表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/75

第六十話 生きるために、逃げた

 月明かりすら凍りつくような冷気が、石畳の街路を包み込んでいる。遠くからは教会の鐘がひとつ、またひとつと静かに鳴り、商人の呼び声も鍛冶屋の打音も、この時間にはもう消え去っていた。


「モモ、靴、しっかり履けた?」

 フィナは妹の小さな手をぎゅっと握り、古びた扉の前に立つ。鍵もかかったままの柵―蝶番は錆びつき、ゆっくり開く扉の軋む音だけが、二人を現実に引き戻す。


「うん……でも、すごく寒いよ、お姉ちゃん……」

 モモは震える声で囁き、コートをぎゅっと胸に抱え込む。


「もう戻らない。絶対に」

 フィナは扉を押し開くと、背後の家を二度と振り返らなかった。布団も荷物も、何も残さず、ただ妹の命だけを抱えて。


 瓦礫と掘っ立て小屋が軒を連ね、誰にも踏み込まれぬ薄暗い隙間に、路地の人々がひそやかに息を潜めていた。古い布を屋根がわりに垂らした家々。雨が降れば水たまりに濁流が生まれるだけの場所。


「ここ、暗いね……匂いも、なんだか……くさい……」

 モモは鼻をつまみながら、フィナの袖をぎゅっと握った。


「我慢しよう。でも、変な人には近づいちゃダメだよ」

 フィナは懐に残ったわずかな銅貨を確かめ、二人でゴミ箱を探し始めた。

 

 野菜の芯、かじられたパンの耳、たまにかすかな果皮が転がるだけ。水は街外れの噴水か、雨水をためた桶。薬などあるわけもなく、モモの熱は下がったが、フィナの胸には小さな恐怖がくすぶり続けた。


「このままだと、また誰かが」

 胸の奥で、かすかな決意の炎が灯る。


「モモ、起きて……もう少しだけ歩ける?」

 フィナは妹を支えながら、瓦礫の間を一歩一歩進んだ。


「……お姉……なんか、パンの匂いがする……」

 風に乗り、甘く優しい香りが鼻先をくすぐった。


 木の看板にはひっそりと《筆の家》とだけ刻まれている。    

 ガラリ、とその瞬間、窓が開いた。


 店の中から外を見下ろしていたのは、一人の男だった。

 くたびれた格好、ぼさぼさの髪、そして、やさしい目。


「……あれ? 君たち、こんな時間に……お腹、減ってるか?」


 フィナは条件反射で身を引いた。

 モモをかばうように前に出る。


「なに……? 急に話しかけないで……! 何も盗ってない……!」


 声は強がっていたが、目の奥は怖がっていた。


 けれど、男は怒鳴りもせず、ただ苦笑してふわりと湯気をたてる焼きたてのパンを差し出した。


「そっか。じゃあ、盗られた分、取り戻しにおいで。うちの店でさ」


「……は?」


「一緒に働いて、食べて、寝る。それだけの場所があるんだ。どうかな?」


 その言葉に、モモは小さな手でパンを受け取り、そっとかじった。


「お姉……このひと、優しいひと……」

 その言葉に、フィナの張りつめていたものが、ふっとほどけた。


「……少しだけでいいなら……信じてみても、いい……」


 リュウはふわっと笑って、店の扉を開いた。


「よし、決まりだ。筆の家、住み込みアルバイト採用!」

 扉を開けたその瞬間から、二人の世界は温もりに満ちた“家族”の物語へと動き出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ