第35話 思いついた、次なる発酵の覇者!
王都の喧騒を抜け出し、深い緑に包まれた森の奥。そこに佇む小さなログハウスの庭で、リュウはそよ風に身をゆだねていた。木漏れ日が揺れる葉のすき間から地面に散りばめられ、まるで金色の絨毯のよう。ハンモックはふんわりと体を支え、まるで雲の上に寝そべっているかのようだ。
「ふぃ〜……ここまで順調だなんて、夢みたいだな」
周囲に広がるのは鳥たちのさえずりと、風が枝を撫でる音だけ。遠くで小川がせせらぎ、その水音が優しいBGMになる。筆の家王都支店も、味噌玉の大ヒットで行列が絶えず、原稿帳に書き留めたひとつひとつが効率よく働いているおかげだ。リュウはしばし、自分がつかんだ「スローライフ」という名の幸福に浸る。
「ん……?」
しかし、静寂に包まれたはずの頭の中に、不意に閃光のようなアイデアが走った。胸の奥で何かが弾け、心臓が一瞬だけ高鳴る。
「……味噌がこれだけウケたなら、次はアレしかないだろう?」
リュウはそっとハンモックから抜け出し、庭の芝生に足を踏みしめる。ひざまずき、静かに両手を握りしめた。
「そうだ、醤油だ―――!!!」
その声に驚いた小鳥たちが一斉に飛び立ち、あいにく昼寝中だったエルドは屋根からコロリと転げ落ちたが、彼のいびきの大合唱に遮られ、誰も気づかなかった。
「よし、倉庫にこもって実験開始だ」
リュウは味噌玉専用の木造倉庫の扉を開ける。薄暗い室内には並べられた木樽が並び、そのひとつひとつが発酵の息づかいをひそめている。彼は原稿帳を開き、穏やかな筆運びで書き下ろした。
《塩味は素材の味を引き立て、旨味が強く、香ばしい香りが特徴。大豆を発酵させた液体調味料が、木樽いっぱいに、味噌玉用倉庫改め、発酵食品倉庫に出来上がる》
文字が淡い光を帯びると、空気が震え、奥から「グツッ……」という低い音。その瞬間、倉庫内にあの香りが立ち上った。鼻をくすぐる焦げたような香ばしさと、じわりと染み入るコクの混ざり合った匂いに、思わずリュウの顔に笑みが広がる。
「完璧だ……。これぞ、間違いなく醤油の香り!」
かつて日本で食べた定食屋の焼き魚のように、一滴で空気を満たし、胃袋を揺さぶる魔法の液体。その力を知り尽くしたリュウは、胸の奥で熱い期待を燃え上がらせた。
「次のステップはこれで客を釣ること……使うのは、あの素材以外にないな」
頭の中で勝利のファンファーレが鳴り響く。香りを活かすのは得意中の得意分野。目を輝かせながら、リュウは次の行動へと駆け出した。
◆◆◆
数分後、海風が心地よく吹く港町リーヴェン。桟橋には朝獲れの鮮魚がずらりと並び、威勢のいい漁師たちの掛け声が賑やかに響く。リュウは大声で呼びかけた。
「おじさん! 鮮度の良いイカ、全部俺に譲ってくれ!」
「へっ、バカ言っちゃいけねぇ。どれもピッチピチの上物よ。今あるのは三十杯。木箱で持ってけ!」
「ありがとさん! 受けよかったら、これから毎日通うかも!」
笑顔で木箱を受け取り、返す足取りも軽やかに厨房亭へと戻るリュウ。その背中を、海の香りとともに期待が追いかけていた。
厨房に足を踏み入れると、そこにはミランダがすでに火加減を確かめながら待っている。切り盛り上手の彼女は、いつもの落ち着いた表情の奥に、ほんのりと好奇心を滲ませた。
「さて、リュウ……今度は何を企んでるんだい?」
「ちょっとイカを焼くだけさ。魔法の調味料でね」
「ふん? また新作を書いたのかい?」
「“醤油”って呼ぶんだ。香ばしい香りで人をおびき寄せる、破壊力Sランクの魔法液体さ」
「……その表現がすでに料理を超えてる気がするけど」
ミランダは呆れつつも、鉄板に火をつけ始める。その手際は鮮やかで、銀色に光るフライパンが音を立てるたび、期待感が高まっていく。
「換気扇は……どうする?」
「止めておこう。匂いをまるごと閉じ込めるんだ」
「……やっぱり大騒ぎになるやつだね」
深いコクと焦げの香りが混ざり合い、まるで世界を一変させるかのように。リュウは胸の高鳴りを抑えきれず、その一瞬をじっと見つめたのだった。
◆◆◆
厨房亭の奥に設えられた調理場。壁に取り付けられた大きな換気フードと、腰ほどの高さに並ぶ窓が、いつもの昼下がりの日差しを遮り、静かな緊張感を漂わせる、その扉が、ミランダの手でしゅるしゅると閉ざされた。
「じゃあ、いくよ。換気、オールオフ」
かすかな金属音とともにフードが下り、窓が鍵締めされると、厨房の空気は一瞬で濃密になる。微かな煙が立ちのぼり、見慣れた鉄板や調味料棚がうっすらとスモークに包まれる。
リュウの目の前には、艶やかに輝くイカの切り身が並ぶ。真っ白な身の縁はほんのり透き通り、瑞々しさと弾力が約束されている。隣には彼が生み出したばかりの「醤油」が、小瓶に注がれてきらりと光っていた。
「じゃあリュウ、塗るタイミングは?」
ミランダが声を潜めつつ問いかける。彼女の背後に並ぶ客席では、いまかいまかと期待に胸を膨らませる面々の気配が高まっている。
「八割くらい火が通ってから! そこから一気に香りを立たせるんだ」
リュウはゆっくりとうなずくと、深呼吸をひとつ。勝負の瞬間が近づいている。
「了解。香り爆弾、点火するよっと」
ミランダが手際よく、イカの表面に細かい切れ込みを入れていく。そのひと刃ひと刃が、醤油を染み込みやすくするための下ごしらえだ。鉄板には既に油が熱せられ、うっすらと煙が立つ。リュウも思わず胸が高鳴る。
“ジュワッ”
鉄板にイカを置いた瞬間、鮮烈な快音とともに香ばしい匂いが立ち上り、厨房全体を包み込む。客席の空気が揺れ、ひそやかなどよめきが聴こえた。
「……ん? 今、なんか……いい匂いしなかったか?」
「してる! 確実にしてる! なんだこの香ばしさは!?」
客たちのざわめきが大きくなる。リュウは満足そうに笑い、次の指示を待つ。
「よし……そろそろいくか。魔法調味料、第一波投下!」
ミランダは小さな刷毛を手に取り、瓶から醤油をすくい上げる。とろりとした液体が刷毛に絡みつき、淡い琥珀色が鉄板の上で揺れる。
「ジュッ!!!!!」
一滴がイカに触れた瞬間、まるで小さな爆発が起こったかのような音が響き渡る。香りは一気に濃厚な焦げと旨味を帯び、その刺激的な匂いが客の鼻腔を直撃した。
「な、なんだこれは……!?」
ひとりが思わず席を立ち上がり、続いて二人、三人。ざわめきはあっという間に大合唱へと膨れ上がる。
「しょうゆ!? 焼けた……しょうゆってやつの匂い……!?」
「香ばしい……香ばしすぎる……!」
「俺、さっき食ったばっかりなのに、腹が鳴ってる……!」
注文の声が止まらない。厨房のドアを押し開け、客が殺到しそうになる勢いに、ミランダが焦りながらもテキパキと応じる。
「落ち着いて! まずは焼けるの待って!」
「無理! くれ! 今すぐそれをくれぇぇぇ!」
ロッテが慌てて一皿を差し出すと、客は涙目になりながらそれを受け取った。
「うおお……ああああ……香りでもう満足してたけど……!」
一口齧ると、ジュワッと醤油が染み出し、口いっぱいに深いコクと甘みが広がる。
「んぐっ……!! うま……あっつ……でも、うま!!」
「うめぇぇぇぇぇぇぇ!!」
その叫びを合図に厨房亭は一種の熱狂状態に。次々と「俺も!」「私にも!」とイカ焼きの追加注文が飛び交い、イカ焼きだけが一極集中する地獄のような注文祭りが始まった。
一方、その頃。
王都の通りでは、厨房亭から漏れ出す香ばしい匂いが風に乗り、人々の鼻をくすぐっていた。
「ちょっと……この匂い……やばくない?」
「ご飯食べたのに腹減ってきた……やめてほしいんだけど……!」
「匂いの出所、あれか? 筆の家の……厨房亭……!?」
「行列できてる!? なにが始まってんのよ!?」
瞬く間に行列ができ、新たな人波が店先に吸い寄せられていく。リュウの計画通り、香りの魔力が人々を動かしていた。
リュウがドヤ顔でハンモックに戻ろうとしたところ、背後からミランダの声が響く。
「……ちょっと、リュウ?」
「うん?」
「醤油ってさぁ……匂いの暴力よねぇ?」
振り返ると、在庫表を手にしたミランダが、笑っているようで笑っていない、不思議な表情を浮かべていた。
「明日から、調味料部門の責任者になってもらうからね?」
「えっ、やだ。俺、味噌で一回燃え尽きたって言ったじゃん……!」
ミランダはクスリと笑い、フィナが淡々と在庫チェックに戻る中、リュウは遠慮がちにハンモックから遠かった。だが、その胸の奥には、次の野望の炎が既に灯っていたのだった。
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