第36話 異世界グルメ界、香ばしさの革命児あらわる!
翌朝、まだ夜露が残る厨房亭の前には、開店前にもかかわらずすでに大行列ができていた。空は淡い桃色に染まり、太陽が顔を出す前のひんやりとした空気に、人々の期待が入り交じった吐息が漂う。
「開店まだですか!? 昨日あの“しょうゆイカ”を逃して……!」
「朝飯抜いて来たんだ! 頼むよ、リュウさん!!」
「並ぶ前から香りで腹減って死にそうなんだけど……!」
列の先頭からは、熱っぽい声が次々と飛び出し、あたりにひそやかなざわめきを呼んでいる。リュウは厨房の窓際に腰かけ、ひとくち冷たい麦茶をすすりながら、その光景をほほえましく眺めた。
「……俺、本当にスローライフを求めてたはずなのになあ」
窓の外、行列に並ぶ人たちの顔を見ると、胸の奥がじんわり熱くなる。自分の作った魔法調味料が、こんなにも人を夢中にさせるとは。
「スローどころか爆走中やね、完全に“胃袋クラッシャー”や」
背後からルナの声。彼女は大きなおたまを振り回しながら、調理台へと足早に向かう。鍋やフライパンが並ぶ厨房には、すでに朝の仕込みが始まっていた。
「今朝の仕込み分、あと残り十箱です!」
「“自宅で簡単! 焼きイカセット”って名前、どう? もしくは“匂いで隣人撃破パック”!」
「その名前にするといろいろ誤解されそうだから却下ね!」
フィナとモモが息を合わせ、瓶詰めされた醤油セットをせわしなく整えていく。瓶のラベルには、リュウの筆跡で「醤油革命」と大きく書かれており、その周りを小さなイカのイラストがぐるりと囲んでいる。
◆◆◆
一方、ログハウスでは、皇太子レオが木製の長テーブルで朝食をとっていた。銀のナイフでそっと魚を裂くと、頬にふわりと立ち上る香ばしさに顔を上げる。
「……この魚、なんだかいつもと違う、香ばしさを感じるのじゃ」
隣に座るミランダがにこりとほほえむ。彼女が手のひらで仕込んだ少量の醤油を魚に塗り、焼き上げたのだ。
「ええ、“あの醤油”をちょっと塗って焼いてみたのよ」
「……これが噂の、“醤油”……!」
レオの瞳に驚きが灯る。真っ白な身がこんがりと焦げ目を帯び、その表面から立ちのぼる琥珀色の香りが、まるで国の威信を背負っているかのようだ。
「この香り、ただの焼き魚の香ばしさではない……魔力、いや国力を感じるのじゃ!」
「大げさなこと言わないの、殿下」
しかしレオはひと口、またひと口と皿を平らげる手を止められない。
「だが……もう一口……いや、もう一皿……!」
その様子を見ていた内大臣は、そっと記録帳を閉じ、静かな声音でつぶやいた。
「筆の家の調味料……これで二打目。香りの流通価値、要調査対象……と」
「またリュウが厄介ごとを背負い込みそうですな」
◆◆◆
昼下がり、厨房亭の扉が静かに開き、見慣れぬ礼装の貴族の使者が現れた。彼の手には、王宮の紋章入りの文書が握られている。
「失礼いたします。厨房亭店主リュウ様宛、王宮調理局より正式な照会です。“例の液体調味料”に関し、由来と製造法、納品可能数をご教示いただきたく存じます」
使者の礼儀正しい言葉に、厨房内は一瞬静まり返った。リュウは慌てて床にうずくまり、頭を抱える。
「で、出たー! 公式ルートからの香ばしい来客ー!!」
そこへ、屋根裏部屋からエルドがヌッと顔を出す。
「リュウくん、“醤油”ってつまり、発酵しすぎて旨味が暴走した結果、人類が手放せなくなった大迷惑液体だからね」
「要約すると大迷惑な液体だな……!」
「でもさ? もしも幼女が醤油の香りをまとって歩く世界線があったら、僕、絶対帰って来られないと思う」
リュウはあきれ顔でエルドを見返し、すかさず決断を下す。
「よーし、エルドは今日から“発酵研究部屋”に隔離決定っと!」
◆◆◆
その夜。厨房亭の外では、イカ焼きをほおばりながら語り合う客たちの楽しげな声が絶えなかった。
「これさ、強力な魔法より心に効くよな」
「香りって、こんなに暴力的だったんだな……」
リュウはハンモックに戻り、星空を眺めながら呟く。
「……あれ? 俺、本当にスローライフを望んでたんだよな……?」
その手には、明日提出すべき納品用「醤油樽」の原稿がしっかりと握られていた。次の一手を考えながら、彼の瞳は静かに、しかし確かな野望を宿していた。
◆◆◆
朝靄がかかる筆の家・発酵食品倉庫。その重厚な木製の扉を開けると、熟成香と木樽のひんやりした匂いが鼻腔をくすぐる。リュウは奥の長机に肘をつき、深いため息をひとつ吐いてから、細いペンを握り直した。
「……はぁ、また書かなきゃいけないのか……」
机の上には、王宮から届いた正式依頼書が無造作に置かれている。金の縁取りを施された羊皮紙には、威厳ある筆致でこう記されていた。
『筆の家特製・醤油、王宮調理局への納品要請。
第一回目:木樽×50個』
王都中にひろがった“醤油ブーム”もここに極まれり。リュウは自嘲的な笑みを浮かべながら、ページをめくった。
《発酵が進み、香り高く、澄んだ琥珀色の液体が樽ごと50樽……》
文章を書き終わるや否や、ペン先から光がほとばしり、倉庫の奥にずらりと並ぶ木樽が微かに共鳴する。次の瞬間、空気中に濃厚な発酵香が一気にあふれ出し、辺りを包み込んだ。
「ふぅ……これで完了だな」
リュウは達成感に微笑んだ、はずが、そのとき、倉庫の隅で小さな異変が起こった。
「リュウさーん! 倉庫の隅から……なんか黒いのが溢れ出してますけど!!」
エルドの慌てた声に振り返ると、床を伝って光沢のある黒褐色の液体がじわじわと広がっている。濃厚な香りがさらに立ち上り、リュウの胸は高鳴った。
「……え? 50樽って書いたはずなのに、なんで80樽あるの!? 原稿バグったのかこれ!?」
驚愕と興奮が入り混じるなか、エルドがヨロヨロと姿を現した。鼻を押さえながら、半ば酩酊したような表情で呟く。
「はぁ……この香ばしさ……香りで人を殺せそうだ……これが……醤油……」
「いいから逃げろ! ていうかお前は醤油を語るな!」
リュウはエルドを突き飛ばしつつ、あふれ出した余剰分の醤油を必死で樽に戻そうと奔走した。
◆◆◆
数時間後、王宮の調理局に運び込まれた醤油は、貴族や宮廷料理人たちの間で瞬く間に伝説となっていた。大理石の調理台の上、銀のステーキ皿に乗せられた肉に、ほんの数滴垂らすだけで、別世界の味わいが花開く。
「ステーキに数滴垂らすだけで、この旨味の層……増えたぞ……!」
「なんと……ライスと醤油だけで、これ一品として成り立つとは……!?」
「わし、これだけでライス三杯はいけるわい……!」
普段は気取った皿盛りを誇る宮廷料理人ですら、掌を返したように平伏し、「筆の家の調味料に勝てるわけがない」と完全降伏。王宮中に「発酵の魔力おそるべし」という感嘆の声がこだました。
◆◆◆
夜、ログハウスの裏手で、リュウは満天の星空を仰ぎながら、地面に転がって絶叫していた。
「やだやだやだぁぁ! 俺は本当にスローライフがしたかっただけなんだああああ!!」
その背後では、モモとフィナがにこやかに在庫表を眺め、次なるプランを練っている。
「お姉ちゃん、新商品の名前、“甘口だれVer.”ってどう?」
「いいね! あと“にんにく醤油”もウケそうじゃない?」
「ふたりとも、俺の悲鳴聞こえてる!?」
「ばっちり聞こえてますけど、気にしてません!」
そして、ある日ルナが厨房亭の掲示板にこんな一言を書いた。
『※筆の家は調味料屋ではありません(現在は)』
その下に小さく誰かが追記している。
『でも香りで人を黙らせる能力は本当にある(事実)』
こうして“筆の家特製・醤油”は異世界グルメ界に完全なる革命を起こし、リュウが夢見たはずのスローライフはまた一歩、遠ざかっていった。
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