第四十二話 魔法を使わぬ者
窓から注ぐ柔らかな光が、木製のカウンターやタイル張りの床を金色に染め上げる。午後の喧騒が最高潮に達する店内では、まるでオーケストラのようにスタッフたちが呼吸を合わせて動いていた。
「星トマトプレート、あと三つばい!」
ルナの甲高い声が響き渡ると同時に、ミィが手早くトマトを星形にカットし、深紅の果汁をきらきらこぼす。
「はーいっ! ミィ、トマトの角度、3度傾けて!」
ミィは包丁を扱う手を止めずに、そっと一枚を斜めに傾ける。まるで夜空を駆ける流れ星のように、きらめくトマトが皿上に踊った。
厨房はまさに戦場だ。鍋が沸騰する音、フライパンに油がはじける音、スタッフ同士の呼吸がピタリと合い、緊張感と一体感が入り混じっていた。その中でひときわ静かな
存在がある。エルド・ノワール、王立魔道院元・主席研究員にして、筆の家のスクロール職人だ。
「エルドさーん、火球のスクロール切れとるばい。補充お願い!」
その声に、エルドは眉一つ動かさずに応じる。
「ああ、わかった。炎属性強化符式、書き足しておく」
エルドが取り出したのは、薄い羊皮紙と長めの羽ペン。銀色に軋む軸を握りしめると、ペン先からは淡い蒼光がほのかに漏れ出す。
羽ペンが紙の上を滑るたび、複雑な魔導陣が繊細に浮かび上がり、瞬く間に新たなスクロールが完成した。
その速度と正確さは尋常ではない。細かい呪文符号がまるで無数の星屑のように集い、ひとつの強力な呪文として結晶するのだ。
「……やっぱすごいなぁ、エルドのスクロール。威力も範囲も申し分なし」
リュウが小声でつぶやく。遠目にもわかるほど、ミランダが補助魔法スクロールを手に微笑んでいる。
リュウの瞳がふと、エルドの背中に注がれる。
「けど、そういや……エルドが直接魔法を使ってるとこ、一度も見たことないよな」
厨房の騒音が一瞬遠ざかり、リュウの頭に素朴な疑問が生まれた。
◆◆◆
その夜、筆の家の裏庭、焚き火の残り香がほのかに漂い、涼しい夜風が草木を揺らす。満天の星空を背に、ルナがそっとリュウに寄り添った。
「なあ、リュウ。ひとつ気になるっちゃけど……」
ルナの声には好奇心と少しの不安が混ざる。
「ん?」
リュウは腰掛けた丸太から顔を上げる。
「エルドってさ、魔力あるのに、なんで魔法そのものを使わんと?敵が襲ってきても、毎回スクロールばっか。直接撃てば、楽になる場面もあるやろ?」
リュウはしばらく黙り、夜空の星を見つめた。
「……それは、たぶん“使いたくない”んじゃないかな」
「……使えんのじゃなくて?」
「いや、あいつの魔力は、俺らの十倍はあるはずだ。もし直接ぶっ放したら、地形が吹き飛ぶレベルだよ」
ティアが焚き火の向こうから、静かに言葉を重ねる。
「彼は明らかに、“魔法を制限”してる。制御ではなく、“封印”のような意志があるわ」
「それって、何か……過去にあったっちゃろ?」
「……たぶんね」
その頃、筆の家の物置小屋
古びた木扉をそっと開けると、埃混じりの空気とともに、キャンドルの揺らめく灯りが出迎えた。そこには一人、エルドがひざまずいていた。
ぼろぼろになった革表紙の魔導書を前に、彼は指先でページをなぞる。
「……いつか、この本に書かれた魔法が使えれば、
きっと、村のみんなも喜んでくれるって、そう思ってたんだ」
かつて両親が初めて贈ってくれた古い入門書には、希望と重責が同居していた。
“火を灯す魔法は、希望の炎となる。
だがその火が、すべてを焼き尽くすこともある”
エルドの細い指が頁の一節を押さえる。その瞳に、深い悔恨と痛みの影が揺れた。
「……僕には、“灯す資格”なんてないよ」
月明かりに照らされる魔導書の影が、まるで彼の抱える傷を映し出すかのように揺れる。
静寂を破るように、背後で木扉が軋んだ。
「エルド。そろそろ、話してもいいんじゃないか?……お前が“魔法を封じた”理由を」
エルドはゆっくりと顔を上げ、リュウと静かに視線を交わした。
深い沈黙の中、二人の間に、新たな物語の幕が下りた。