雷斧の若獅子
【奈落 第六層 深海エリア】
《深海都市アビスネレイダ》。
それは、かつて海底に沈んだ古代王国の名残とされる都市であり、今や異形の魔獣と瘴気が満ちる水没の層である。
地上から降下するには、魔法使いによる結界を用いなければ到達できない。つまり、戦士のみのパーティでは、第六層に挑むことすら叶わない。
その奈落の深海に、一人の男が立っていた。
年齢は二十五。長身に鍛え抜かれた筋肉。黒と銀を基調にした簡素な戦闘服の背には、雷紋を刻んだ巨大な戦斧が背負われている。
青年の名は、エルド=アルバトロス。
ギルド登録から五年。数多の層を突破し、今や“雷斧の若獅子”と呼ばれるまでに成長した冒険者だ。
「……深海か。ここで、アレクシオさんが最後に目撃されたって話だったな」
彼は呟いた。声は低く、だが揺るがない決意に満ちていた。
奈落第六層・アビスネレイダ。そこは、“雷撃の斧”を振るう謎の戦士が最後に確認された場所でもある。
エルドは五年にわたり、その背中を追い続け
ていた。そして今、その英雄の消息を辿るため、自ら奈落の深海に降りた。
「――心の準備はいい?」
背後から、落ち着いた女性の声がかけられた。振り返ると、薄青のローブをまとった一人の女性が立っていた。細身の身体に、灰色の瞳。見覚えのある、懐かしい顔。
「……リーネ」
魔法使い・リーネ=ファーレン。
彼女もまた、冒険者となっていた。ソロ探索をしていたエルドには、第六層の踏破に必要な相棒となった。
「五年ぶりの同行、だね。……ちょっと緊張してる?」
「いや、してるさ。これまでの層とは、明らかに気配が違う」
かつて神々が沈めたとされる深海都市。瘴気と水圧が混ざり合い、音さえも届きにくい空間。ここでは、空間認識も、声も、記憶すら狂うという。
「行こう、リーネ。アレクシオさんが…あの人がこの層にいるなら、俺は必ず辿り着く」
「……うん。一緒に行こう、エルド」
そうして、青年は斧を背負い、奈落の深海に新たな一歩が刻まれる。
沈み込むような水音と共に、二人は《アビスネレイダ》の中心部に足を踏み入れていた。
瓦礫に埋もれた建造物の間を抜けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
明かり。人の声。匂い。そして、賑わう市場。
――水中にあるとは思えない、まるで地上のような“生活の場”が広がっていた。
「……まさか、こんな場所が残ってるなんて」
リーネが息を呑む。
都市中央に張られた半球状の“水中結界”が、内部の空気を保ち、海水と瘴気を遮断しているようだ。しかもこの結界は、定期的に魔力で強化されている。誰かが維持している――それはつまり、「住人」がいるということだ。
「ここが……安全地帯?」
エルドは、斧を肩にかけたまま周囲を見回す。だが、目を見開いたのはその直後だった。
(……この気配――)
斧の使い手なら、忘れられるはずもない。
広場の隅。人々が集まるレストランのテラス席。
そこに、銀髪の男がいた。
黒のジャケットの袖をまくり、片手にスプーンを持ち、目の前の巨大な海鮮パエリアをがっついている。
店主に何やら冗談を飛ばしているのか、周囲からは笑いが起こっていた。
――あまりにも自然で、陽気なその姿に、エルドは絶句する。
「……アレクシオ……さん……?」
その名を口に出すと、男はピタリとスプーンを止め、こちらを振り返った。
「……ん? ……おおおおお!? お前はエルドじゃねえか!!!」
まるで旧友に再会したかのようなテンションで、彼は笑顔を爆発させた。
「おい店主!すまんがこれ持ち帰り!それとタコの丸焼き包んどいて!こいつは祝杯モノだ!」
「いや、タコ焼きって次回入荷来週なんですけど」
「まじかよ!?」
テンション高めに食堂のテーブルを後にした男は、肩を軽く回してこちらに駆け寄ってきた。
「いやー!見違えたな、エルド!背も伸びたし、斧も様になってるじゃねえか!」
「アレクシオさん……本当に、生きてたんですね……!」
エルドは、思わず拳を握った。ずっと探していた。追い続けてきた背中が、目の前にいる。
「そりゃあ、生きてるさ。死ぬわけねえだろ? ……って言いたいとこなんだけどな。実は――」
アレクシオの顔が少し陰った。
「五年前。俺のパーティが、あの“海竜レヴィアトル”にやられちまってさ……。帰還魔法を維持してた術士も、結界士も、全滅だった」
「……!」
「俺ひとりじゃこの層から出られねぇ。斧だけじゃ水も瘴気もどうにもならねぇからな。ずっとここで、結界の維持を手伝いながら、帰りを待ってたってワケだ」
「じゃあ……ずっと、ここで?」
「ああ。最初の一年は地獄だったな。魔物は来るし、食料は尽きるし、話し相手はいないし……」
「そのわりに、今けっこう楽しそうでしたけど……」
「あー……うん。ほら、もう慣れたというか? 店も作ったし、野菜も育ててるし。……いやでも、そりゃ帰りてぇよ!? 海藻の味噌汁に慣れただけで、寿司は食いたい!」
「……ふふっ」
リーネが思わず笑った。
英雄として語り継がれていた男の、なんとも人間くさい姿。
だが、エルドの胸には、別の思いが浮かび上がっていた。
(……それでも、この人は生き残って、この街を守っていたんだ)
誰もが帰れない層で。孤独のなかで。それでも、諦めなかった。
「アレクシオさん。俺、来ましたよ。あなたに、追いつくために」
その言葉に、アレクシオは目を細めた。
「……そうか。じゃあ、証明してみろよ、エルド。お前が、あの日の雷を、超えたってことを」
「…ええ。俺の雷は、もう届くところまできてますから」
二人の雷使いが、深海の底で再会を果たす。
だがこのとき、都市の外れで、再びあの海竜が目覚め始めていた。アビスネレイダに残された決着が、今、再び牙を剥こうとしていた。
都市の外れに広がる深海の奈落穴。かつてアレクシオの仲間たちが命を落とした、海竜レヴィアトルの根城。そこから、巨大な圧力が浮上した。
ゴオォォオオン……!
鈍く唸る音とともに、海水がうねる。黒く、光る鱗。目を射抜くような金色の双眸。現れたのは、層主モンスター・海竜レヴィアトルだった。
「……来やがったか」
アレクシオが斧を担ぎ、立ち上がる。
「俺がここにいるのを、まだ覚えていやがる」
エルドの瞳に、静かな決意が宿る。
「……俺たちが勝つ」
深海の闘場。水中の浮遊足場に立つ三人。
アレクシオが左へ回り込み、エルドが正面。リーネは中央後方、詠唱陣を展開していた。
「防水障壁・三重展開。瘴気分離、始動。二人とも、いけるよ!」
リーネの詠唱が空間を貫き、深海を“戦場”に変える。
「アレクシオさん! 連携を!」
「合図もいらねぇ! 行け、エルド!」
エルドが突撃。雷を纏った大斧が一閃し、海水ごと空間を裂く。
「雷断・天衝刃ッ!」
刃が海竜の首元をかすめ、鱗が弾け飛ぶ。しかしレヴィアトルも咆哮し、尾で水圧を爆砕!
ドォン!と空間が歪む。
「来るぞ! 潜る……!」
アレクシオの声に反応し、エルドは跳躍。直後、レヴィアトルが足場ごと喰い千切る!
その巨体はまるで動く海そのもの。雷斧の二人がかりでも、傷は浅い。
「リーネ!」
「魔力解放ッ!《絶雷の式札》、展開!」
リーネが掲げた術符が輝き、雷属性の威力が二倍に跳ね上がる。
「これで決める!」
エルドとアレクシオが左右から跳ぶ。
雷光が収束し、双斧が交差する。
「喰らえ――!」
「雷刃・双牙斬!!」
轟雷が爆ぜる。空間ごと裂け、ついにレヴィアトルの心核を斬り砕いた。
黒い血と水圧が爆発し、巨大な海竜が沈んでいく。
レヴィアトル討伐から数時間後、都市全体が祝賀に包まれていた。
人々が声を上げ、英雄の帰還と新たな勝者に喝采を送る。
そんな喧騒の外れ。静かな路地に、エルドはひとり立っていた。そこへ、斧を担いだアレクシオが現れる。
「……よくやったな、エルド。あの一撃、俺よりキレてたかもな」
「いえ……アレクシオさんがいたから、勝てました」
沈黙。
そして、エルドは深く頭を下げた。
「お願いします、アレクシオさん。俺を……俺たちを、あなたのパーティに入れてください!」
リーネもまた、隣に並び、口を開く。
「私も……支えになりたい。雷斧の二人に、魔法が必要なら、力を貸したい」
アレクシオはしばらく、二人の顔を交互に見つめていた。
そして、不意に笑う。
「……くっそ真面目だな、お前ら」
「……えっ」
「最初っから、そう言うつもりだったよ。だって――」
アレクシオは、背負ったままの斧に手をやった。
「雷ってのは、ひとりじゃ鳴らせねぇんだよ。空と地が、ぶつかって、雷になる。お前らが地なら、俺は空でも雷雲でも、なんでもやってやるよ」
エルドの目に、光が宿る。
「……はい!」
「こらリーダー。そのセリフ、一度は言ってみたかっただけでしょ」
「バレたか」
三人の笑い声が、深海都市に響いた。
深海都市アビスネレイダを離れた三人のパーティ。
“雷斧の英雄”アレクシオ=リオンドール
“若獅子の雷撃”エルド=アルバトロス
“灰の導師”リーネ=ファーレン
彼らは奈落の更なる深層へと進む。
更なる奈落の深層は、静かに口を開けて彼らを待っていた。