第一話
僕は幼い頃から、高い所が好きだった。物心ついた時にはもう、一人で勝手に、しかも傍から見るとかなり危なっかしげに、背の高い木に登っては見付かって、こっぴどく叱られた。母親に聞いた話だと、まだはいはいもまともにできない頃から、少しでも高い所に移動しようと、全身を使って奮闘していたという。少しでも目を離すと、すぐに高い所に登りたがるんだから、何度もベビーベッドから落ちそうにてなって、気が気じゃなかったんだから。と、何度言われたことか。だけど、そんなことを言われたって、あったことは仕方がない。現代の科学じゃ、どんなに頑張ったって過去には戻れないのだから、僕にはどうしようもない。
まあつまり、僕が今、高い所が好きなのは、生まれつきの本能のようなものなんだろうということだ。
そして、この時も僕は、その本能に従い、屋上の貯水タンクの上に寝転んでいた。この場所で空を見ると、僕と空の間には何も無くて、様々なものから解放されるような気がする。勿論ただの錯覚だけど、そんなことを言っていたらつまらない。それに、ただの錯覚だとしても、その直前までどんな気分だったとしても、たった数分で穏やかな気分になれるのだ。しかも、この場所、貯水タンクの上の真ん中は、下から見られたとしてもなかなか見付からない。一人になりたい時にはうってつけの場所だった。
——キーン、コーン、カーン、コーン
この建物から徒歩5分程度の場所にある高校のチャイムが聞こえた。今だと、多分6時間目の授業が終わったくらいだろうか? きっと、ようやく一日の労働を終えたと、多くの生徒が僕と同じように、開放感を感じているんだろう。仲のいい友達同士で他愛もない会話をして、運動部に入っている人たちは練習がキツいからサボりたい、なんて考えているのだろうか。
キィッ
屋上のドアが開く音が聞こえて、僕はタンクの端から、見付からないように気を付けながら、そうっと屋上を見下ろした。
屋上に上がってきたのは、僕よりも四、五才年上に見える女の人だった。肩の辺りで綺麗に揃えられた、まっすぐで綺麗な黒髪が、横からの日光を受けて輝いて見えた。屋上に吹く、緩い風で靡く髪を、片手で軽く押さえているその姿は、その人の大きな、そして憂いを帯びた瞳と、清楚な純白の服もあって、とても絵になって見えた。僕は暫く何も考えられずに、その人の姿に見蕩れていた。ただ、一瞬気が付かなかったが、彼女が来ている純白の服は、もう見慣れてしまった、ここの入院患者が来ているものだし、彼女の肌は白いと言うよりも青白かった。彼女は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回しながら一歩一歩と言うように、ゆっくり歩いていた。けれど、数分もすると、その呼吸は傍目にも一目で分かる程荒くなった。
僕があわててタンクから降りると、彼女は膝をついて、苦しそうに顔を歪めながらも、驚いたような顔をしていた。
「ちょっと待ってて、すぐに看護士さん読んでくるからっ」
僕の言葉に、彼女は何か言いたそうにしていたけれど、僕にそんなことを気にしている余裕は無かった。足を踏み外しそうになりながらも、急いで階段を駆け下りていく。急な運動のせいか、大した距離でもないのに、すぐに呼吸が乱れて、息が苦しくなった。屋上から一番近いナースステーションに駆け込む頃には、乾いた喉が上手く空気を通さず、息が詰まって咳が出た。その所為で余計に息が詰まり、苦しくなった。肺が、頭が、全身が、酸素が足りないと訴えてきて、手足がとても重く感じた。頭が割れそうに痛くなった。それでも、鉛のように重く感じる全身を叱咤して、何とか倒れないように気を保つ。
「おく……じょ、でっ、女……とが、っこ、きゅ……青ざめ……てて、く……しそ——」
ここに辿り着くまでに、何度も、何度も咳き込んだ喉はやけるように痛くて、声を出す度に何かでごっそりと削られているような感じがする。こんなことで簡単にヘバってしまう体が悲しくて、恨めしくて、言いたいこともまともに言えない自分が悔しくてたまらない。なかなか続いてくれない言葉を、無理矢理にでも押し出そうと、僕は喉を酷使して、また激しく咳き込む。
いきなり駆け込んできた僕に、看護士たちは、目を白黒させながらも、優しく声をかけてくる。必死に叫ぶ僕を静かな言葉で宥めてきた。「もう大丈夫よ」「落ち着いて」「ほら、ゆっくり深呼吸して」「……あんなに勢いよく走るから。自分の身体を、もっと大切にしなさいね」
——違う。違う違う違う! 僕じゃない! 僕じゃなくて、彼女なんだ! まだ、屋上で一人で苦しんでいる!
「…………そ、じゃ……な、くて。……僕じゃ、な……お……なの、ひ……が…………っ!」
どれだけ言っても、まともな言葉が出てこない。さっきから叫び続けている喉は痛くて、本当に痛くて。もう痛みには慣れたと思っていたのに、涙が出そうになる。僕は再度、激しく咳き込んだ。そこで一度深呼吸をして思い切り息を吸った。
「僕じゃなくてっ、女の人がっ、屋上でっ」
またすぐに咳き込んで、息を吸う。
「女の人が、呼吸が酷くて、青ざめててっ」
そう言っただけで、また咳き込む。この体は、この喉は、なんて脆弱なのだろう。それでも、看護士の誰かが、僕の言いたいことをわかってくれたようで、「早く、屋上に!」と言う声と、数人が駆ける足音を聞いて、僕はようやく叫ぶのやめた。喉は呼吸をするだけでも酷く痛んで、体も全身こんなものは動かせるわけが無いと思えるほど重い。鈍く、深く痛む頭も、もう限界だった。それでも、彼女が無事かを聞くまでだけでも、僕は、この指一本すら動かせない、苦痛なだけの体に、必死で意識を繋ぎ止めようとした。
それからの時間は、一秒一秒がとてつもなく長く、一分にも一時間にも感じられた。実際には大した時間は経っていないだろう。けれど、僕が時間の概念もわからなくなりかけた頃、僕の側で心配そうに声をかけてくれていた看護士の「屋上にいた人、落ち着いたみたいよ」と言った声を聞いて、僕は漸く意識を手放した。
あ、粗筋ってこんなもので良いんでしょうか……(汗
ジャンルも何か間違ってる気がしますし ←
このあたりは私の最大の苦手の一つな気がします。




