第六十話 生きるために、逃げた
月明かりすら凍りつくような冷気が、石畳の街路を包み込んでいる。遠くからは教会の鐘がひとつ、またひとつと静かに鳴り、商人の呼び声も鍛冶屋の打音も、この時間にはもう消え去っていた。
「モモ、靴、しっかり履けた?」
フィナは妹の小さな手をぎゅっと握り、古びた扉の前に立つ。鍵もかかったままの柵―蝶番は錆びつき、ゆっくり開く扉の軋む音だけが、二人を現実に引き戻す。
「うん……でも、すごく寒いよ、お姉ちゃん……」
モモは震える声で囁き、コートをぎゅっと胸に抱え込む。
「もう戻らない。絶対に」
フィナは扉を押し開くと、背後の家を二度と振り返らなかった。布団も荷物も、何も残さず、ただ妹の命だけを抱えて。
瓦礫と掘っ立て小屋が軒を連ね、誰にも踏み込まれぬ薄暗い隙間に、路地の人々がひそやかに息を潜めていた。古い布を屋根がわりに垂らした家々。雨が降れば水たまりに濁流が生まれるだけの場所。
「ここ、暗いね……匂いも、なんだか……くさい……」
モモは鼻をつまみながら、フィナの袖をぎゅっと握った。
「我慢しよう。でも、変な人には近づいちゃダメだよ」
フィナは懐に残ったわずかな銅貨を確かめ、二人でゴミ箱を探し始めた。
野菜の芯、かじられたパンの耳、たまにかすかな果皮が転がるだけ。水は街外れの噴水か、雨水をためた桶。薬などあるわけもなく、モモの熱は下がったが、フィナの胸には小さな恐怖がくすぶり続けた。
「このままだと、また誰かが」
胸の奥で、かすかな決意の炎が灯る。
「モモ、起きて……もう少しだけ歩ける?」
フィナは妹を支えながら、瓦礫の間を一歩一歩進んだ。
「……お姉……なんか、パンの匂いがする……」
風に乗り、甘く優しい香りが鼻先をくすぐった。
木の看板にはひっそりと《筆の家》とだけ刻まれている。
ガラリ、とその瞬間、窓が開いた。
店の中から外を見下ろしていたのは、一人の男だった。
くたびれた格好、ぼさぼさの髪、そして、やさしい目。
「……あれ? 君たち、こんな時間に……お腹、減ってるか?」
フィナは条件反射で身を引いた。
モモをかばうように前に出る。
「なに……? 急に話しかけないで……! 何も盗ってない……!」
声は強がっていたが、目の奥は怖がっていた。
けれど、男は怒鳴りもせず、ただ苦笑してふわりと湯気をたてる焼きたてのパンを差し出した。
「そっか。じゃあ、盗られた分、取り戻しにおいで。うちの店でさ」
「……は?」
「一緒に働いて、食べて、寝る。それだけの場所があるんだ。どうかな?」
その言葉に、モモは小さな手でパンを受け取り、そっとかじった。
「お姉……このひと、優しいひと……」
その言葉に、フィナの張りつめていたものが、ふっとほどけた。
「……少しだけでいいなら……信じてみても、いい……」
リュウはふわっと笑って、店の扉を開いた。
「よし、決まりだ。筆の家、住み込みアルバイト採用!」
扉を開けたその瞬間から、二人の世界は温もりに満ちた“家族”の物語へと動き出した。