喫茶店『舞夢』の忙しない一日(オーナーの襲来(笑))
律子ちゃんとの話が終わったタイミングで、真樹ちゃんが作ってくれたパンの耳グラタン(のような物)が出来上がった。
真樹ちゃんのレシピは、パンの耳をトースターで加熱した後、ソテーした根菜類や鶏肉(ハムやベーコンでも可)と共にグラタン皿に放り込み、ホワイトソースとチーズをのせてオーブンでこんがりと焦げ目がつくまで加熱するという手の込んだものだ。パスタ用のミートソースを使ってラザニアっぽく仕上げるレシピも美味しい。
パンの耳をバターで炒めた後、グラニューとシナモンを塗してお手軽ラスクにしてスタッフのおやつになることもある。
律子ちゃんに接客を任せて、カウンターの隅に座ってコーヒーと共にパングラタンを美味しく頂く。
今日はクローズまでなので、夕食も店で済ます予定。ごはんが余っているようなら、ベーコンと玉ねぎのみじん切りを入れて、チャーハンでも作ろうかなって考える。
お昼の休憩は基本一時間。でも、お店の混雑状況によっては休みを取れないこともある。
どんなに混雑していたとしても、下の子達の休憩はしっかり取らせる。けど、自分は賄いを食べ終わったら、食材や備品の発注とか、諸々の事務作業を始めてしまう。
レジ台下の引き出しから出勤簿になっているノートを持ってきて、この三日ほどの勤務記録を確認。誰が、いつ、何時から何時まで働いたか、遅刻早退は無かったかチェックしてノートにまとめる。
このノートをオーナーが自宅に持ち帰り、三鍋家の資産管理を担当している娘さんに給料計算などの処理してもらっているのだ。
というか、今どきタイムレコーダーさえ導入されず、勤怠を手書きノートで管理してるのってうちの店ぐらいじゃないだろうか。
Windows95という初心者にも扱い易いパソコンソフトが出来て、今年度中に勤怠管理や経理処理が出来て、メニューやチラシなどが簡単に作れるパソコンが導入されるらしいけど、パソコンの使い方を勉強する時間も、パソコンを設置するスペースも無い。一番テーブルに間仕切り壁作ってもらって、事務専用スペースにして欲しいくらいだ。
諸々の事務処理をこなしてノート類を片付けたら、明日のモーニングサービス用の茹で卵を準備する。
大きな鍋に水を張り、常温で保管しておいた玉子三十個を入れて中火で火にかける。水が沸騰するまでは菜箸で鍋を搔きまわす。沸騰したら八分ほど放置。その間に大き目のボウルに氷入りの冷水を用意する。茹で終わった卵を穴あきオタマですくい上げ冷水に沈めて置く。こうすると、玉子の殻を剝く時に薄皮が剥けやすくなるのだ。
私の隣では、真樹ちゃんが小気味よいリズムでキャベツを千切りにしている。PAシフトの真樹ちゃんの休憩は十六時から。それまでは、オーダーされたメニューを作りながら、翌日の仕込みも進めてくれる。
キャベツを刻み、レタスはサンドイッチ用の柔らかい部分と、サラダ用の少し食感のある部分に選り分けて、それぞれの食べやすい大きさにカットしていく。
トマトは提供の直前に包丁を入れるので水洗いして、水気を拭き取ってから冷蔵庫に入れる。サラダにするには色味が良くないものはミートソースに加使う。
栄養士志望だけど、厨房に立つことの方が好きなので、受験資格に必要な経験年数を過ぎたら調理師試験にチャレンジするつもりでいるらしい。
お財布が許す範囲で、和洋中に拘りなく美味しいという評判のお店を訪ねるのが趣味で、その経験を元にして、新しいメニューを開発したいそうだ。
明日の仕込みは真樹ちゃんに任せ、パフェ用のフルーツに包丁を入れていると、入口扉のカウベルが鳴った。律子ちゃんと重なる声で「いらっしゃいませ~」と挨拶すると、入店してきたのは三鍋オーナーだった。
三鍋オーナーは御年七十歳。年齢の割に背が高く、お洒落でダンディなことから、夜の街のお姉さん達の間で人気なのだそうだ。
三鍋オーナーの家は、元々、この辺りでも大きな農家だったという。でも戦後の農地改革の関係で土地を手放すことになり、かわりに燃料を扱う商店を立ち上げて、今ではガス会社、ガソリンスタンド、不動産管理、飲食店と商売の手を広く伸ばしている。
オーナー自身は、自分の子供達それぞれに仕事を任せて半ば引退状態なのだが、遊んでると呆けると言って、地元のロータリークラブに自治会、地元神社の氏子の取り纏めや小中学校の役員まで、いろいろなことに首を突っ込んで、多忙な日々を過ごしている。
太平洋戦争で招集されたときに、同じ部隊に私の習字の師匠が配属されていて、戦後も戦友会の関係で交友関係が続いていた。
舞夢の面接の時に、将来は書道の教室を開きたいと夢を話したところ「知人に書道の先生がいるよ」と紹介されたのが今の師匠だ。そういう経緯もあって、私は公私にわたってオーナーに世話になっている。
「今日は忙しすぎて、まだ昼飯を食ってないんだわ。真樹シェフ、なんか美味いもの食わせてくれよ!」
オーナーはカウンター越しに厨房の真樹ちゃんに声をかける。
店に入って最初に言うのがそれかいっ! 私の傍らに立つ律子ちゃんが、小声で突っ込みを入れるけどオーナー本人は聞こえていないようだ…… 今日は銀行やら不動産屋さんやら建設会社やらと忙しく飛び回っていただろうから勘弁してあげてほしい……
「オーナー、新作賄いのパングラタンなんてどうです?」
パンの耳は、まだ四人前くらいは残っている。オーナーが消費に協力してくれると、とても助かる。
「パングラタン? どんなもの? 美味いのかん? 俺は米食いたいんだけど……」
カフェオーナーなのに、パンより米ってどうなのよ? 再びの律子ちゃんの小声での突っ込み。やめて、笑わせないで……
「食パンを賽の目に切ってトーストして、炒めた具材をグラタン皿に入れて、ホワイトソースとチーズかけてオーブンで焼くんです!」
「それでグラタンか」
「はい、ホワイトソースは業務用の缶詰使うんで、原価を安く抑えられます。夕方から限定十皿までとかやれば、人気出ると思いますよ?」
「ふーん じゃあ食べてみるか」
「はーい ベーコンと鶏むね肉入れてつくりますね」
男性には鶏むね肉だけだと物足りないかもしれないからね。
「オーナー、一番テーブル空けてありますよ」
「おお、そうか。律子ちゃん、グラタンにアイスコーヒー大盛り追加してな~!」
「……どんぶりでお出ししますね」
二号店の情報を止められている律子ちゃん。オーナーへの意趣返しで、本当にどんぶりアイスコーヒー出しかねないから怖いわ……