トーマ ~転生薬師は仮初の婚約者を溺愛する~
「婚約破棄しよう」
トーマの発言に動揺するのは美しく成長した婚約者。プラチナに輝く髪は緩く波打ち、振り向くたびにキラキラと光の粒子が見えそうなほど。大きな瞳は瑞々しい新緑色。
出会った頃は人の手が掛けられず、伸ばしっぱなしの髪に少し汚れた手足の野生児のような少女だったというのに、今では道行く人が振り向かずにはいられないほどの、美しい女性に成長したこの国の第五王女であるジュリエッタ。
「婚約破棄、だよ」
もう一度『婚約破棄』という単語を繰り返したトーマの言葉に、ジュリエッタはふらりと身体を揺らす。
「ジュリエッタ!!」
慌てて出した腕で支えた婚約者は、まるで小鳥のように小さく可愛らしい。どんなに成長しても、トーマにとっては出会ったあの頃から変わらず護るべき存在だ。
「ジュリエッタ? ジュリエッタ?」
呼びかけに応えないジュリエッタの細い首に指を置き、脈を確認する。脈に異常はなく、呼吸も規則的だ。驚いて意識を失っただけのようだと判断して、トーマは安堵のため息をつく。
ジュリエッタの付き添いの侍女に断りを入れ、意識を失った彼女を離宮まで運ぶ。
婚約者でなくなったら、こうして彼女を部屋まで運ぶことも、そもそもジュリエッタの住まう離宮に立ち入る権利すら無くなるんだな、と考えながら。
それでも、トーマはこの婚約を解消しなければならない。なるべくゼロに近い形で、ジュリエッタが次の婚約へ向かえるよう、円滑に進めなければ。
だって、トーマとジュリエッタの婚約は、本来の物語には描かれていなかったのだから。
◇◇◇◇◇
トーマが前世の記憶を思い出したのは十二歳の時。始まりは貴族の子息子女が通う学園の入学式で生徒代表として挨拶をするこの国の第四王子を見た時「幼馴染の側近に裏切られて、失脚するんだよなぁ」と思った時だった。
ふいに浮かんだ自分の思想に疑念を抱きながら始まった学園生活。学ばずとも知っている一部の歴史や、関りのないはずの高位貴族や王族の人間関係の知識。不思議に思いながらも、男爵令息であるトーマは学園で目立たずひっそりと過ごしていた。
ここが前世で愛読していた小説の世界だと気が付いたのは、昼食時の学園の食堂でのこと。潰した芋にパン粉をつけて揚げたシンプルな料理を前に、ソースがあったらなぁ、と今世にはない調味料を懐かしんだ時だった。地球の日本という、文明の発達した国で過ごした前世の記憶が次々と蘇る中、もくもくとフォークとナイフを動かして食事を進める。そのまま午後の授業に出席し、下宿先に戻り、就寝するまで、トーマの頭の中は混乱を極めていたが、日頃から目立たぬ生徒であった彼は、周囲からはいつもよりボーとしているな、と思われているだけだった。
前世、忙しい仕事の合間に気分転換に読んでいたウェブ小説。その中でも、特に熱中して読んでいたのは『紺碧夜城』。舞台は魔法が使えるファンタジーな世界。天涯孤独な主人公が自分の力でのし上がって行く成功物語。物語の舞台は隣の魔法大国だったが、研修のため訪れたこの国で、主人公は結婚する。妻となる女性と出会い、結婚し、子供が生まれる頃までの数年間のこの国での物語が丁寧に綴られていた。
自分の力でのし上がって行く爽快なストーリーが人気であったが、結婚編とよばれたこの国での物語は、ほのぼのと優しい温かな気持ちになった。
魔法医療を学んでいた主人公がこの国を訪れるのは二十二歳のとき。約十年後に起こる感染症の流行で、この国は王族も貴族も関係なく大勢の民が死に、復興はなかなか進まず、後に大厄災と呼ばれる。数年経ってもまだ医療の現場も回復していないこの国に、研修として隣国からやってきた主人公は、医療の観点から様々な改革を行う。
トーマは前世で大手製薬会社に勤務していた。といっても、総務課で人事を担当していたため、MRと呼ばれる営業のように薬の知識は多くはない。それでも、小説の中の感染症の症状を読んで、おそらくある病気をイメージして書かれているだろうと見当がついていた。
ボーとしていたと思われる数日の後、トーマは猛烈に勉強を始める。相変わらず人前に立つことは得意ではなかったが、成績は目を見張るほど上がった。
男爵家のくせにと馬鹿にされても、大人の記憶が蘇った今は、相手をすることもなく軽くいなして、勉強に集中する日々だ。
「『地域の薬草』に『震災時の集団心理』? お前は何を学んでいるんだ?」
放課後の図書館で勉強しているトーマに声を掛けて来たのは、同じ学年の第四王子。クラスは階級ごとのため、最高クラスである彼と、下位貴族であるトーマは接点がなく、顔は知っているが、話をしたことはない。しかし、貼り出される試験結果で常に上位に名前が載るトーマのことは、学年の全員が知っていた。もちろん、王族で第四王子のことは学園全員が知っている。
学園の試験に関係ない学習を熱心にするトーマに興味を持った彼は、放課後になると、よく彼を構いにきた。やがて、身分違いではあるが、王子に友として扱われるようになる。
すると、学園内でのトーマの評価も変わって行く。
下位貴族のがり勉から、将来有望な優秀な学生へと。
「試験の結果は常に上位。それにも関わらず、よくわからん知識ばかり詰め込むお前と過ごす学園生活はけっこう楽しかったが、それも、もう終わりか」
学園での最後の授業を終え、あとは数日後の卒業パーティーを残すのみとなった放課後。友となった第四王子と廊下から中庭を見下ろしながら、何気なく会話をする。
「殿下のおかげで王宮の薬草園は入りたい放題だったし、地方の視察にも連れて行ってくれて、現地の民間療法を学んだり珍しい薬草とかも採取できて、凄い勉強になりましたよー」
悪意のない笑顔でお礼を言うトーマに、第四王子は少し引いてしまう。
「なんか、俺の権力搾取されてない?」
「あははは。殿下、気に入ったヤツには心開いちゃうからなぁ」
少しムッとした顔の第四王子に、真顔になったトーマは告げる。
「殿下は、人が好過ぎる。そんな殿下が俺は大好きだし、助けられました。けれど、これからはどうか、人を疑ってください。どんなにいいヤツでも、あなたを裏切る可能性があることを、ほんの少し、頭の隅に置いておいてください」
平民に近いような男爵令息の自分を友と呼んでくれる、おおらかで公平なこの男が、いずれ冤罪で王宮での立場を悪くする物語を、トーマは知っていた。
十五人いる兄妹に、叔父や叔母に従兄弟達。王宮では常に権力争いが起きている。馬鹿正直で人望ばかり厚い友人が、小説の通りに幼馴染に裏切られるのは、心が痛む。
「急に大好きとか、なんだよ。照れるだろ。お、俺もお前のこと好きだけどさ」
頬を染める第四王子に、トーマは一歩引いて距離を取る。
「いや、BLじゃないんで。そういうんじゃないんで、ちょっと手ぇ握らないでください」
「びーえるってなんだ? 美味しいのか?」
学園生活で育んだ友情にほんの少しヒビは入ったものの、この時のトーマの言葉は第四王子の胸に残った。
友人である第四王子の口添えもあり、トーマは卒業後、国付の薬師になることができた。
見習いから始まり、日々のほとんどは雑用をして過ごす。それでも、時間を見つけては、トーマは研究を続ける。
小説の世界に転生したと気が付いてから、トーマはずっと約十年の周期で流行する感染症の特効薬の研究をしていた。
その感染症が流行すると数年は国が傾くことが毎回であった。しかし、トーマの知る物語では、これまでに見ないほど、多くの民が亡くなる。その上、タイミング悪く作物の育ちも悪く食料不足となり、王家では内乱も起こり、国の一部が機能せず、国の流通が止まる。
主人公がこの国に訪れる頃まで、長く暗黒の時代が続く。
感染症の流行を食い止めることができれば、物語の内容は変わってしまう。けれど、主人公がこの国に入って目にした、荒れた建物に、異国の人間に物乞いをする人間、親を亡くした子供達で溢れかえる孤児院。文章で読んだそれらが、自分が今住むこの国で、現実に起こることが信じられなかった。机を並べて学んだ友も、領地に暮らす明るい家族も、馴染みの屋台のオジサンも、すれ違う誰かも、すべてを失う可能性がある。
トーマは思い出せる限りの前世の記憶を呼び起こしながら、現世での勉強も必死でした。
そうして、感染症自体は珍しくないもので、大きな流行はしないものの、幼児や老人がかかりやすい感染症の一つだと結論付けた。
小説の中で流行したと思われる時期を思い出す。流行の季節がこれまでと違ったこと。さらに天災が続き、農作物が不作となり、人々が栄養失調な状態になり、これまで感染しても重症化することのなかった大人達にも広く被害が出たと思われた。食べ物が減り、労働力が減ったところに王族の内乱が起こり、社会が機能しなくなったことが暗黒時代へ繋がる原因だったのだろう。
感染症を特定したトーマは、効きそうな薬草を片っ端から試す。そうして、その症状にあった薬を開発するが、それを処方するのと同時に、乾燥した芋や果物を一緒に渡して経過を見た。
魔法の発達したこの国では、保存食の文化はあまりなかった。そのため、実家の男爵家に協力をお願いして、収穫して余った野菜や果物を乾燥させ、保存してもらう。それを患者に渡せるよう準備をした。
薬とともに栄養の補給、さらに加湿するように、患者と接した後は手洗いを徹底するようになど、持てる知識を騒動員して、感染症の治療にあたった。
トーマが薬師になって三年目、例の感染症が流行り出した。これまでにない勢いで広まる病に、渋る上司に懇願して、第四王子の権力の助力も得て、自身が開発した薬を民に提供する許可を得た。薬を配り、それと一緒に干した食料を渡したり、清潔な環境を整えたりした結果、国を滅ぼす勢いで拡大すると思われた感染症は、わずか一か月程度で終息へとむかった。
その功績を称え、トーマは叙爵を内密に打診されている。自分の力や能力だけではないことから、断ろうと考えていることを、職場に遊びに来ていた第四王子に軽い気持ちで話した。
「もったいない。褒賞として希望すれば金も名誉も手に入るぞ。それこそ、国の花と言われる第二王女のメーデとの結婚だって可能だろうよ」
メーデは美しいと評判のこの国の王女。王子が九人、王女が六人いるこの国の王の子の中で一際魔力が強く、それゆえ、けして王族から出ることはないと言われている。彼女と結婚すると、確実にこの国の王族に名を連ねることができるのだ。
しかし、トーマの頭に浮かんだのは、魔力のない落ちこぼれと言われて表舞台位に出てくることのない第五王女ジュリエッタだった。
魔力量が重視されるこの国の王族の中で、魔法が使えない彼女は離宮にひっそりと暮らしている。
第五王女ジュリエッタが物語に登場するのは、主人公が王宮で迷子になった時。美しく煌びやかな王宮の隅で、薄汚れた、しかしあどけなく笑う子供のようなジュリエッタに出会い、二人はやがて恋に落ちる。王族として価値の低いジュリエッタの降嫁はすぐに叶い、二人は結婚し、幸せな家庭を築く。
勢いのあるサクセスストーリーが爽快な小説であったが、二人の出会いから結婚生活までは、丁寧に優しく綴られていて、忙しい仕事の合間に読んでいた前世のトーマはほっこりと癒されていた。
彼女は現在十二歳。主人公がこの国に訪れるのは小説の中では七年後だったはず。
それまでは王宮の隅の離宮で、ひっそりと誰に構われることもなく、ジュリエッタは生きていくのか。
「ジュリエッタ王女との縁談も可能ですか?」
ポソリと呟いたトーマに第四王子は驚く。
「魔力が使えない落ちこぼれの? 正直王族の数に入っていないような姫だから、それは可能だろうけど、まだ子供だぞ?」
「まだ子供だから、時が来たら手を離します。それまでの間の仮初でいい。可能であれば手回しをお願いたい」
「それはいいけど、え、年下の女の子育てたい系?」
「光源氏じゃないです!」
時々、聞いたことのない言葉を口にする友人と、そういえば異性や恋愛の話をしたことがなかったな、と王子は思う。魔力がなければ王族の務めを果たせないため、存在感を感じない第五王女とどうして婚約したいと言い出したのか、さっぱりわからなくて首をひねる。
第四王子の根回しが効いたのか、トーマが褒賞を受ける式典には着飾ったジュリエッタが参列していた。文章でしか知らなかった彼女だが、一目見て、わかった。
付け焼刃で身繕いをされた少女は、髪の痛みがわからないようにアップに纏められ、身体の線を拾わないはずのゆったりとしたドレスは線の細さを際立たされている。
ほとんど出たことのない公の席に、少女は大きな目を瞬かせて、身体も頭も動かさないように気を付けながら、しかしきょろきょろと視線を泳がせていた。
「褒賞として、第五王女ジュリエッタ様との婚約を望みます」
「その願い、叶えよう。ジュリエッタ前に」
事前に教わった通りに、ジュリエッタは王の前に出て、トーマと対面する。
「この度のご活躍、おめでとうございます。ありがたきご縁を望んでいただき、光栄に思います」
こうして、トーマとジュリエッタとの婚約は成った。
落ちこぼれと言われている第五王女との婚約は世間では、権力欲しさ、売名行為としか思われない。
そのため、ジュリエッタは式典の時だけ形を整えられ、また、元の放置された暮らしへと戻されていた。
叙爵されたとはいえ、年俸が入るのは次年度から。まだただの新人の域を出ない薬師の安い給料では贅沢はできない。
それでも、婚約者に会いに行くのだからと、街の花屋で小さなブーケを買った。女性に花を買うのなど、人生でこれが初めて。
案内もなく通された姫の離宮は、半分森の中にいるような、鬱蒼とした木々の中にあった。
出した先触れも届いていなかったようで、婚約者の訪問に、ジュリエッタは驚き、声も出さない。
差し出した小さな花束を見ると、目を輝かせて受け取ってくれる。
「きれい」
思わず漏れた小さな声に、トーマはホッとする。
前回、式典で会ってから二週間程たっていた。すでにジュリエッタは元の生活に戻っていたようで、長い髪は櫛など通していないことがわかる。サイズの合っていない服は肩がずり落ちそうだ。彼女は今年十二歳のはずであったが、やせ細り十歳前後に見える。
「探検してもいい?」
こくりと頷くジュリエッタとともに、部屋の中を見て回る。そこで見つけた櫛で、ジュリエッタの髪を梳かしてやる。
「妹が小さい頃はよくやってあげたから、懐かしいな」
そう言いながら、田舎の男爵家の小さな少女よりも手入れのされていない髪に、優しく触れる。
丸めて立てかけられていたラグを発見し、ベッドの前に敷いてやる。
もうすぐ冬になる。寝起きのジュリエッタの足が冷えぬように。
眠る時や湯を使う時以外はずっと靴を履いて生活することが基本であるが、ジュリエッタは離宮の中で、裸足だった。部屋の隅に何足かの靴が置かれているが、遠目にみても彼女の足には小さい物と大きすぎる物ばかりだ。
「またね」
そう言って離宮を後にすると、トーマは街の靴屋を巡った。
そう多くない財布の中身と相談しながら、さきほど見たジュリエッタの足の大きさを思い出しながら、彼女に似合う可愛らしい靴を探す。
流行りの花のモチーフがついた靴。淡いピンク色の靴。レースの飾りリボンのついた靴。夜空の星のようなビーズが縫い付けられた靴。可愛い小鳥の刺繍入りの靴。
翌日、すべての靴を抱えて、再びジュリエッタの離宮を訪れる。
「今日も来たの?」
驚いて、それでも今日は言葉を発してくれたジュリエッタに、トーマは袋に入れた靴を渡す。
「来るよ。婚約者だからね。履いてみて?」
どれか一つでもサイズが合う物があるといいのだけれど、そう思いながら、ジュリエッタが一足ずつ試すところを息をのんでみつめる。
夜空の星が散りばめられたような靴を履くと、ジュリエッタは立ち上がり、部屋を歩き回る。
「ぴったり!」
嬉しそうにくるくるとトーマの周りをまわる。花と花の間を飛び交う蝶のように、ふわりふわりと揺れるように。
時間を見つけてはジュリエッタに会いに行く幸せな日々。人と関わることのほとんどなかった彼女の口から、贈り物をするたびに「ありがとう」と礼を言われるようになった。トーマの姿を見ると、いつからか嬉しそうに笑うようになった。「トーマ」と名前で呼んでくれるようになった。
前世では魔法はフィクションの中だけだった。転生したことに気が付いてから、魔法という不思議な力について、トーマは考えることが多い。
薬師の仕事でも、調剤に魔法を使う。言語化出来たらもっとうまく魔法が使えるようになるのでは、と常に頭の中では論理だてて考える。
魔法が使えない落ちこぼれ姫と呼ばれていたジュリエッタだが、彼女から魔力を感じる。おそらく、うまく魔法を発動できないだけだろう。そう考えて、少しずつ、彼女に魔力を魔法に変える、ということを説明する。身体に馴染むように、少しずつ。
気が付くと、ジュリエッタは魔法が使えるようになっていた。元々魔力の多い王族の一員だけあって、あっという間に上級魔法まで使いこなせるようになってしまう。
十六歳で成人し、王族の務めである貯蓄玉への魔力の供給を始めるようになると、彼女は王族として認められるようになった。
トーマが離宮を訪れるようになって、体裁のためつけられた侍女達によって美しく磨かれた彼女は、どこからどうみても、極上のお姫様になっていた。
物語でみた最悪の状態を起こさないために薬師になったトーマは、今も薬師として頑張っている。前世の知識を生かしつつ、今世の魔法を取り入れながら、新薬の開発を主に研究している。王族の婚約者としても、ジュリエッタが成人してから少しずつ夜会や式典などの参加が増えてきた。人前に出ると、ジュリエッタの輝くばかりの美貌とほぼ自然の中で育ったおおらかさは人を惹きつける。気が付くと、人に囲まれジュリエッタは楽しそうに笑っている。
この婚約を、トーマの売名行為という者はもういない。ジュリエッタと婚約してからの七年で、トーマは実力を身に着け、成果を出してきた。
ちっぽけな女の子は、誰もが振り返るほどの美しい女性に成長して、トーマの隣にいてくれる。
悲惨な未来を見るのが嫌で回避したが、小説の中では、ジュリエッタが主人公と出会う時期である。
物語の設定とは少し趣旨が違うが、魔法医療の研修生として、主人公がこの国にやってくるという情報を得た。
物語補正だ。どんなにトーマが行動して感染症の流行を妨げても、第四王子が失脚しなくても、主人公とジュリエッタが出会い、恋に落ちる運命は変えられない。
考えに考えて、トーマはジュリエッタに婚約破棄を願い出た。
こちらの我儘で成った婚約を、こちらの我儘で破棄してもらうのだ。ジュリエッタは男爵家出身の薬師の男に振り回されただけ。
新たな縁談は滞りなく結ばれることだろう。
王女としての務めも果たすようになった彼女の意見が無下にされることもないだろうから、きっと、運命の相手である主人公と出会い、結ばれるのだ。
物語の中のように、いや、きっとそれ以上に、愛しい彼女は幸せな結婚を手にいれる。
それなのに、ジュリエッタは婚約破棄に頷いてはくれない。
出会った頃は妹のように愛おしく、護ってあげたかった彼女が、今は一人の女性として愛おしい。
前世の自分を引きずったかのような黒髪に黒目の、彫りの浅い平凡な顔。せめてイケメンに生まれ変わっていたら、運命に抗ってでも彼女の手を離すことなんて、考えなかっただろうか。
ジュリエッタから、初めて手紙をもらった。
いつも直接会いに行っていたので、手紙をもらうのは初めてだ。短く一言「会いに来てください」と書かれていた。
そのたった一言が嬉しくて、すぐにでも会いに行きたくなる。
返事に悩んでいると、学園に通うため王都に出てきている妹が勝手に覗き見をして、助言を送ってくる。
「王族の方へのお返事ですもの、きちんと礼をもって返さないと」
『貴族のマナー』と書かれた分厚い本を取り出し、手紙の項を開いて見せてくる。兄であるトーマは功績のおかげで伯爵となり、王都にタウンハウスを構えることになったが、実家は地方の男爵家。王都に出て来た妹は苦労しながら、都会の貴族達と付き合っているのだろう。
「貴族のしきたりはわからないことが多く、すまない」
「お兄様のタウンハウスに住まわせてもらっているお礼に、お世話くらいやいてあげますわ」
妹に見てもらいながら、貴族らしい本題にいつ辿り着くのだろう、と不安になるような手紙を書きあげる。
久しぶりに会った王女は、記憶の中よりずっと可憐で美しかった。
もう一度『婚約破棄』を告げると、ジュリエッタは再び倒れてしまう。
前回と同じように、彼女を腕に抱えて離宮まで運ぶ。こちらから破談を望んでいるというのに、彼女が頷いてくれないことに、安心してしまう。
自分と別れて、主人公と出会うことこそが、ジュリエッタの幸せな未来だというのに。
しばらく経って、再びジュリエッタから手紙が届く。前回と同じように、一言だけ書いてあった。
『あなたの秘密をしっています』
トーマは持っていた手紙を落としてしまう。
どういうことだ。まさか、俺が転生者だと、彼女は知っていたのか? まさか、彼女も転生者だったのか?
グルグルと思考が渦巻く。考えたって答えは出るわけがない。急ぎ、すぐに約束を取り付ける。
ジュリエッタとの約束の時間が迫ると、トーマは焦って普段は絶対にしないような初歩的なミスをしてしまう。
手元の混ぜた薬草から煙が噴き出し、爆発音が聞こえた。
気が付くと、医療室のベッドの上。
どうやら調剤の際に魔力暴発を起こしてしまったようだ。
起き上がり、ジュリエッタに会いに行こうとするが、これまで王宮で見たことのない黒髪黒目の男に阻まれる。
安静にするように告げ、鎮静魔法を掛けられた。
遠のく意識の中で、彼が主人公であることに思い至る。自分の出番が終わったことに、トーマは気が付いた。
再び眠りから覚めると、目の前にジュリエッタがいた。
大きな瞳に涙をためて、トーマの名前を何度も呼ぶ。なんて愛しくて可愛らしいのだろう。思わず、出会ったあの頃のように頭を撫でる。
トーマの手に頬ずりするように甘え、婚約破棄してもいいから結婚してほしいと言った彼女に、そのまま唇を奪われた。
ジュリエッタがトーマと結婚すれば、小説の主人公と結ばれる未来は無くなってしまう。それでは、本来のストーリーが変わってしまう。
けれど、ジュリエッタは、トーマが好きだと言った。自分の隣で幸せになると、言ってくれた。
最初は、物語に出てくる大好きな女性が不憫な生活をしていることを思い出し、助けたいと思ったから。ただの思いつきだった。主人公が現れるまで保護して、彼が現れたら、穏便に婚約を解消して「おめでとう」と言うだけだと思っていた。
けれど、彼女の無邪気な笑顔に、素直な心に、惹かれないわけがなかった。美しく成長しても、自分だけをずっと特別な目で見て、嬉しそうに「トーマ」と名を呼ばれて、恋をしないわけがなかった。
「好きだ」
かすれる小さな声に、ジュリエッタはフフフと笑う。
「知っていたわ」
「隠せていると思ったのに」
「秘密を知っていると、手紙に書いたでしょう?」
驚きのあまり、トーマはジュリエッタから身体を離す。
「え、秘密って、そのこと?」
「そうよ」
自分が転生者であることが知られていたわけではなかったことに、トーマは安堵してホッとため息をつく。
「……なんのことだと思ったの? 何かほかに秘密があるわね?」
問い詰めるジュリエッタに、先ほどの彼女と同じようにフフフと笑って返す。
「いつか、きっと全部話すよ」
「本当ね? 絶対よ?」
「約束する」
七年の婚約期間を経て、二人の結婚式は盛大に行われた。
よく晴れた春の日、教会の鐘が王都中に鳴り響き、きらめくように美しい花嫁と、感染症の特効薬を開発した薬師の花婿は、街中に祝福された。
ジュリエッタの降嫁にともない、トーマは一代限りの領地を持たない公爵となる。王都にタウンハウスを構え、二人は暮らし始めた。
これまでずっと離宮に一人で暮らしていたジュリエッタは、トーマが毎日自分の元へ帰って来ることが嬉しい。トーマも、どんなに忙しくても疲れていても、屋敷に戻るとジュリエッタが待っていると思うと頑張れた。
二人はこれまで以上にお互いが思っていること、感じたことを伝えあった。どんなに些細な事でも、もうすれ違うことがないように。
そうして数年後、隣の国に戻った主人公の活躍を耳にして、夫婦となったトーマとジュリエッタは顔を見合わせて微笑んだのだった。
数ある作品の中から見つけてくださり、読んでくださり、ありがとうございます。
ブックマーク、評価、いいね、どれもとても嬉しいです。