2:日和見って素敵なことよね
父の書斎に呼び出されたのは、昨日の夕食後だった。
「アール様とコーラ・ラスター、それにお前の三人が、タイカンに派遣されることになった」
「なにそれ?」
「留学という名目だ。タイカンの首都にある高等教育機関に。期間は一年」
寝耳に水だった。
DDの国、ニーレは人種のるつぼと呼ぶにふさわしいところだ。昔からの要衝で、軍事的な衝突が起こることも多い。今までに数えきれないほどたくさんの紛争が起き、そのたびにニーレの民は、その時々で最善の位置を採ってきた。
長い歴史を経てニーレ人が得た価値観のうちもっとも大切なことは、犠牲を極力出さないこと、自分たちが住んできたこの場所を守ることの二つだ。
多方面から大きな力に迫られたとき、小さな領土しか持たないニーレが生き延びるには、風向きを読むことが最も重要だった。そんな背景から、ニーレでは主義主張をふりかざすよりも、流れを読み、うまく立ち回ることが求められるようになった。豊かで美しい土地を、時機を読むことで守ってきたのだ。力ではなく、柔軟な姿勢を重視する。だが、風見鶏的行動のため、近隣の諸国からは蔑みの目で見られることも多かった。曰く、ニーレ人の変わり身の早さは信用できない。曰く、確固とした考えを持たないニーレは尊重するに値しない。
翻弄されてきたニーレに対する風当たりが強いのは、恵まれた土地に対する妬みや羨みもあるだろう。また、古今東西文化のぶつかる場所に生きる人々は混血が進むものだが、ニーレもその例にもれなかったため、エキゾチックな見た目の人間が多かった。異なった外見が阻害の要因となりうることは言うまでもない。
周辺諸国を広く巻き込んだ小競り合いが終わったのが四年前。現在は、ニーレを含むいくつかの小国がマカン王をいただく連合という関係性で安定していた。が、火種は探せばいくらでもあるもので、今ニーレを悩ませているのは、国境を接するタイカンの存在だった。
ニーレとタイカンの境界線上に一つの山がある。そこでは有用な金属が採掘されていた。鉱山の仕事は半端なものではない。その山でも昔から多くの人が命を落としてきたし、技術が進んだ現在でも危険を伴う仕事だった。だから、現場では争いが起こったことはない。人の争いにかまけていられるほど、安全が確保されていないからだ。ニーレはニーレの側から、タイカンはタイカンの側から山に入り、山の中でかち合うことがあっても譲り合って、これまで来た。
しかし四年前にマカン王が立ったことで、おとなしくしていたタイカンの軍部が騒がしくなった。タイカンはマカン王に近い血筋を持つ国家で、歴史は浅い。「タイカン」という国名を名乗るようになったのもここ十年ほどのことだ。純血主義とまではいかないが、閉鎖的な気質の国であることは確かで、特に強硬派の、ニーレに対する風当たりは強まってきていた。
「タイカンが鉱山の単独領有権を主張していることは知っているな?」
父親の言葉にDDは頷いた。
「軍部の一部、特に上層部が領有権をはっきりさせろと言っている」
DDの父親、マヌハンディル・トーメは古くから続く資産家の息子で、先祖から引き継いだ貿易業を元手に、広く商売をしている。小柄だが押し出しがよく、政治家たちとの付き合いも多いため、様々な情報が入ってくる。
「今まで曖昧でやってきたんだからそのままでいいのに」
ニーレ人にとって白黒つけることは、時と場合によっては好ましいことではない。グレーゾーンで問題なく運用されてきたのなら、それを続ければいいだけのことだ。DDのなかにもニーレ人の事なかれ主義は根付いていた。
「それが通じない人たちなんだろう。うちと揉めて、マカン王に目を付けられるのはタイカン側もまずいはずで、そう考えるタイカン側の人間が、融和策を申し出てきた」
「それが俺たちの留学なの?」
「例の鉱山の所有者が誰か知っているか?」
「知らない。国有なんじゃないの?」
「法律上の所有者はヒメナ様だ」
ヒメナ・メディアはアールの母親だ。現大公の妹に当たるため、降嫁しているものの彼女の子供達には領主の位に対する継承権がある。大公には正妃に三人、その他側室にも計五人の子供がいるので、ヒメナの子供たちが次期領主の座に就くことはないだろうが、権利は権利として存在していた。
「鉱山のタイカン側の所有者も、法律上は個人でな。その人物は軍部と距離を置いていて、事を荒立てたくないと思っているらしい。マカン王に両国の融和を示すための方策として、若者たちの相互交流を行おうと考えたと聞いている。向こうさんの内部でも権力争いはあるだろうしな」
「一昔前だったら政略結婚とかしてそうだね」
「その目がないわけじゃない。でも、現段階ではそこまでじゃない。まずは先鋒として、懸案の山の関係者であり、若い人材としてアール様を招きたいと言ってきた」
「…聞こえはいいけど、それって人質みたいなものじゃないの?」
不満気に言って首を傾げたDDに、マヌハンディルは大袈裟に目を見開いて見せた。
「おいおい、人聞きが悪いなあ。さすが我が息子じゃないか」
「そんなとこにアールを行かせられないよ」
「だから君の出番だ」
ため息混じりに言う息子に向かって、父親はにやりと笑った。
「君には私の仕事を教えてある。まだまだ未熟なところはあるが、君なら助けになるだろう。それからコーラ」
「見た目と中身のギャップ女王」
「そのとおり。彼女もアール様の盾になれる」
「女の子だよ」
「そうだね。もしかしたら彼女は傷つくかもしれない。でも、君ならフォローできる。大人たちの奸計に巻き込むのは申し訳ないけれど、避けて通れない事態なんだ。だから、これが最善の人選なんだよ」
「アールは人身御供、コーラはおとり、俺はバランサーか」
「国がようやく安定してきたところなんだ。重責を担わせることになるのはわかってるし申し訳ないのも本当だが、今マカン王に目をつけられるわけにはいかない。わかるだろう、DD」
DDは息を吸い込んだ。父の書斎は独特の匂いがする。コロンと、書物と、インクと、古臭い慣習と、最先端の思想の混じりあった匂いだ。
「わかったよ。できるだけやってみる」
「孤立させたりはしないよ。だが、教育機関の中に入ってしまったら私達は手が出せない。大人が表立って動くわけにはいかないんだ。だからこれは君の仕事になる」
『君の』を強調して言ったマヌハンディルは鼻の下の鬚に触ると、そのまま手で口元を隠すようにした。父が興味を掻き立てられている時の仕草だ。息子を敵地に送り込むような事態を、父親は面白いと思っているらしい。困った大人だとDDは思った。