
そこでは重力すら安定せず、魔力は塵と化し、理性を保つだけでも困難を極める。
だが、アレクシオ=リオンドールは、そこに足を踏み入れていた。サイア、カイルと共に。
ーーーー
その日、エルド=アルバトロスは地上に残っていた。目の前に広がるのは、いつもと変わらない、しかしどこか無機質なギルドの天井。
「……身体が重い。妙な熱が引かない……」
高熱。めまい。そして、昨日からひどくなる鼓動の乱れ。医師は「精神と肉体の過剰消耗が出ている」とだけ告げた。
リーネが傍らで不安そうに彼を見つめる。もう臨月に近いお腹を抱えた彼女に、エルドは無理を言えなかった。だからこそ、自分の代わりにあの三人が、降りていったのだ。
アレクシオ。カイル。そしてサイア。
「……悪い。俺が、行くべきだったのに」
ギルドの窓の外。空は晴れていた。だが、エルドの胸中はずっとざわついていた。
ーーーー
目的は、未知のエリアの解析。…だが、その記録は、帰還することなく途絶えた。
六体の影が、空間の中心に座していた。それが、奈落の支配者にして、神話級存在とされる悪魔、奈落六大将。
憎しみのヘティリド
怒りのアンガレド
恨みのグラージャ
妬みのジェラシア
悲しみのペシミスティ
そして…不安のシャスエティ
「――気配が変わった」
カイルが即座に剣を抜いた。空気が、凍るように重くなる。次の瞬間、空間が割れた。
六体の将が現れたとき、反応する暇もなかった。
「怨憎会苦」
ヘティリドの拳が振り下ろされた瞬間、死霊の大群が地面から湧き上がる。
「サイア、後方から矢を――!」
カイルの声が届く前に、サイアの視界が歪む。ペシミスティの幻術によって、彼女は一瞬、自分の両親が焼かれる過去の記憶を見せられた。
「や……めて……!」
精神に裂け目が走り、動きが止まったその胸を、ジェラシアの爪が貫いた。
「サイアッ!!」
カイルが跳躍し、剣を振り上げたが――
アンガレドの炎の拳が、彼の体を上から叩き潰した。炎の爆発が起きたあと、そこに立っているのは、誰もいなかった。
「……来い。貴様らの“憎しみ”も“怒り”も“恨み”も、全部まとめて――」
アレクシオは、サイアの弓を拾い、カイルの剣を帯び、背中に巨斧を担いだ。
「背負ってやるよ。あいつらの無念と一緒にな」
グラージャの大魔力球を、斧の一閃で打ち砕く。
ジェラシアの神速の爪を、剣で受け、逆に肩を裂いた。
ペシミスティの幻術を、己の左眼を潰して突破した。
「うおおおおおおおおお!!」
アンガレドの炎の拳と激突しながら、叫びながら、アレクシオはヘティリドの紫炎の魔弾を断ち切り、死霊の中心へ雷の斧を投げつけた。
「くそ、化け物か…この人間は!!」
「強すぎる…だった一人で…」
――そして、五体が膝をついた瞬間。
「……!?」
遅かった。黒い影…シャスエティが、背後に立っていた。
「アレクシオ=リオンドール。あなたは危険です。ここで断たねばならない」
「貴様……!」
その言葉が終わる前に。シャスエティが技を放つ。
「暗殺刺突」
空間ごと貫く刺突。音もなく、冷たく、致命的に、アレクシオの胸から、黒い刃が突き出た。
「……俺が……あいつらを……連れて帰るって……」
血を吐きながら、膝をつきながら、それでも――彼は拳を握っていた。
不安のシャスエティ…
力ではアンガレドに、魔力ではグラージャに、速さではジェラシアに、耐久力ではヘティリドに、狡猾さではペシミスティに…劣る。
だが、その不安という性質からミスをしない彼は、奈落六大将最強と言える…