第二話
数日後、僕がいつものようにタンクの上で寝転んでいると、また彼女が来た。
あの後、気を失っている間に運ばれたのだろう。病室で気が付いた僕は、その知らせを受けて、すぐにやって来た主治医に、彼女のことを尋ねた。とは言っても、個人情報だとかプライバシーだとか言って、本当に教えてもらえるとは全く思っていなかったのだが、医者は思っていたよりもすんなりと、ほんの少しだけど、彼女のことを教えてくれた。その時の彼女、長谷凪紗は、二日前に大きな手術をしたばかりで、体力がかなり落ちていたのだという。屋上へ来た時は、やっと立てるくらいまで回復した直後で、本当はまだ動き回ってはいけなかったんだよ。と、医者は言ってから、「知らせてくれてありがとう。でも、君も自分の体を大切にしなさい」と僕を窘めた。
僕は、もう大丈夫なのかを聞くために——純粋に、彼女と話したいという思いもあったが——屋上へ降りた。
「もう動いていいの?」
僕が降りてきたことに気付いていなかったようで、後ろから声をかけると、凪紗は勢いよく振り返って、怯えた表情で僕を見て、慌てたように身を竦ませた。
「あのっ、これはそのっ……」
ガラスを弾いたような、透き徹った声だった。僕には、一瞬空から降り注いできたように聞こえ、それが凪紗の声だということに気が付くのに、数秒を要した。
「黙って病室を出てきてしまったわけではなくてですね、いえ、黙って出てきてしまったんですけど……。で、でもっ、これにはちゃんと理由がありまして、一応我慢はしたんですよ……? でも、やっぱりいてもたってもいられなくなってしまったんですっ。……だ、だから、これは不可抗力だったということにして……、というか、あれは不可抗力ですっ。絶対っ。……なので、……あの、あなたもそういうことにしておいてもらえませんか? ……えぇと、だ、ダメですよね、……うぅ、ゴメンナサイ」
そう言って凪紗は項垂れる。
大人っぽいと言うか、その華憐で儚い印象の容姿や声からは全く予想していなかった、幼いと言っていい言動に、僕は彼女をとても可愛いと思った。
くすっと零れてしまった笑いに、凪紗は面白いように反応して、あわあわと動揺を表す。
「わ、私何か変なことを言ってしまいましたか?」
「ううん、そうじゃないよ。——それより、ここに何しに来たの? 探し物?」
無断で病室を出てきたらしいことには、(前回のこともあるし)少し眉を顰めたい気もするけれど、それは僕が言えることではなかった。何せ、僕はその常習犯で、あまりに何度も医者や看護士に注意されても一向に構わず、屋上に通い続けるので、病棟の中だけなら、ということで黙認されている立場なのだから。
「え…………? あ、……は、はいっ、そうです。あの、で、でも——」
気が動転しているのか、手を振り回しそうな勢いで、彼女は弁解の言葉を探しているようだ。
「じゃあ、探すの手伝おうか? 何探してるの?」
「すぐ帰るので、今回は見逃してもらえるとものすごく嬉し————って、え?」
僕の言葉に、凪紗の動きがピタッと止まった。信じられないものを見たように、元々大きな目をさらに見開いて僕を見てくる。
「もしよければ何を探してるのか教えてよ、手伝うからさ」
入院生活って、することないから暇なんだよね。と、僕はもう一度言い、凪紗に笑いかける。
「えっと…………、ぺ、ペンダントです。……普通の」
僕の申し出があまりに意外で戸惑っているのか、両手を胸の辺りでぎゅっと握り、彼女は俯いて躊躇うように言った。
「特徴とかないの?」
「あ……えっと、音符がついてたはず……で、す」
今までも決して大きな声とは言えなかったが、それ以上に、風に流されて消えそうな程、小さい声だった。
「……あの、私のこと、怒らないんですか?」
早速ペンダントを探し始めた僕に、彼女がおずおずと聞いてきた。
ああ、そうか。今まで凪紗がなんとなく怯えていたのは、僕が彼女を怒るか、医者にこのことを知らせに行くと思っていたからか。
「怒らないよ、っていうか怒れない、かな。僕も本当は病室でちゃいけないんだし。人のことはいえないや。僕の場合は、僕があんまりにも言うこと聞かないもんだから、先生たちが根負けしちゃっただけだし」
「そんなに長く入院してるんですか? えっと……」
「亜雲蛍って言うんだ。よろしく、凪紗さん」
笑って言うと、凪紗は少し驚いたような表情をしてから、勢い良く頭を下げた。
「あっ、は、はいっ。よろしくお願いします。——蛍……くんは、そんなに長く入院してるんですか?」
「まあ、ね。でも、ずっと入院してるって言うより、入退院を繰り返してるっていう方があってるかな」
僕が笑って言うと、彼女は寂しそうに目を伏せた。
凪紗の探すペンダントは、なかなか見付からなかった。僕がタンクの上で昼寝をしていると、彼女はいつもきょろきょろしながら屋上に上がってきた。そして、僕が声をかけると、彼女は必ずはじかれたように振り返って、「驚かせないで下さいよ」と困ったような笑みを返してきた。二人で一緒にペンダントを探している間は、他愛もない話をずっとしていた。お互いの病状の話はしなかった。長かれ短かれ、病院で生活しているものとしての、暗黙の了解のような物があったからだろう。僕は凪紗の無事な姿を見られるのであれば、それだけで十分だったし、彼女が内心でどう思っているのかは知らないけれど、僕に病気のことを聞いてくることは一度もなかった。
幼い頃から病気がちだった僕は、まともに学校に行ったことがなかった。小学校の高学年になった頃からはこの病院に入退院を繰り返すようになって、同年代の友達がいなかった僕に、凪紗は楽しそうに学生時代の思い出を話してくれた。授業中にいきなり趣味を語りはじめる先生のこと、巫山戯てばかりの部活動のこと、どんな馬鹿なことをしたかとか、乱暴者だと思われていた男子が意外と優しかっただとか。その殆どは、彼女が話して僕は相槌を打つだけだったけれど。
他愛のない、普通の友達のような、どこにでも転がっていそうなありふれた会話。だけど、そんな日々は、そういうものに殆ど縁のない僕にとっては、これ以上ないほど楽しくて、嬉しかった。
※「亜雲 蛍」は「あくも けい」って読みます。




