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ジュリエッタ ~落ちこぼれ王女は婚約破棄を告げられる~

「婚約破棄しよう」


 予期せぬ言葉に、ジュリエッタは何かの冗談だろうと耳を疑い聞き返した。


「婚約破棄、と聞こえたのだけれど、わたしの聞き間違いよね? もう一度言ってくださる?」


「婚約破棄、だよ」


 目の前の理知的な瞳の婚約者は、温かな紅茶を一口啜って同じ言葉を繰り返す。


 やはり聞き間違いではなかったその言葉に、ジュリエッタは思わず立ち上がり、しかしそのままふらりと倒れてしまう。

 遠のく意識の中、今はまだ婚約者であるトーマの自分を呼ぶ声を聞きながら、婚約が結ばれた当時のことを思い出していた。






 この国の第五王女であるジュリエッタと田舎の男爵家次男のトーマの婚約が整ったのは七年前。

 まだ二十歳の薬師になったばかりの男が、数十年の周期で流行しては国を亡ぼすといわれる感染病の特効薬を開発した。この薬のおかげで、感染病が流行り出したものの、死に至るほどの重症者は少なく、これまでの歴史でみないほど被害は最小限に収まった。

 その新薬開発の功績に、男爵家次男であるトーマは第五王女の降嫁を願ったのだ。


 褒賞として伯爵位を授かった二十歳のトーマとまだ十二歳のジュリエッタ。ジュリエッタが年頃になるまで婚姻は先延ばしされることになり、婚約してからすでに七年が経った。


 王宮の片隅に建てられた離宮の自室で、ジュリエッタはため息を一つ、つく。

 北風の吹く季節には温かな薪をくべられ、日差しの強い日には氷の入った飲み物を供されるようになったのはトーマと婚約してからである。

 それまでは、幼い頃に側妃である母が亡くなり、魔法を使えない落ちこぼれのジュリエッタは最低限の生活を保障された状態で、この離宮に捨て置かれていた。


 功績を上げたとはいえ、男爵家という下位貴族の次男で、さらに八歳も年下の落ちこぼれ王女を婚約者に望んだトーマは、そこまでして地位や名誉が欲しいのかと陰で言われていたことは、王宮の奥にいるジュリエッタの耳にも届いていた。

 冷遇されているとはいえ王女であるジュリエッタが降嫁される際には一代限りの公爵位も授かることになるだろう。


 しかし、彼は感染病の薬の開発だけでは終わらず、今もなお新たな薬を研究、開発し、国の発展に貢献している。落ちこぼれ王女と呼ばれていたジュリエッタの降嫁だけではもはや割に合わないだろう。


 彼が初めてこの離宮を訪れたのは、婚約が決まってすぐのこと。小さな花のブーケをお土産にやってきた。

 ジュリエッタが住まう離宮からは遠くに咲き誇る豪華な王宮の薔薇園や、高い木に咲くいくつかの花くらいしか見ることが出来なかったので、その小さな花束の可愛らしさに驚いた。外の世界を知るようになった今では、街の花屋で簡単に手に入るような花束であることを、ジュリエッタはもう知っているけれど。


 次に訪れたときは、たくさんの靴をお土産に持ってきた。

 サイズがわからなかったからだろう、サイズ違いのそれらはジュリエッタの年頃の少女が好みそうなパステルカラーの華やかな色やビーズの飾りのついた可愛らしい物ばかり。長いこと足に合う靴を与えられていなかったジュリエッタの小さな足に、その中の一つはピタリと嵌まった。

 夜空の星が散りばめられたようなその靴を履いた自分の足を、ジュリエッタは嬉しくて、日に何度も足元を見ては跳ねるように歩いた。

 サイズの合わなかった靴も、どれも綺麗だったり可愛かったりで、すべて貰って壁に立てかけて飾って、時折並べ替えて見たりする。


 その次に訪れた時は火打石を持ってきてくれた。部屋を暖めるための薪は定期的に届けられていたものの、火を起こす簡単な誰もが使える魔法をジュリエッタは使えなかったので、薪は薪のまま、燃えることはなかったのだ。

 トーマは丁寧に火打石の使い方を教えた上で、火の危険性をそれ以上に教えてくれた。面倒くさがらずにきちんと火の始末をするように、何度も何度も繰り返した。


 その次は、薬草臭いハンドクリームをお土産に持ってきた。前回、火打石の使い方を教えてくれた時に、ジュリエッタの小さな手にあかぎれがあることに気が付いたようだ。

 日々の食事は定期的に届けられ、サイズの合わないぶかぶかのワンピースも年に数枚、季節ごとに渡されていたが、離宮に備え付けられた浴室に湯が張られることはなかった。

 幸い、離宮の庭から少し歩いた先に井戸があったので、水に困ることはない。ジュリエッタはそこで水を汲み、身体を清めたり数枚のワンピースを洗ったりしていたので、その小さな手は水が冷たい季節には荒れてしまっていた。

 持ってきたハンドクリームをマッサージするように塗り込みながら、トーマは魔法について話をする。魔法の原理や使い方を、わかりやすく、興味深く。強弱の差はあれど、魔法が使えることが当たり前なこの世界では、わざわざ言葉にすることは少なく、感覚頼りだ。理論的なトーマの話は、どれもジュリエッタが知らなかったことばかり。


 婚約者が定期的に離宮の奥の第五王女を訪問するため捨て置くことができず、次第にジュリエッタの身の回りの世話が行き届くようになった頃、彼女はほんの少し、魔法が使えるようになっていた。

 今ではもう、薪に火をつけるために火打石を使うことはないし、洗浄魔法で衣類を清潔に保つことが出来るので薬草臭いハンドクリームを塗る必要もない。それでも、それらは今でも大切にチェストの上の飾り皿に置いたままだ。


 トーマが婚約者になった頃のジュリエッタは痩せて、こんがらがった長い髪を持て余している薄汚れた少女だった。

 髪も肌も人の手を借りて整えられるようになって、十九歳の年頃の女性らしい身体つきといえるまでになったのは、トーマが自分と婚約してくれたからなのに、とジュリエッタは成長した自分の身体を見つめる。


 そういえば、「愛している」はおろか「好き」も「かわいい」も言われたことがなかった。彼から贈られた最大級の誉め言葉は「よく似合っている」「いつの間にか立派になって」だろうか。


 穏やかに関係を育んでいたはずなのに、突然の婚約破棄の申し出があった、と思っていたが、そもそも、トーマにはずっと異性としてではなく、王女という身分でしか見られていなかったのか。


 ジュリエッタは姿勢を崩し頭を抱えたくなるところを我慢して、王女らしく美しい姿勢を保ったまま、忙しいトーマに会う約束を取り付けなくては、と離宮付の侍女を呼びつけることにした。


 トーマは婚約が整うと、毎日のように会いに来るときもあれば、仕事が忙しかったと、一月ぶりに顔を見せることもあった。それはたいていジュリエッタが住む離宮に彼が訪れる形で、前触れがないことも多かった。

 公務で外に出る以外は、ジュリエッタは王宮の片隅の離宮で日がな一日過ごしていたので、すれ違うようなこともなく、トーマが気軽に離宮に顔を見せるのも庭に小鳥が訪れるのとそう変わらない感覚ですらある。


 しかし、先日『婚約破棄』とやらを申し出て以来、トーマはジュリエッタが住む離宮に訪れない。

 なぜ? どうして? 突然の婚約破棄の通告に過去の自分の言動を思い返してみたり、年上の婚約者の気持ちを考えてみたりしたジュリエッタだったが、いっこうに答えは見つからないまま、二月以上たってもトーマからの音沙汰はなかった。


 予定に追われることのない、のんびり屋な末姫は、ここに来てやっと、自分から連絡をしなければトーマは会いに来ないのかもしれない、ということに気付く。


 これまでは夜中以外は好きな時にやってきて、朝露の中、散歩に誘われたり、汗を流しながら走ってきて、雨上がりの空に架かる虹を見上げたり、肌寒くなった日には温かな膝掛けを両手で抱きしめて来たというのに。


 ジュリエッタは侍女に命じてレターセットを用意してもらう。実を言うと、婚約者に手紙を書くのはこれが初めてである。

 ペン先をインクに浸し、考え考え、文字を綴った。何枚も便箋をダメにし、何時間もかけて書き上げた手紙は、結局、時候の挨拶もない、簡潔な物になった。


   トーマ・デュアル様


   会いに来てください。


   ジュリエッタ


 婚約破棄の理由を問うて、長々と返事をもらっても落ち込むだけだし、それより何より、ジュリエッタは穏やかな気の抜けた顔で笑う婚約者に会いたかった。


 手紙を侍女に渡して、なるべく早く彼に届けるように手配をしてもらう。それから一時間も経たずに清掃のためにやってきたメイドに、手紙の返事を預かっていないか聞いてみるが、今までそんな質問をされたことがなかったメイドは驚いて言葉も出ず、勢いよく首を横に振った。それからも訪れる数少ない使用人に、毎回手紙を預かっていないか問うものの、皆首を横に振るばかり。


 手紙を出して七日目、待ちくたびれて次の手紙を出すか、いっそ彼の職場まで押しかけてみようか考えていた頃、やっとトーマからの手紙が届いた。


 簡潔極まりないジュリエッタの手紙とは対照的に、その手紙は時候の挨拶から始まり、結びの文まで、貴族的な長たらしい物だった。

 普段ジュリエッタが接するトーマは、口数の多い方ではない。平民とそう変わらない生活をしていたという男爵家で育ったからか、貴族的な儀礼を知らないことも多い。


 まるで産まれた時から貴族みたいな、凝り固まった美しい手紙ですこと。


 ジュリエッタはやっと届いたその手紙になんだか腹が立った。自分が知っているトーマからの手紙とは思えないその文章に寂しくなる。それでも、十日後に王宮の一室でお茶の時間を一緒に過ごそうと誘ってくれたその手紙を、日に何度も読み返した。





 お茶会の当日、ジュリエッタは緊張していた。

 普段は王宮の隅の離宮の中に籠りきりで、そこから出る時は公務がある時くらい。


 この国の王族は代々魔力が多く、その魔力は国を護るための防衛や生活を便利にするための整備等に使用されるための魔道具に使われる。そのため、成人した王族は、魔力を貯めておける貯蓄玉に定期的に供給することが義務付けられていた。

 魔力とは個人差が多く、誰がどれだけ、と決められているわけではないが、国民に魔力を提供することが王族の大事な務めの一つとされている。


 そのため、魔力の多い側妃から産まれたジュリエッタだったが、魔力発動がうまく出来ず、魔力供給に向かないと判断され、側妃亡き後は、その存在は無価値な王女とされていたのだ。この国の王族は多夫多妻制が認められており、王子も王女もどの時代も十数人はいた。その中にはまれに魔力が少ない者がいたが、代わりの王子王女がいたため、たいていは離宮の片隅に捨て置かれることになる。ジュリエッタもその一人だった。


 トーマが婚約者となり、彼の教えでジュリエッタは次第に自分で少しずつ魔力を引き出せるようになり、安定して魔力を放出できるまでに成長を遂げる。十六歳で成人して以降は、十日に一度、離宮を出て本宮の貯蓄玉に魔力を込める公務をこなすようになった。


 あとは、十六歳で社交界デビューをしてから、僅かな公務で外出したり最低限のパーティーに出席する程度。しかも、それら全て、トーマが同伴してくれていた。


 いつも離宮まで迎えに来てくれていたトーマと会うため、ジュリエッタは侍女を連れ、本宮を進む。王宮で働く者であれば、申請すれば誰でも使用可能な応接室に着くと、すでにトーマがいた。難しい顔をして本のページを繰っていたが、戸口に立つジュリエッタに気付くと、いつもと変わらぬ笑顔で彼女を迎えてくれる。


「ジュリエッタ王女。来ていたのか。本に夢中で気付かず申し訳ない」


 こちらにどうぞ、といつものように自分の向かいの椅子を引いてくれる。


 いつも通りのトーマに、ジュリエッタはホッとした。婚約破棄と言い出したのは、嫌われたからではないのかもしれない。


 心が落ち着くようにジュリエッタがリクエストしたカモミールのハーブティーを飲み、二人の間に沈黙が落ちる。


「トーマ。先日のお話なんだけど……」


 変わらぬ微笑みを浮かべるトーマに、ジュリエッタは勇気を振り絞って問いかける。


「どうして婚約破棄をご希望なの? 婚約解消ではダメなの? いえ、婚約を辞めたいわけではなくて」


 二人の間の婚約を無くすだけなら、話し合って解消すればよい。しかし、婚約破棄とは、昨年隣国の王子が男爵の庶子の娘に夢中になり、幼い頃からの婚約者に罪を着せて婚約破棄を告げた、アレのことであろう。家格とか約束事とか全部投げ出して、一方的に婚約を破棄するアレ。


「姫の了承はいらないので、俺が一方的にこの婚約を終わらせたいんだ。これは立派な婚約破棄だよ?」


 再度はっきりと婚約破棄を告げられたジュリエッタは、そのまま意識が遠のいていった。カモミールでリラックスしている場合ではなかったわ、と変わらぬ自分の名を呼ぶトーマの声を聞きながら崩れ落ちた。





 目覚めると、ジュリエッタは離宮の自分のベッドの上にいた。窓から差し込む橙色の日差しに、今が夕方であることを認識する。

 部屋を見回すが、やはり、婚約者のトーマの姿は見えない。


 トーマは、ジュリエッタの了承はいらないと言った。ただ、この婚約を無くしたいのだと。


 薬師としてのトーマは優秀で、離宮で二人過ごしていても、急な呼び出しで仕事に戻ることもあった。

 かつては感染症の特効薬を作ったのは偶然であっただろうと、その実力を認められていなかったが、ジュリエッタと婚約している七年の間に、彼の実力は認められ、まだ二十代ながら国を代表する薬師とまで言われている。

 地位や名誉のためと言われた落ちこぼれ王女ジュリエッタとの婚約であったが、今では王族を娶る必要などないほど、トーマは地位も名誉も手に入れた。


 だから、だろうか。ジュリエッタとの結婚で得られる地位や名誉よりも、王族と結婚する事で生まれる様々なしがらみを重く感じるようになったのだろうか。


 落ちこぼれ王女と言われていたジュリエッタだったが、トーマのおかげで魔法を使えるようになり、王族の務めである貯蓄玉への魔力供給もできるほどになった。

 少しずつではあるが、公務で王宮の外にも出るようになり、婚約者がいるというのに、王族との関わり欲しさに求婚めいた手紙を送ってくる不届き者さえいる。


 王族でありながら、必要な魔力供給ができる見込みがないからと落ちこぼれ王女と言われていたジュリエッタ。

 しかし、その頃は幼さゆえに周囲と自分の環境を比べることなどせず、ただその事実を受け止め、与えられる僅かな物で生きることだけを考えていた。


 大人になった今は、もう落ちこぼれと言われることはない。王族の務めを果たし、衣食住は満たされている。ジュリエッタには与えられたその環境こそが当たり前で、幼い頃も、変化した今も、ずっとそれが当たり前だった。


 今回の婚約破棄の申し出を受けて、ジュリエッタはおそらく人生で初めて、強く失いたくないと感じた。それは自分の生活を変えてくれた男への依存か、いつしか育っていた恋心なのかはわからない。


 トーマが会いに来てくれた日は心が躍って、眠る前には彼の言葉を何度も思い出す。少女だった頃はハンドクリームを塗ってもらったり、足元が悪い時は当たり前のように手を繋いでいたのに、今では、ふいに指先が触れるだけで身体が跳ねてしまうほど、ジュリエッタは年上の婚約者を異性として意識していた。


 美しい女性に育ったジュリエッタの頭を「良く出来ました」と、あの大きな手はもう撫でてくれることはない。冷たく冷えた手を包み込んで吐息で温めてくれることも、もうない。


 恋をしていたのはわたしだけだったのね、そう思ったジュリエッタの瞳からは大粒の涙が零れた。一つ、二つと涙は零れて、次第にそれは滝のように流れて止まらなくなる。ジュリエッタは泣いた。しゃっくりを上げながら、子供のように。


 しかし、ここは王宮の隅の離宮。警護は万全で、王族が一人で部屋に籠っていても不安のない場所。定期的に訪れる使用人以外は近づかない、ジュリエッタの離宮。

 婚約者のトーマが来なければ、ジュリエッタの涙を拭う者など現れないのだ。


 目が腫れ、喉がカラカラになるまで、ジュリエッタは一人で泣いて、そのまま着替えもせずに布団に潜り込んで、眠って、目が覚めてはまた悲しくなって泣いた。


 時々訪れる侍女には、頭が痛いと言って、布団から顔も出さなかった。


 そうして、三日ほどジュリエッタは泣き暮らした。侍女が準備してくれた水差しの水と軽食を行儀悪くベッドの中で飲んで食べて、心行くまで涙を流す。


 ベッドからのそりと起き上がったジュリエッタは、部屋から出て、久しぶりに井戸の水を汲む。火打石を使って火を起こし、その水を竈にかける。湯が沸くまでの間、ベッドのシーツを剥いで洗濯桶に入れて、ワシャワシャと洗濯石鹸で洗う。あの頃使っていた物干し代わりの枝はもうないので、開け放った窓枠に洗ったシーツを掛けた。今日は心地良い風が吹いているので、きっと数時間で乾くだろう。

 沸かしたお湯をせっせっと運び、バスタブを湯で満たす。トーマがくれたラベンダーの石鹸で頭のてっぺんからつま先まで、丁寧に洗った。


 清潔な服に着替えて、ジュリエッタは髪も乾かさず、庭の大きな石の上に座る。まるで、トーマと出会う前の幼いあの頃のように。


 バスタブに張った水を一瞬で適温の湯に変えることも、濡れたシーツを乾かすことも、今のジュリエッタは魔法で簡単にできる。それどころか、魔力の多い王族の一員だけあって、清浄魔法の呪文を唱えるだけで、そのすべての工程をすっとばして綺麗さっぱりさせることが可能だ。


 トーマが婚約者に自分を選んでくれて、魔法を使えるように指導してくれて、少しずつ王族として世話を焼かれるようになって、それに慣れたジュリエッタだったが、久しぶりに重たい水を汲むことも、その水で洗濯をすることも、平気だと感じた。そりゃあ、大雨で外に出られない日や、何もしていないのに汗が流れるような暑い日は、どうしたって文句の一つくらい口にしてしまうかもしれないけれど。


 トーマに会えないことだけが悲しい。


 ジュリエッタは便箋に、以前と同じように一言だけ書いて、侍女に渡した。


 婚約してからの七年間を思い出して、ジュリエッタは信じることにした。自分の気持ちも、トーマの気持ちも。

 今のこの気持ちをトーマに伝えて、これまでに聞けなかったトーマの考えていることも、たくさん聞きたい。

 初めての恋を自覚したジュリエッタは、顔を上げて、前を向く。


 今度も手紙の返事が来るまで十日程度は待たなければならないだろうとのんびり構えていたジュリエッタの元に、返事はその日のうちに届いた。


 前回のような貴族らしい長ったらしい前置きはなく、簡潔に、日時と場所を指定された果たし状のような手紙は、几帳面な彼らしくない走り書きで。零れたインクもそのまま。


 指定された時間は明日の昼。場所は前回と同じ応接室。

 きっと忙しい仕事の合間の昼休憩を自分のために割いてくれるのだと、ジュリエッタは嬉しくなる。





 約束の時間より随分早く、ジュリエッタは応接室に入った。今度こそ倒れないようにと、目が覚めるよう濃く入れたミントティーを侍女にお願いする。


 約束の時間になったが、トーマは現れない。冷めたミントティーを飲みながら、ジュリエッタは待った。二時間ほどそうして待っていたが、応接室の次の使用者が現れて、部屋を後にするしかなかった。

 きっと仕事が忙しくて急に来られなくなっただけだ。ジュリエッタはトーマという男を信頼できる人間だと知っている。


 けれど、夜になっても、翌日になっても、トーマから連絡が来ることはなかった。





 ジュリエッタとトーマの婚約はまだ正式に解消されていなかったが、血筋を残すことが王族の務めでもある。王族の魔力だよりなこの国では、ことさらその傾向は強い。

 次の婚約者候補とやらに会うように言われたジュリエッタは目の前の男を見て、思わず微笑んだ。


 黒い髪に黒い瞳。あっさりとした顔立ちのトーマとは違い、意思の強そうな瞳に繊細そうな顔立ちではあるが、婚約者と同じ色合いの男に思わず嬉しくなってしまったのだ。


 一方的に婚約破棄したいと告げられ、約束も守らず、なんの連絡もくれなくなった。もう自分に会う気はないのだろう。振られたことはわかっているが、七年かけて育んだ恋心はそう簡単に消えてくれはしない。


「ご機嫌が麗しいようで良かったです」


 微笑むジュリエッタに、目の前の男はホッとしたようだ。これまで他国で魔力医療を学んでいたという男は研修のためにこの国に訪れたという。慣れない異国に戸惑うことも多くて、と笑う。


「今はどちらで研修していらっしゃるの?」


 お互い緊張していたことに気が付いて、ジュリエッタはなんだか安心して会話を続ける。


「医療現場に配属されるとは思うのですが、まだ正式に決まっていなくて、今は王宮の医療室付けです」


「患者さんは肩こりや頭痛の方々が多そうですわね」


「たいてい寝不足や運動不足が原因ですね。少し仕事を休まれてゆっくりと過ごされれば治りそうな方が多い気はします。ああ、でも……」


 言葉を止めて考え込む男を、ジュリエッタは無言で待った。


「三日前に魔力暴発を起こして運びこまれた男が先ほど目を覚まして暴れていましたね。優秀な薬師と聞いていたので話をするのが楽しみだったんですが、約束がどうとか言って騒いで苦労しましたよ」


 ジュリエッタの心臓が大きく跳ねた。


「その人は、今も王宮の医療室に?」


「ええ、鎮静魔法をかけて安静にさせています。しばらくはベッドの上で容体をみないといけませんから」


「ありがとう! さようなら!!」


 ジュリエッタはお礼と別れを告げて、走り出した。残された男のことは振り向きもしない。

 今、話に出て来たのはおそらくトーマのことだろう。

 絡みつくドレスのスカートを持ち上げて、はしたなく脚をだして、ジュリエッタは走った。


 王宮の中でも、決まった場所にしか行かないジュリエッタは迷いながらもやっと、医療室に辿り着いた。ノックもせずに勢いよく扉を開ける。


「トーマ!!」


 しかし、振り向いたのは高齢の医療師と腰を痛そうにさすっている男で、二人は突然現れたジュリエッタに驚いている。


「失礼いたしますわ」


 ジュリエッタはベッド毎に区切られているカーテンを勝手に開けていく。鼾をかいて寝ている男に、驚く女性に「間違えました、ごめんなさい!!」と告げながら、三つ目で仰向けに寝たまま目を大きく見開いたトーマを見つけた。


「トーマ!! トーマ!! トーマ!!」


 ジュリエッタは寝たままのトーマに縋りついてポロポロと涙を零す。


「魔力暴発を起こしたと聞いたわ。無事でよかった」


「調薬の魔法注入を失敗してしまって、恥ずかしいよ」


 鎮静魔法のおかげでほとんど動かぬ身体に力を込めて、トーマは腕を少し持ち上げる。久しぶりに大きな手で、ジュリエッタは頭を撫でられた。


「トーマ、大好きよ。わたしと婚約破棄をしてもいいから、わたしと結婚してちょうだい」


 トーマが無事で嬉しくて、頭を撫でてくれたことが嬉しくて、思わず結論を口走ってしまう。本当は、自分と婚約してくれたことのお礼を言って、トーマと出会えて変われたこと、トーマが自分には必要なこと、いつの間にか恋をしていたことを順番に伝えようと思っていたのに。


 ジュリエッタはトーマの手に頬を預け、潤んだ瞳のまま見つめた。顔を真っ赤にしたトーマは、口をハクハクと開けたり閉じたりを繰り返して、やっと言葉を紡ぐ。


「俺は、あなたに相応しくない。ただの薬師で、男爵家の出身で、平凡な容姿に、つまらない性格だ。美しく魔力も多い、立派な王族のあなたには、もっと似合いの男がいるはずだ。俺からの申し出の婚約破棄であれば、あなたは被害者で次の縁談にも支障はない。だから、俺は……」


 無言で自分を見続けるジュリエッタに、トーマはの声は小さくなる。


「俺は、ただあなたに幸せになってほしくて」


「わたしはあなたの隣で幸せになるわ。トーマはわたしが隣にいては幸せになれない?」


 トーマは緩く首を横に振る。ジュリエッタが自分の婚約者になってからずっと、トーマは幸せだった。彼女が少しでも笑ってくれると嬉しくて、どんなことでもしてあげたかった。


「じゃあ、わたしと結婚するわね?」


 小さな両手でトーマの顔を挟んだジュリエッタは、彼の返事を聞く前にチュッと口づけてしまう。逃がしてなんかあげない。わたしはトーマの隣で幸せになるし、彼のことも、絶対幸せにしてやるんだから。


「ストーリーが変わってしまう」というトーマの小さな呟きはジュリエッタの耳には届かない。聞こえたのは、囁くように言われた「好きだ」という一言。

 ジュリエッタはやっと手に入れた愛の告白に嬉しくて笑い声をあげる。


 自分を見つけて、生きる術を教えてくれた。魔法を教えてくれた。幸せになっていいことを教えてくれた。

 ジュリエッタはこの先、どんなことがあってもトーマの手を離さない。この幸せを離さない。


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