第四話
「何をしているの?」
静かな声に、僕は現実に引き戻された。一歩、踏み出そうとしていた足を戻して振り返ると、貯水タンクの黒い影の上に、細身のシルエットが浮かんでいる。月も無い上に距離もあったので、相手の顔が見える筈も無かったのだけれど、その時の僕はその人が笑っていると思った。
「そこから落ちたら、かなり痛いと思うんだけど」
完全な静寂だったその空間に、その人の涼やかな声だけが、嫌にはっきりと響いた。そして、その言葉で、僕は漸く自分のいる場所をはっきりと認識し、反射的に金網にしがみついた。
「それとも、君は痛いのが好きなのかな? あはは、マゾだね」
言いながら、よっ、とその人はタンクから飛び降りて、僕の方に歩いて来た。
金網越しのすぐ側まで来て、やっと、ぼんやりとだけれどその人の顔が見えた。僕よりも頭一つ分以上背が高く、二十代前半くらいの青年だと思った。
「俺が来た直後にドアが開く音がしたものだから、看護士たちにでもバレちゃったのかって、焦っちゃったじゃないか」
青年は黙ったままの僕に、おどけたように肩をすくめてみせた。
「で、最初の質問に戻ろうか。何をしていたの? というか何でここに来たの?」
叱られるのかと思ったけれど、青年の声は穏やかで、純粋な疑問以外何も感じ取ることは出来なかった。
「退屈だったからここに来た、それだけだよ」
言って、なんとなくバツが悪くなった僕は俯いた。足下にはコンクリートがあったけれど、少し視線を後方に向けると、果てが無いように錯覚してしまうほどの、冥い闇があった。この闇に堕ちれば、この退屈な生活からも、この病弱な体からもおさらばできるのだろうか。
「答えになってないし。——でもそうか、退屈だっただけね。飛び降りるのかと思って驚いちゃったよ。早とちりだな、俺」
苦笑した、彼の語調は、初めから全く変わっていなかった。驚いているどころか、冷めているようにすら思える。
「驚いてたようには見えないけど」
その様子が癇に障り、僕はぶっきらぼうにいって、青年を上目遣いに軽く睨んだ。
「そう怖い目するなよ。平然としてるように見えて、これでも心臓バクバクいってたんだから」
「…………」
「会話する気なし? つれないなぁ。退屈だったんでしょ? どうせなんだから楽しくお話でもしようじゃないか」
嫌に馴れ馴れしくしてくる青年に、一つ溜息を吐き、僕はその場で百八十度回転して、金網に背を預けた。
「何を話す? そうだな、趣味のはなしなんてどう? 君はなんか趣味ってある? 俺の趣味は釣りなんだけどさぁ、この前——」
僕は、勝手に話し始めた青年を無視して、後ろ手に金網を掴んで、屋上から身を乗り出してみた。高い所は幼い頃から好きだった。けれど、その時ほどの興奮を覚えたのは初めてだった。この軀で、空を切る快感を得てみたかった、この夜闇の果てに在るものを見てみたかった。どうせ、僕は生きていたって、一生入院生活のままだ、ここで死んだって損をすることは何もない、そう思った。
僕は上半身に体重を乗せて、金網から手を離そうとした。
けれど、その瞬間に、僕の手は僕の意志に反して、再度金網をしっかりと握り締めた。
首を回して見ると、青年が笑いながら僕の手ごと金網を掴んでいた。
「何をしているの? ほら、聞くだけでもいいから、俺の話聞いてよ。ああ、そこだと聞きずらいかな。落ち着いてられないか。じゃあ、こっちおいでよ」
表情こそ笑ってはいたけれど、その声は底冷えするものだった。それこそ、言うことを聞かなければ、地獄に落としてやるとでもいうような。
とはいえ、両手が固定されている僕は動くに動けず、固まっていると、一瞬だけ両手が解放され、体が持ち上げられた。僕が反射的に体を強ばらせたことに、青年は全く反応せず、僕はそのまま金網の内側に降ろされた。
「はい、そこに座って」
穏やかに言われて、僕は力が抜けたようにへたり込んだ。それから、青年はまた一人で延々と話し出した。途中で眠りそうになると、でこピンで起こされ、病室へ戻ろうとすると、底冷えのする笑顔でとめられた。
結局、僕が彼から解放され、病室へ戻る事が出来たのは夜が明けてからで、眠い目を擦りながら、ふらふらと部屋に辿り着いた僕は、ベッドに入るなり寝入った。
それが、僕が初めて自殺を考えた日で、初めてあの人に出会った日で、自殺することを諦めた日だった。
その日から、僕は頻繁に屋上へ行くようになった。時々、医者や看護士に見付かって叱られたけれど、そんな事は右から左へ抜けていった。昼間でも夜でも、青年は屋上にいて、僕を見つけると、いつも勝手に話し出した。僕はそれを聞いて、よくもそれだけ話のネタが尽きないと感心したものだ。
暫くすると、屋上には稀に自殺志願者が来ている事もわかった。今まで病院でそんな話を聞いた事がなかったから知らなかったけれど、この病院には自らの死を望んでいる者が少なからずいるという。それでも今までそう言った話が話題にならなかったのは、自殺者が殆どいなかったからに過ぎない。それは、一番手っ取り早い飛び降り自殺をするための屋上にはいつも彼がいて、彼が自殺志願者たちを思いとどまらせていたから、らしい。この話の真偽は知らない。けれど、僕を何度も思いとどまらせてくれたのは確かだ。
そして彼は、出会ってからもうすぐ一年になるという頃に、突然、屋上に来なくなった。
†
あの人がいなくなって、僕は自分の意志で勝手にその役目を負おうと思った。
だからそれは、誰がなんと言おうと、僕の“仕事”なんだ。
「いずれにしても死ぬんですよ? だったら、できるだけ苦しまないで死にたいじゃないですか。だから、ここから跳ぶんです」
そう言う凪紗の口元には、うっすらと笑みまで浮かんでいる。
「探してたペンダントは? 見付かったの?」
「ペンダント、ですか? あぁ、あれは本当はなくしたわけじゃなかったんですよ」
彼女はポケットから何かを取り出して、僕に見せた。
それは、細い鎖に、小指の爪より一回り大きいくらいの大きさの音符が通された、ペンダントだった。
「ずっと、死のうと思ってここに来てたんです。でも、ここに来ると必ずあなたがいたから、出来なかったんですよ——あ、でも、あなたとお話しするのは楽しかったです」
本当ですよ? と凪紗は悪戯っぽく微笑んでくる。
それに、僕は何一つ言葉が返せなかった。言いたいことは山ほどあるのに、どれも喉に詰まって言葉にならない。そして何より、そんなことで彼女を言い負かすことが出来る自信がなかった。
「……楽しかったなら、もう少し、話し相手になってくれないかな」
漸く発せた、掠れた声。我ながら何を的外れなことを言ってるんだ、とも思うけれど、心のどこかでは、これが一番いいとも思った。
僕の言葉が予想外だったのか、ついさっきまで強い意志を宿して微笑んでいた凪紗の瞳は、戸惑うように揺れていた。
「何でもいいよ、面白い話じゃなくたっていい。——僕には凪紗さんを止める資格も権利もないと思うし、僕が止めたとして、凪紗さんがそれを聞き入れてくれるとも思わない。けど、ちょっとだけ、僕の我侭に付き合ってもらえないかな」
彼女を止めることは難しいと思う。だけど、可能ならば、彼女に自ら命を断って欲しくはない。
凪紗は何も言わない。ただ、何かを堪えるようにじっと俯いた。すぐに、凪紗の癖のないまっすぐな髪が垂れて、僕からその横顔を隠す。
「わかってると思うけど、入院生活って、退屈なんだ。凪紗さんが嫌になるまでだっていい。僕の、話し相手になって欲しい。もちろん、これは僕の我侭なんだから、無視されたって僕はあなたを怒ったりはしない……出来ないけど、だけど……
————だけど、こっちに戻ってきて欲しいです」
それ以上、言えることはない。少なくとも、僕はそう思った。黙って、俯いている凪紗をじっと見つめる。そろそろ凪紗の体力も限界なのだろう、微かに聞こえる呼吸は荒くなってきて、柵を掴む手の力も強くなっているのがわかった。
また倒れてしまわないだろうか。そう思いもしたけれど、ここで動くわけにはいかなかった。
しばらくして、彼女の体が震えてきて、漸く彼女は顔を上げた。その瞳には、もう戸惑いは見られなかった。
そして、何も言わないまま、凪紗は一歩、足を踏み出した。




