第十三話 ルナ編 夜を駆ける姫
砂塵が巻き上がる夜の大地を、冷たい風が掠めていく。月光に照らされた獣王国の都〈ガルドベイル〉は、いつもよりも荒涼とした影を落としていた。そんな真夜中、一人の少女が疾風のごとく城壁の外へと逃げ出していた。
白銀の髪を揺らし、深緑の絹衣を引き裂きながら、ルナ=フェンリル=ガルドリオンは必死に駆ける。咽喉の奥で掠れるように呟いた。
「……走れ、走れ……この足、止まるな……!」
吐く息は白く瞬き、胸の奥には抑えきれぬ熱が渦巻いている。短刀の柄を握り締めた小さな手には、まるで誇りが灯るようだった。
獣王国の第二姫、猛獣を率いる王〈ルクス=フェンリオン〉と、“白き月の剣姫”と讃えられた母の正統な血を引く彼女が、なぜこんな夜更けに婚礼衣装を蹴散らして逃げねばならないのか。
「ふざけとる……なんで、わたしが……勝手に“婚約”なんて……!」
彼女を追うのは、王国軍団長の息子ゴルザークが差し向けた傭兵型ゴブリンの群れ。鈍重な甲冑の金属音が、背後からせり寄る足音となって森に反響する。
「うちは、自由に生きたかとよ!」
獣人としての本能を呼び覚まし、ルナは木の枝を蹴って一跳びし、また次の木へ飛び移る。猫のようなしなやかな身のこなしで、刹那、金属の刃が月を裂いた。
「やられるかよっ!」
薄暗がりの中、一本、また一本とゴブリンが散り、黒ずくめの影は脆く倒れる。しかし数はいくらでも押し寄せる。森の地形が、逃げ場を狭めていく。
「くっ……もう少しで王宮の外れに抜けるってのに……!」
焦燥が足を鈍らせたその刹那、岩陰から飛び出した一体が不意打ちをかける。
「ぎゃ!」
短刀を払った反動でバランスを崩し、ルナは重く地面に転がった。包帯の下で脈打つ不安を、彼女は短く呟いた。
「……ここまでかと、思わんといてよね……!」
そう言い切って立ち上がろうとした次の瞬間、彼女の胸にほのかな温かな手応えが走った。
ぽっかりと空いた森の一角。そこに、ひとりの男が立っていた。煙とジャガイモの香りが混じる奇妙な出で立ち、野良着のまま、ふらりと現れた。
「……あれ、少女? 猫耳? 武器持ってるけど……追われてるのか?」
彼の呟きに、ルナの体は自然と向こう側へと滑り込んだ。まるで見えない“結界”が彼女を包み込み、後から追ってきたゴブリン群は、声もなく跳ね返されて地面に転がる。
「ぎゃふっ!?」
彼女は大きな瞳をさらに見開き、初めて感じる安全な空間に戸惑いながらも、震える声で呟いた。
「……うち、ルナって言うと。ちょっと、助けられてしもうた……かもしれん」
そうして、逃げる姫と、物書きの男の出会いが訪れた。物語の始まりを告げる、静かな句読点のようなひととき。だが、それは確かに、彼女の運命を大きく変える瞬間でもあった。