英雄の背中と、最初の一歩
この物語は、本編『奈落の果ての冒険譚』に登場するジャンの祖父、エルド=アルバトロスの若き日の記録であり、彼が生涯憧れた“英雄”アレクシオ=リオンドールとの出会いを描いた外伝です。
“英雄”とは何か――
その問いへの答えは、時を超えてジャンへと受け継がれていきます。
その日、サンライズシティは朝から騒がしかった。
空は鈍く曇り、街の外れでは避難警報の鐘が鳴り続けていた。11歳のエルド=アルバトロスは、祖母の手を振りほどくようにして、裏路地から街の中央広場へと走っていた。
聞こえてくるのは、人々の悲鳴と、金属と金属がぶつかる激しい衝突音。奈落の封鎖ラインを超えて、モンスターが“あふれ出た”というのだ。
広場に着いたとき、少年の目に映ったのは、地獄そのものだった。
大地を這う黒い鱗の群れ。牙をむいた魔獣たちが、冒険者たちに襲いかかり、周囲の建物を次々と破壊していた。剣や魔法が飛び交う中、人々は懸命に戦っている――が、明らかに数が違った。
「っ……!」
エルドの足が止まる。視線の先、広場の中心に、他の魔獣とはまるで異なる威圧感を放つ存在が現れた。
灼熱の業火を身に纏う、巨大な火龍。識者が見ればすぐにわかっただろう、それは“層主級”のモンスター。第五層に棲むとされる、地上には出ないはずの存在だった。
《火龍・インフェルノバハムート》。
それが、広場に君臨していた。
「……うそだろ……」
エルドが呟いたその瞬間、インフェルノバハムートの咆哮が大気を裂き、次いで灼熱の爪が地を這うように振るわれる。
巻き込まれた冒険者たちが、一瞬にして弾き飛ばされた。
そしてその燃え盛る牙は、震える少年――エルドへと向いた。
動けない。足が、体が、叫び声すら出ない。
時間が止まったように思えたその刹那。
雷鳴が落ちた。
文字通り、空を裂くような轟音とともに、一条の閃光が広場に駆け抜けた。
「――《雷轟断》!」
天地が震えた。
次の瞬間、あの火龍の巨体が、信じられない速度で吹き飛ばされていた。斬られた。灼熱の肉体は、真っ二つに断ち割られている。その中心に立っていたのは、漆黒のマントを翻す、一人の男だった。
白銀の髪。風に揺れる鋭い眼光。手にした斧は、雷を纏い、まるで空そのものの怒りを宿しているかのようだった。
「大丈夫か?坊主」
その男――アレクシオ=リオンドールは、少年の前にしゃがみこみ、やわらかく声をかけた。
エルドは、ただ呆然とその姿を見上げていた。
なぜだろう。斧を持ったその背中を見ているだけで、心臓が早鐘のように打つ。目の前にいるのは、誰もが目指す“冒険者”ではない。
英雄だ。
「……うん、大丈夫……です……!」
やっとの思いで言葉を返したとき、アレクシオは微かに笑い、雷斧を肩に担いだ。
「よし。それなら、この街を守るのに少しだけ力を貸してくれ」
「え……ぼ、僕が?」
「お前の瞳に、戦う理由がある。だったらそれは、もう立派な冒険者の証だ」
少年の胸に、雷が宿った気がした。
この瞬間から、エルド=アルバトロスの冒険は始まった。
あれから三年が経った。
サンライズの空は今日も曇っている。だが、あの日のような避難警報はもう鳴っていない。街は再建され、人々も徐々に日常を取り戻しつつあった。
その片隅、小さな木造の家の裏手で、少年は一人、斧を振っていた。
「――ッ!」
唸りとともに、薪割り台の上で乾いた音が響く。斧が丸太をまっすぐに割る。額に汗をにじませながら、少年はひたすらにその作業を繰り返していた。
――だが、それはただの薪割りではない。
少年の名は、エルド=アルバトロス。十四歳。
三年前のあの日から、彼は毎日欠かさず斧を振り続けていた。理由はひとつ。雷のように現れ、自分と街を救った男、アレクシオ=リオンドールに追いつくためだ。
「……よし。今日も、百本目だ」
丸太の山に囲まれた足元を見下ろし、エルドは息を吐いた。
祖母には「薪を割るのが上手になったね」と笑われるが、彼にとってそれは訓練だった。
“斧の英雄”になるための、最初の一歩だった。
アレクシオがどこにいるのかは、わからない。だが、“生きている”という噂は消えていない。
数か月前、旅の商人が語っていたという。「北の山間で、雷をまとう斧使いを見た」と。
ギルドの報告にも、未確認ながら“雷撃の斧を使う冒険者”の目撃情報がいくつかあるという。
「やっぱり……どこかで、戦ってるんだ……」
薪を積み直しながら、エルドはそっとつぶやく。
あの日見た背中は、ただの冒険者じゃなかった。英雄だった。
エルドもまた、その背を追い、冒険者になる決意を胸に刻んでいた。
あと一年で、ギルドへの登録が許される。
「待っててください、アレクシオさん。俺……必ず、追いつきますから」
そう言って斧を肩に担ぎ、空を見上げる。
その眼差しは、三年前よりもずっと、強くまっすぐだった。
それは、夏の終わりのことだった。
朝から雨が降りそうな空模様のなか、エルド=アルバトロスはいつものように薪を割っていた。今日で連続1,095日目。誰に言われたわけでもない。ただ、“斧を振る力”を身につけるために、自分に課してきた修行だった。
「よし……あと二本」
額の汗をぬぐいながら、エルドはもう一度斧を握り直す。
だがその時、遠くから――馬のいななきと、甲高い叫び声が聞こえた。
「きゃあっ……! 誰か、止めてっ!」
裏山の道から、暴れた荷馬車が駆け下りてきていた。車輪が外れたのか、バランスを失ったまま暴走している。しかもその荷馬車には、一人の少女がしがみついていた。
「危ないっ!」
咄嗟に斧を放り投げ、エルドは走り出した。
荷馬車の進路は、ちょうど薪割り場の脇――そのままでは、川へ転落するコースだった。
(間に合え――!)
エルドは、転がっていた丸太の上に跳び乗る。足場は不安定だったが、迷いはなかった。少年の身体は、この三年間で自然と鍛えられていた。
次の瞬間。
彼の右手が斧の柄をつかみ、反動を利用して一気に馬の前へ飛び出す。
「止まれぇぇぇぇッ!!」
その咆哮とともに、エルドの斧が――地面に突き立てられた。
斧は、大地と一体化するように深く食い込み、荷馬車の車輪の片側を巻き込んだ。
ものすごい衝撃音とともに、馬車は斜めに傾き、バランスを崩してようやく停止した。
「――っ、はぁっ……!」
土煙のなか、膝をついたエルドは、息を切らしていた。全身が震えている。だが、少なくとも誰も傷つかなかった。
「……た、助かった……」
声がした。馬車から、乱れた髪を手で抑えながら、少女が降りてくる。
年はエルドと同じくらい。灰色の瞳に、薄く泥の跳ねたワンピース。だが、その中に芯の強さを感じさせる雰囲気があった。
「君が……止めてくれたの?」
「う、うん。ていうか、なんであんな馬車乗ってたの?」
「わ、私じゃないよっ。お父さんが馬の綱を離しちゃって……で、逃げちゃって……!」
「逃げた!?」
「うん、あの人、商人なのに借金だらけで……って、あ、あんまり深く聞かないでほしいな!」
少女はバツが悪そうに顔をそむけたが、すぐにまたこちらを見た。
「でも……ありがとう。助けてくれて」
「……いや、斧、たまたま持ってただけだから」
そう言ったものの、エルドの心の中では、何かが燃えていた。
三年分の薪割り。誰にも理解されなかった訓練。
そのすべてが、今日ここで役に立った。
(……俺、間違ってなかったんだ)
そう思った瞬間、少女が手を差し出してきた。
「わたし、リーネっていうの。あんた、名前は?」
「エルド。エルド=アルバトロス」
「ふふ、じゃあ、今日から“斧少年”って呼ぼうかな」
「や、やめてくれよ……!」
二人の笑い声が、夏の風に乗って広がった。
それが、エルドとリーネの出会いだった。
この日を境に、二人は少しずつ距離を縮めていくことになる。
そして数年後、エルドが冒険者となったとき――再び彼女と巡り会うことになるのだ。