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第三話

 ある日、僕が屋上へ行くと、珍しく凪紗の方が先に来ていた。

 凪紗は、初めて僕が見たときと同じように、風に靡く髪を片手で押さえて佇むんでいた。その姿は、一枚の絵画のように幻想的で、儚げで、酷く脆く見えた。あの時と違うことといえば、彼女がどこか一点を見つめているということと、僕が屋上に出るドアを空けた所だということ。


 ——そして、凪紗のいる場所が、転落防止用の柵の向こう側だということ。


 凪紗は僕の身長よりも少しだけ高い金網の柵を背にしていて、僕にはその表情が窺えない。

「————っ!」

 僕が駆け寄ると、彼女は緩慢な動作で振り向いて、悪戯がばれた子供のようなバツの悪そうな笑みを浮かべた。

「そんなとこで何してるのさ、落ちたら死ぬよ。早くこっちに——」

 言いながら、屋上の端から下を覗くと、何もかもが模型になったかのように小さく見えて、僕は場違いな爽快感を覚えた。ここから落ちたら、どんなに気持ちがいいだろう。一瞬そんなことを考えてしまい、慌てて凪紗に視線を戻した。

「もういいんです、どうせ死にますから」

 僕の言葉を遮った凪紗の声は、今まで聞いたこともないほど冷えていた。

「どうせ死ぬからって、それは凪紗さんがそこから飛び降りる理由にはならないよ」

 この程度のことは言っても無駄だとわかっているのに、それでもいつも言ってしまう。

 ほかの病院でどうだかは知らないけれど、この病院では自ら死を望む者が少なくない。かくいう僕も、一体何度死のうと思ったことだろう。けれど、僕には必ずそれを思い留まらせてくれる人がいた。——今はもう、いなくなってしまったけれど。


      †


 幼稚園の頃の僕は、まだそんなに病弱というほどでもなく、半年に一回風邪を引く程度だった。それが、年を重ねるごとにだんだん風邪を引く頻度が上がり、また、軽い風邪だと思っていたものを、酷く拗らせることも多くなった。そして、小学五年生になった直後に、風邪を拗らせ重い肺炎にかかり、初めて入院した。それからは、一つ風邪や病気が良くなったかと思えば、すぐに風邪をぶり返した。漸く学校に行けるほどに回復したかと思えば、次の日にはまた病院に逆戻りする、というような日々を送ることになった。

 それでも、最初は滅多にすることのない、入院生活という非日常に対しての過剰なまでの期待と、ほかの同級生が経験したことのないことをするんだ、という特別感、優越感を持っていた。それに、最初の二、三ヶ月は、数少ない学校の友達や、先生なども代わる代わる見舞いに来くれて、大して退屈もしなかった。

 けれど、その入院生活が、僕にとっての“非日常”ではなく、ただの“日常”になってしまうのに、そう時間はかからなかった。そうなったとたんに、今まで無条件に、何もかもが新鮮で楽しく、輝いて見えた、非日常の“舞台”であった病院は、急にただの退屈な“檻”になった。入院している時間が長くなるに連れて、友達も、先生もだんだんと見舞いに来ることがなくなっていった。中学生になっても、義務教育だから入学できただけで、入学式にも出なかった、一度も出席したことがない同級生のお見舞いに来る奇特な人なんている筈もなかった。勉強は全くしなくても怒られないし、読書も、ゲームも、パソコンもやりたければ好きなだけできたけれど、そんな生活にも、数ヶ月も経たずに飽きた。病弱になってしまった体では、外に出て活発に遊び回ることもかなわず、僕自身が大丈夫だと思っても周りの大人たちに許される筈もなく、体を動かしたいという欲求は、ストレスにしかならなかった。

 退屈はたちまち苦痛に変わり、僕は世界から隔絶された場所で、無理矢理に生かされているような気分になった。鮮やかな色がない病室にずっといるうちに、外の景色までモノクロになってしまったかのように見えた。

 深夜、ほかの患者が寝静まった病院を、僕が密かに徘徊するようになったのは中学一年生の初夏だった。夜間の見回りをしている看護士たちに見付からないように院内を歩き回ることは、久しく感じていなかったスリルがあり、たちまちに僕の習慣になった。

 それでも、いくら病院が広いとはいえ、十数日もあれば、行けるところは全て行ってしまい、またすぐに、暇を持て余すようになってしまった。



 そんなある日だった。退屈だと思いながらも、僕はなんとなく病棟を歩き回っていた。無意識に進んでいると、自然と足は上の方へ行こうと、階段を上っていた。

 ——カチャン。

 音が聞こえて、僕は我に返った。今まできたところのない場所なのか、目の前にある扉に見覚えはなかった。病棟内は一通り徘徊してしまった筈なのに、何故。と考えていたところで、一カ所だけ、まだ行っていなかった場所があるのを思い出した。

 そうだ、屋上だけは、どんな感じだかなんとなく想像がついたから、後回しにしていたんだった。

 僕はそろそろと手を伸ばして、ドアノブを掴んだ。何故だかわからなかったけれど、数秒だけ、そのドアノブを回すことがものすごく躊躇われた。今から思えば、あれは無意識のうちの期待だったのかもしれない。

 僕は一回深呼吸をして、ゆっくりとドアノブを回した。これ以上まわらなくなったところで、ドアを少しずつ前に押してみた。

 ——カチャッ。

 金属で出来たドアは、軽い音をたててから、大した抵抗もなく、僕が力を加えた分だけ少しずつ、開いていった。少しずつ広がっていく、金属の細い隙間から覗いたのは、冥い、影だけだった。

「あ——……」

 僕は、一歩屋上に足を踏み入れたところで、その闇に圧倒され、ドアを開け放したまま、ふらふらと頼りない足取りで、屋上の端の柵まで進んでいった。

 金網の向こうに見えるのは、吸い込まれるような深い闇。漆黒でありながら、限りなく透き徹っている夜色の一面に、儚く朧げに見えるけれど、確かに、強かにその存在を主張する、煌めく点が鏤められていた。そこには、僕が暫く感じることが出来なかった何かがあった。

 そんな景色の中に、金網が見えるのが不快だったのだと思う。その頃はまだ、身長は低かったけれど、それでも背伸びをして手を伸ばせば、金網の上に手が届く高さで、僕は無意識に金網を越えていた。

 今から思えば馬鹿に思えて仕方がないのだけれど、僕はその時、階段を上って来た時に聞いた音のことをすっかり忘れていた。というよりも、そんなことを考える余裕もなかったのだろう。

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