第十八話 世界樹の森と、記憶の声
木漏れ日さえ遠く感じられる、重苦しい静寂。
草の葉はかすかに震えるが、生き生きとした緑は失われ、枝は黒ずみ、土はひび割れている。まるで森が息をひそめ、痛みを隠しているかのようだった。
「ここが……エルフの森か……」
リュウはゆっくりと足を進め、その深い佇まいを眺める。ルナとエルドは背後で身構え、万一の戦いにも備えて緊張の面持ちだ。
「精霊の気配が薄い……まるで、誰かが息を殺しているみたい」
ルナが小声で呟く。風のささやきが、いつもの優しい囁きではなく、どこか遠い記憶を呼び覚ます不思議な音色に変わっていた。
「この辺り、本来なら昼でも光が差すほど明るいはず、精霊が森を隠しているようです」
エルドが空を仰ぎ、呟く。
案内役のティアは言葉少なに、先頭を歩いている。背筋は伸び、小柄な身体からは想像できないほど凛とした気配を漂わせる。
やがて三人の視界が開け、森の中心、広大な空間の中央に、巨大な樹がそびえていた。
「……で、でけぇ……!」
リュウは息を呑む。根元から天を衝くかのような大幹は、幾重もの年月を刻んできた証だ。だが、その樹皮は暗く焦げ付き、わずかに残った葉は黄ばんでしおれている。
「これが……“病んだ世界樹”か」
リュウが静かに近づき、根元に手を触れる。樹皮は熱を帯びるように脈打ち、その傷口からはほのかな苦みを含んだ香りが立ち上る。
その瞬間、風と違う、低いうねりを帯びた音が耳に響いた。
ざああ……ざああ……
それは囁きにも、遠い記憶の残響にも似ていて、言葉にならない“想い”の波が、森じゅうを満たしている。
「……声が、する。言葉じゃない……想いの波動……」
リュウの言葉に、ルナもエルドも息を呑んだ。
ティアはそっと手を添え、樹を仰ぐ。
「世界樹は古より、“想い”を糧にして命を繋いできました。人と精霊の祈り、自然への感謝、生の喜び、そうした気持ちを集め、幹の一滴一滴に刻み込んできたのです」
「でも、それが……消えた、と?」
ルナが問い返す。ティアの瞳に、一瞬だけ影が差した。
「……我らエルフも、長き平和の中で“守られること”に慣れてしまった。誰かを想い、言葉にすることを忘れ、祈りを止めてしまったのです」
重苦しい沈黙が続いた後、リュウは真っ直ぐにティアを見据えた。
「……わかった。俺が書く。ここで感じたことを、言葉にして届けよう」
ルナが優しく頷き、エルドは慎重に魔導具を点検する。
「だがこれは……世界規模の“祈りの物語”だ。書き始めれば、魔力を大量に消費する気がする……」
リュウの言葉に、ルナは笑みを浮かべる。
「何度でも言うばい。リュウなら、できるけん」
ティアが小さく頷き、その小柄な肩にかすかな光が宿った。
「ならば」
リュウは深呼吸して、原稿帳を開く。ペン先が世界樹の鼓動とともに震える。
「世界樹よ、聴け。人々の想いは消えてなどいない。静かに紡がれた“物語”が、再びこの幹に命を灯すであろう。」
だが、この時はまだ、誰も知らなかった。
きちんと段取りをして進めようとした計画が、どこまでも予想外の方向へとねじ曲がっていくことを。
そして、この森が本当に求めていたのは、筆先だけではなく、書き手一人ひとりの“覚悟”そのものだったのだと。