第10話 世界樹の森と、記憶の声
世界樹の根元には、朝の光が優しく差し込んでいた。木漏れ日は澄んだ緑を際立たせ、乾ききっていた土も僅かながらに湿りを取り戻しつつあった。
しかし、辺り一帯に漂うただならぬ「重苦しさ」は、依然として森全体を支配していた。それはまるで、悠久の時を生きる世界樹そのものが、遠い過去に失われた「言葉」を求め、切望するように深く息を潜めているかのようだった。
リュウはその沈黙の奥に、太古の精霊たちの嘆きとも、あるいは未来への微かな希望ともとれる、不可視の「声」の響きを、はっきりと感じ取っていた。
リュウは小さな折りたたみ机に腰掛け、手元の超魔導紙を整えると、その先に置かれたペンをじっと見つめた。
ルナは彼の背後に静かに立つと、短刀を構えるかと思いきや、そっとリュウの肩に手を置き、彼に寄り添うように気配を注いだ。
ティアはさらにその横で、繊細な指先でペン先をそっと確かめていた。
エルドはリュウの隣に陣取り、超魔導紙を何度も確認しながら、まるで戦いに備える研究者然としていた。
「……やっぱ、この筆を走らせた瞬間、何かとんでもないことが起きそうだな」
自嘲気味に呟いたリュウの声は、いつもの軽口の響きを完全に失い、喉元から絞り出すような、瑞々しい緊張感に満ち溢れていた。彼の持つ規格外の《チート》ですら、この神聖な、あるいは呪われた場においては、全くの無力であると本能が悲鳴のように叫んでいた。
目の前の世界樹は、圧倒的な冷たい静寂をまといながらも、その巨大な幹の奥底からは、太古の生命が力強く鼓動しているのが、肌で感じるほどに伝わってきた。それは、畏怖と同時に、筆を執る者としての、抗いがたい使命感にも似た感情を、リュウの心に深く沸き起こさせていた。
「無理して書かんでも……まずは芋でも食って、気持ちを落ち着いたらどげんね？」
ルナが優しく囁く。リュウが執筆に長時間かかると判断したルナは焚き火を起こし、ほかほかのジャガイモを蒸していた。香ばしい蒸しジャガイモの湯気が、張り詰めた緊張を一瞬だけ溶かすように、ふわりと香った。
「それって、緊張してる奴に『おにぎり食べて落ち着け』って言うくらい、無理難題だろ！ そういう時は飲み物で落ち着かせるんだよ！」
リュウも苦笑いを浮かべたが、ルナの眼差しは真剣そのもので、彼の言葉を真っ直ぐに受け止めていた。
「うち、信じとるけんね。リュウなら、きっとやれる……」
ティアの小さな声が、森の重みをすり抜けて届く。
「我が言葉では届かぬものも、そなたの「物語」ならばきっと届くはず」
リュウは深く息を吸い込み、ペンをしっかり握りしめた。
しかし、次の瞬間だった。
「う、うわっ!? ペンが、重い！」
リュウの顔がゆがむほどの「圧」が、万年筆のペン先から彼の手全体にびりびりと伝わってきた。文字どおり、世界樹そのものがリュウの言葉を試しているかのような、途方もない重圧だった。
「こりゃ……魔力だけじゃない。これは、「責任」の重さまで書かせようとしている……！」
リュウの手がかすかに震え、集中が途切れかける。
「書き始めたら、最後までやり遂げたい……だけど、このままじゃ……」
普段の彼らしからぬ弱気が、その表情にありありと顔をのぞかせた。
そのとき、ハッと閃いたようにルナがきらりと目を輝かせ、それに応えるかのようにティアも同時に、弾むような声を上げた。
「なら、こうするしかないばい！」
「うちとティアで、物理的にリュウの手を動かすばい！」
「名付けて、「二人羽織式・チート筆導法」！！」
「待て待て待て！ 何その技名！？ やる気満々すぎるだろ！」
リュウの叫びも虚しく、ルナとティアはぴたりと背後に貼りつき、左右の肩にそれぞれ腕を回した。エルドも慌てて隣で魔導具を押さえる。
「動くな、リュウ。筆先の迷いは我らが消す。そなたの語りが途絶えぬよう、たとえ瑕疵があろうとも、それは我らの責任」
二人の手の感触が、抵抗するリュウのペン軸をぐっと押し下げた。リュウの意思とは関係なく、ペンは必死で抵抗しようとするが、抗う術はなかった。だが、その両腕はまるで決意を固めたかのような、温かくも強烈な愛情によって押さえ込まれていた。
「いざ、執筆開始ばい！」
「我が身の魔力を通し、精霊構文、接続完了！」
ルナとティアが息をそろえ、エルドが続くと、リュウのペン先が、意思を持ったかのように、するすると超魔導紙を滑り出した。
《世界樹は、人々の祈りを思い出す。言葉に込められた想いが枝に宿り、失われた緑を蘇らせ、未来の豊かな実りをもたらすだろう》
一行、また一行と文字が紡がれるごとに、世界樹は確かに、失われていた色彩を取り戻していく。樹皮の黒ずみは薄れ、土からは草花がむくむくと頭をもたげ、樹肌の傷口はまるで意思を持ったかのように溢れ出す樹液でコーティングされていく。そして、それまで重苦しかった木々のざわめきは、喜びを歌うかのような小鳥のさえずりへと変わっていった。
「うおおお！？ 世界がカラフルになってきてる！？ 視界の端から、まるで虹色の光の粒が奔流のように押し寄せてきて、俺の頭がグルグルするぅぅぅ！！」
文字を刻むごとに、世界樹から流れ込む途方もない情報量が、リュウの脳裏を直接叩きつける。それは、強烈な「チート」の代償となって全身を蝕んでいくのだった。それは、喜びと混乱、そして未知の感覚が入り混じった、かつてない深い震えをリュウの声に与えた。まるで彼の魂そのものが、世界樹と共鳴しているかのようだった。
「耐えろ、リュウ！ あと一息やけん！」
ルナが力強く励まし、ティアは優しく微笑む。二人の掌から、じんわりと温かな魔力がリュウへと確かに流れ込む。
《かつて失われた絆が、再び結ばれるだろう。世界樹は今ここに、新たな生命の物語を刻み始めるのだ》
そして、最後の一行を刻んだ、その瞬間だった——
ズオオオオ……ッ！
地を揺るがす轟きとともに、世界樹はまばゆい光に包まれ、大きく震え返した。朽ちていた葉は眩い翠に輝き、根元からは清冽な霧が立ち昇り、森は喜びの息吹を全身で取り戻していく。そして、その生命の波動は世界樹を中心に、心地よい風となってエルフの森全体へと吹き出した。
その余韻の中、リュウは机にぐったりともたれかかるようにして、深い眠りに落ちていた。顔には満足そうな笑みが浮かび、彼の努力を労うかのように、蒸しジャガイモの淡い香りすら、静かに漂っていた。
「リュウ！？」
ルナが慌てて彼を揺すり、エルドは眼鏡をずらし、驚きと興奮で流れ出た鼻血を拭いながら、興奮した面持ちで近づく。
「マジで倒れたーーー！！」
ティアはそっと目を伏せ、慈しむように優しく呟いた。
「……よくやったね。見事な筆さばきだったよ」
ルナは寝息を立てるリュウの頭を軽くポンポンと撫でながら、ふふ、と小さく笑った。
「まったく……しょうがないやつばい」
こうして、「世界樹を救った」奇跡の執筆は、まさかの二人羽織（物理）で締めくくられたのだった。
誰にも知られることのない英雄は今、自分たちが紡いだ物語の夢の中で、静かに眠り続けている。
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