第三十七話 王の耳に届いた日
翌朝。黄金色の朝陽が軒先の暖簾をやさしく揺らす頃、筆の家厨房亭はいつもどおりの活気に満ちていた。木製のテーブルには朝の定番、ふわとろスフレ芋が並び、その香りが通りすがりの人々を足止めさせている。
しかし厨房の裏では、昨晩の大騒動を思わせる緊張の残滓が、ほんのりと空気を引き締めていた。
「……昨日のあれ、王宮内でもかなり話題になっとるらしかばい」
ルナは無心にジャガイモの皮を剥きながら、ぽつりと呟いた。
「そりゃそうよ。殿下に酒ぶっかけたって、単なる暴挙じゃないでしょ…」
ティアは帳簿のページめくりに手を止めず、冷静に続ける。
「“筆の家の料理と接客”が評価されつつあったのに、今は“王族の台所で事件”という印象が先行してしまったわ」
不安げに聞き入るモモに、ミィがそっと頭を撫でながら励ました。
「だいじょうぶだよー。おにーちゃんたち、ちゃんと守ってくれるから!」
「そうそう、だって筆の家は“王子が帰ってくる家”」
ミランダは大鍋を静かにかき混ぜ、その優しい声で締めくくる。
「ええ。ここは、あの子にとっても、民にとっても“心の居場所”ですもの」
◆◆◆
その日の昼下がり。
厨房亭裏手に停まるのは、またしても王宮御用達の漆黒馬車。扉が開き、降りてきたのは
ラグレス公、王国宰相にして内大臣、そして筆の家の後援者であり、王の実弟でもある。
「また来たな……あの人、タイミングの読みが絶妙すぎるぜ」
厨房から出てきたリュウが苦笑混じりに呟き、扉越しにラグレス公を迎えた。
「筆の家の皆さま、昨日は大変申し訳ありませんでした。
そして、レオネル殿下へのご配慮、心より感謝申し上げます」
「いえ…こちらこそ。うちの猫耳が取り乱して…」
「誰のことを言うばい!? 取り乱しとらんし、怒っただけたい!」
ルナとセリスが同時にツッコミを入れる中、ラグレス公は優しく微笑み、ポケットから一通の封筒を取り出した。
「これは陛下からの親書です。どうぞご覧ください」
リュウがそっと封を切り、皆で紙面を覗き込む。
『筆の家は、王太子の心を癒やす場であると同時に、王都の民が“味と温もり”を知る象徴でもある。
この度の騒動を受け、筆の家を正式に王国庇護下に置くことを決定した。
ただし、自由と中立の精神は尊重すること。
筆の家は筆の家のままで在れ。』
王国陛下 直筆
「……まじで?」
リュウは言葉を失い、額に冷や汗を滲ませた。
「王様が直々に“守る”と言ってくださったんだ…」
モモが目を輝かせ、震える声で呟く。
「それって…筆の家が“王様公認のごはん屋さん”ってこと?」
「そういうことだな、モモ」
ラグレス公が満面の笑みで頷いた。
「もともと、王宮の厨房にあなたの料理を採用しようという声もあったのです。ですが、殿下が“あの家の空気ごと”がいいと。その一言が、陛下のお心を動かしたのでしょう」
その日、筆の家の扉には新たな掲示がなされた。
【筆の家厨房亭】
王都料理管理ギルド認定店舗 王宮友好食堂
だが店内に漂うのは、相変わらずのあたたかな活気。
ティアはハーブを刻み、ミィは星形にんじんを並べ、ルナは若干ツンデレながらも満面の笑顔で客を迎える。
厨房奥でリュウはそっと呟いた。
「書くんだよ。“うちの家族を守る物語”をね」
そして原稿帳に筆を走らせる。
"筆の家は、ただの食堂ではなかった。
家族の物語を描き、心を包む小さな奇跡の場所。
その味は、王も民も、分け隔てなく届けられる。
それこそが、“筆の家”の流儀だった"
筆の家は今日も、変わらずにぎやかで、あたたかかった。