第32話 生きるために、逃げた
月明かりすら凍りつくような冷気が、石畳の街路を包み込んでいる。遠くからは教会の鐘がひとつ、またひとつと静かに鳴り、商人の呼び声も鍛冶屋の打音も、この時間にはもう消え去っていた。
「モモ、靴、しっかり履けた?」
フィナは妹の小さな手をぎゅっと握り、古びた扉の前に立つ。鍵もかかったままの柵―蝶番は錆びつき、ゆっくり開く扉の軋む音だけが、二人を現実に引き戻す。
「うん……でも、すごく寒いよ、お姉ちゃん……」
モモは震える声で囁き、コートをぎゅっと胸に抱え込む。
「もう戻らない。絶対に」
フィナは扉を押し開くと、背後の家を二度と振り返らなかった。布団も荷物も、何も残さず、ただ妹の命だけを抱えて。
瓦礫と掘っ立て小屋が軒を連ね、誰にも踏み込まれぬ薄暗い隙間に、路地の人々がひそやかに息を潜めていた。古い布を屋根がわりに垂らした家々。雨が降れば水たまりに濁流が生まれるだけの場所。
「ここ、暗いね……匂いも、なんだか……くさい……」
モモは鼻をつまみながら、フィナの袖をぎゅっと握った。
「我慢しよう。でも、変な人には近づいちゃダメだよ」
フィナは懐に残ったわずかな銅貨を確かめ、二人でゴミ箱を探し始めた。
野菜の芯、かじられたパンの耳、たまにかすかな果皮が転がるだけ。水は街外れの噴水か、雨水をためた桶。薬などあるわけもなく、モモの熱は下がったが、フィナの胸には小さな恐怖がくすぶり続けた。
「このままだと、また誰かが」
胸の奥で、かすかな決意の炎が灯る。
「モモ、起きて……もう少しだけ歩ける?」
フィナは妹を支えながら、瓦礫の間を一歩一歩進んだ。
「……お姉……なんか、パンの匂いがする……」
風に乗り、甘く優しい香りが鼻先をくすぐった。
木の看板にはひっそりと《筆の家》とだけ刻まれている。
ガラリ、とその瞬間、窓が開いた。
店の中から外を見下ろしていたのは、一人の男だった。
くたびれた格好、ぼさぼさの髪、そして、やさしい目。
「……あれ? 君たち、こんな時間に……お腹、減ってるか?」
フィナは条件反射で身を引いた。
モモをかばうように前に出る。
「なに……? 急に話しかけないで……! 何も盗ってない……!」
声は強がっていたが、目の奥は怖がっていた。
けれど、男は怒鳴りもせず、ただ苦笑してふわりと湯気をたてる焼きたてのパンを差し出した。
「そっか。じゃあ、盗られた分、取り戻しにおいで。うちの店でさ」
「……は?」
「一緒に働いて、食べて、寝る。それだけの場所があるんだ。どうかな?」
その言葉に、モモは小さな手でパンを受け取り、そっとかじった。
「お姉……このひと、優しいひと……」
その言葉に、フィナの張りつめていたものが、ふっとほどけた。
「……少しだけでいいなら……信じてみても、いい……」
リュウはふわっと笑って、店の扉を開いた。
「よし、決まりだ。筆の家、住み込みアルバイト採用!」
扉を開けたその瞬間から、二人の世界は温もりに満ちた“家族”の物語へと動き出した。
◆◆◆
王都の冷たい夜風をたっぷり浴びた後、私たち姉妹が辿り着いたのは、ほんのり暖かい灯りが漏れる《筆の家》の入り口だった。錆びついた扉を押し開けると、中からは優しい声と包丁のリズム、まるで異世界に迷い込んだかのように胸が騒いだ。
「ほい、モモちゃんはこっちの椅子にお座り!」
ルナがふかふかのクッション椅子を引き出す。モモは恐る恐る腰を下ろし、体全体が沈み込むや否や小さく息を漏らした。
「ふわっ……! こんなに、やわらかいの、初めて……」
椅子の温もりが、スラムの夜には考えられなかった“居心地の良さ”を伝えているくる。
「そうやろ? このイス、リュウが“お昼寝用”って言って選んだやつよ」
ルナの声には、胸をくすぐる誇らしさが混じっていた。
「お昼寝用……! お金持ちの発想だ……!」
モモは小声で呟きながら、指先でクッションの縫い目をなぞった。
「うん……でも、いい匂いもする……お姉、あったかい……」
モモがぽそりとつぶやき、思わずフィナの手をぎゅっと握った。その手の暖かさは、スラムで固く凍えていた夜とはまったく違っていた。
◆◆◆
数日後
姉妹はすっかり《筆の家・王都支店》に馴染み、2階の小部屋で静かに暮らし始めた。毎朝、モモは「いってきまーす!」と元気よく支店のドアを開け、フィナは帳簿を開いて品出しと在庫管理に取り組む。客たちは「しっかりした子だね」と評し、二人は笑顔で会釈を返した。
そして夜、部屋に戻ると、モモはふかふかの布団にもぐりこみ、天井を見つめたままぽつりと言った。
「……ねぇ、お姉。今日はパンの夢じゃなくて、リュウさんの夢を見てるよ」
「……それ、どういう意味?」
フィナが眉をひそめる。
「うーん……“にこーっ”って笑って、おかわりくれるの。パンを」
モモは真剣そのものの瞳で続けた。
「……うん、それはたぶん、現実でもあるよ」
フィナは微笑みながら頷く。
「えへへ、でも……お姉が笑ってるの、夢じゃなくてよかった」
モモのその言葉に、フィナは思わず目を丸くした。
「なにそれ……急にどうしたの?」
「ううん、なんでもない! おやすみ!」
モモは布団をすっぽりかぶり、ころんと寝返りをうった。 その小さな背中に、フィナはそっと「おやすみ」とささやいた。
この子を、今度こそ守れる。
フィナの胸に、強い覚悟が宿った。
◆◆◆
そして翌朝。
「おっはよ〜、モモちゃん! 今日も可愛いね〜! ほっぺ、触っていい?」
店先の入り口で声を弾ませるのは、他でもない、エルドだった。
「ダメです!!!」
モモは即座にバリアを張ったかのように顔をそむける。
「えっ……せめて指一本でも……!」
「一本でも、ダメですっ!」
フィナが慌てて駆け寄る。
「ちょっとフィナちゃん! 妹さん、可愛すぎません? 計画的に育ててます?」
エルドは嬉しそうに眼鏡をくいっと上げる。
「計画的って何!? モモはナチュラルだよ、自然由来です!」
フィナは顔を赤らめ、慌てて弁解する。
「つまり、“ナチュラル天使”ってことか……」
エルドは満足げに頷いた。
「エルドさん、商品を棚に積みに来たんですよね? 仕事してください!」
「うん、仕事してるよ。君たちを観察して、幸福ホルモン分泌を研究してるから!」
エルドは得意げに胸を張る。
「……もう、誰かこの人連れて帰って!!」
フィナは思わず叫び、後ろからリュウが倉庫の奥から顔を出した。
「おーい、エルドー! またフィナに怒られてるぞー!」
「愛は怒られた回数に比例するんだ、リュウくん……!」
「お前は愛じゃなくて、通報される一歩手前だわ!!」
こうして、筆の家の朝は今日も賑やかに始まった。
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