第31話 今の毎日、まるで夢みたい
王都ルミアステラの朝は賑やかそのものだ。遠くの教会からは規則正しく鐘の音が鳴り響き、市場の荷馬車はきしむ車輪を転がしながら通りを埋め尽くす。商人たちの威勢のいい呼び声が路地を満たし、鍛冶屋ではハンマーが金床を打つリズムが響き渡る。そんな喧騒の渦中にあっても、筆の家・王都支店は、まるで“日常”をそのまま切り取ったかのように穏やかな空気を漂わせていた。
店先には看板娘のフィナが立ち、柔らかな笑顔で呼びかける。
「いらっしゃいませっ! 今日はトマトがよく実っていますよ〜」
その隣では、モモが色鮮やかなキュウリをかごに並べつつ、お客さま一人ひとりににこにこと手を振った。
常連の老婦人が微笑みながら問いかける。
「フィナちゃん、今日の果物は何がおすすめかしら?」
フィナは胸を張って答える。
「うふふ、リュウさんの畑で今朝収穫したばかりの桃がおいしいです! ほんのり冷やすと、甘みが一層引き立ちますよ」
通りすがりの貴婦人もつられて頬笑む。
「まあ! 今日も完璧な笑顔ね。うちの娘にも見習わせたいくらいよ」
モモは恥ずかしそうに頷きながら、思わず囁く。
「ねえ、お姉ちゃん。桃って、あたしの名前と一緒だよね? えへへ、特売価格にしちゃおっかな?」
フィナは慌てて制する。
「……モモ、それは売る側の顔じゃなくて、買う側の顔になってるよ?」
「えーっ、だっておいしそうなんだもん〜!」
笑い声を交えながらお買い物を楽しむ人々。店の奥では、ルナやティアがそれぞれ微笑みを浮かべてうなずき合い、筆の家の温かな空気が店舗全体を包み込んでいた。
◆◆◆
灯りを絞ったランタンがかすかに揺れ、窓からは淡い月光が注ぎ込む。布団にくるまったモモは、隣で静かに寝息を立てている。ふと、フィナはそっと布団を抱き寄せ、その横顔を見つめた。
「……ほんと、夢みたいだな」
小さな台の上のランタンが、その言葉を優しく反響させる。フィナは震える声で続けた。
「お客さんと笑って話して……毎日ちゃんとご飯を食べて、ぬくぬくの布団で眠れて……」
指先でそっと胸元を押さえ、言葉を継ぐ。
「こんな暮らしが、できるなんて思ってもみなかったから……」
ふと、過去の自分たちのことを思い起こし、冷たい震えが背筋を走る。かつての絶望を知るからこそ、今の幸福が怖くなる瞬間がある。
「ねぇ、モモ。王都に来た最初の頃、覚えてる?」
モモは目を閉じたまま、かすかに頷く。
「じゃあ、ちょっとだけ……昔話をしてもいい?」
夜風がカーテンを揺らし、フィナの髪先をそっと撫でた。
——あの日のことを。
——夢を抱いて王都に来たあの日。
——しかし、その夢が残酷な現実へと変わっていった日々のことを——
◆◆◆
窓の外では、遠くの教会の鐘が深い余韻を残して鳴り止む。フィナは淡い月光に照らされた小さな部屋の中で、眠りについた妹モモをそっと見下ろした。布団にもぐり込んだモモの寝顔は、わずかに頬杖をつくかのように安らかだ。フィナは息を整え、静かに語りはじめる。
「……あの頃のこと、まだ夢みたいに思う時があるの」
◆◆◆
かつて、私たちは緑の丘に囲まれた地方の農村で暮らしていた。広大な麦畑とゆるやかな水路の風景は、心を癒す美しさに満ちていた。だが、日々の暮らしは想像以上に厳しかった。父は朝の薄暗い早朝から、夕焼けに追われるようにまで農具を担いで働いた。母は病を抱えながらも、いつも私たち姉妹に微笑みを向けてくれた。だが、病は母から命を奪い、残されたのは、ふたりの小さな娘と老いた父だけだった。
「うちは貧乏だったけど、家族三人でいた時は、まだ……少し幸せだったんだよね」
母を失った後、山の畑は次第に作物の価値を下げ、市場までの道は遠く険しかった。売れるものは麦わらのわずかな手数料にしかならず、父の額には笑顔が消え、深い苦悩の皺が刻まれていった。
そんなある日、村の噂は、まるでオアシスのように私たちを誘った。
「王都に宿屋を持つチャンスがある。金貨十枚を出資すれば、屋敷と営業権を手にできるらしい」
父はその言葉を、最後の希望だと信じたのだろう。藁にもすがる気持ちで、近隣の村々から金を借り、家財道具を質に入れ、懸命に貯めた小銭をかき集めた。私たち姉妹は幼い手をつながれ、父の背に寄り添うようにして王都への旅に出た。
「モモは嬉しそうだった。『新しいおうちがあるんだよね?』って、何度も何度も聞いてきた」
だが、王都に着いてみれば、そんな宿屋はどこにも存在しなかった。豪奢な書類も証人の署名も、人々が口にした噂話も、すべては消えうせていた。金貨十枚は宙に消え、父の夢は瓦解したのだ。
「……お父さん、あの日から、別人みたいになっちゃった」
王都の片隅、薄汚れた酒場兼小屋に身を寄せた父は、日々を酒でつぶすしかなくなった。夕暮れには胸に辛辣な言葉と拳を抱え、私たちに向かうようになった。
「モモが泣いても、あたしが必死でかばっても、殴るのをやめなかった」
空腹は身体を蝕み、夜寒は眠りを奪う。愛されるはずの娘たちには、怒号と暴力だけが降り注いだ。
「それでも……信じたかったんだ。お父さんは、本当は優しかったから……」
フィナの声が震え、絞り出すように続く。
ある晩、モモが高い熱を出した。
痙攣に怯えながらも、手探りで水を探し、咳き込む妹を抱きしめた。
「このままだと、モモが死ぬ」
私の胸に、凍るような恐怖が走り抜けた。父は酒に酔い、静かに足音を消して遠ざかっていた。
「ごめんね、お父さん。あたし、もう無理だったの……」
姉として、子として、私には、妹を守るしかなかった。
◆◆◆
隣の布団で、モモはかすかに目を開き、小さく呟いた。
「ううん……お姉ちゃん、助けてくれて、ありがとう」
驚いた私は取り乱しながらも、モモの手をしっかり握り返す。
「ば、ばか……泣いてないし!」
モモはけらけらと笑い、小さな声で続けた。
「お姉ちゃんがいて、本当によかったって思ったんだ」
部屋には、遠い日の苦しみを超えた温もりが満ちていた。
それは、あの日からずっと探し求めていた「家族の光」そのものだった。
夜風がカーテンをそっと揺らし、一瞬の静寂が二人を優しく包んだ。
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