喫茶店『舞夢』の忙しない一日(律子ちゃんの不安)
今までにも何度か律子ちゃんと真樹ちゃんから「二号店の店長になるんですよね?」と聞かれたことが有った。その度に、オーナーから正式に話が来てないと曖昧に答えてきた。
オーナーから二号店に関する情報を口止めされている以上は、二人に今後のことを不用意に話すわけにいかないからだ。
「二号店の店長にって話はきたけど、まだ、受けるかどうか迷っているよ」
私がそう答えると、律子ちゃんは、また、はぐらかすのかとでも言いたげに、大きなため息をついた。
「私と真樹ちゃん、オーナーから去年の秋に新しく店を出す計画が有るってを聞いたんです。その店でカフェ経営のノウハウを集めて、フランチャイズって形で店を増やす計画だから、二人とも社員になって会社を大きくするの手伝えって言われました。バブルはじけてから、うちみたいな女子大だと、就職活動でちょっと名の知れた会社を受けても、書類選考か一次面接でお断りされて、結局、縁故か非正規でしか就職出来ないんです。」
律子ちゃんは、ちょっと早口で今の就職活動の事情を教えてくれた。彼女達が通う大学は名門とはいかないまでも、地元では名の知れた女子大なのだが、それでも希望の会社に門前払いされちゃうんだ……
「私は、将来、自分の会社を立ち上げたいから経済とか経営の勉強してきたのに、バブルがはじけて、希望する業界の会社に入るの絶望的で…… どうしようかなって考えてた時にオーナーにカフェチェーンの立ち上げの中核メンバーになれって誘われたんです。で、その気になって次の展開待ってるのに、その後は具体的な話が全くなくて、聞くタイミング計りかねて確認出来てないんです。もし二号店とチェーン展開の話が、まだ何年も先の話なら、待っていられないので、就職活動を始めますよ。さすがに大学出してもらってカフェのバイトじゃ、親が怒りますもん」
「オーナー、夜、店に顔を出すでしょ? その時に話できなかったの?」
オーナーは、最低でも日に一度は店に顔を出す。日中のアイドルタイムに来ることもあれば、閉店間際にくることもある。その時に話すタイミングはなかったんだろうか?
「美奈子さんも、伊藤さんもいない時、店長の機嫌が悪いと、ちょっと仕事に関係ない話をしただけで怒鳴られますよ。オーナーが来るのはクローズの準備で忙しい時間だし、オーナーに話しかけたら店長にキレられちゃいますから」
「・・・・・・」
前々から遅番にはいる子たちに愚痴られてきた店長の態度が悪すぎる問題。オーナー交えて話ををして、幾度も態度を改めるように言ってきたけど全然改善されない。話し合いの後、しばらくはおとなしくしているけど、一週間もすると元の木阿弥なのだ。
「前に、伊藤さんに二号店の話を聞いたら、美奈子さんを二号店に持ってかれちゃうと、この店が廻らなくなるから、二号店を三鍋店長に任せて、美奈子さんがこの店の店長になるんじゃないのって言ってました。私、三鍋店長と働く気ないですから」
店長はオーナーの末息子だ。元々、どこかの飲食店で調理の仕事をしていたけど、人間関係が上手くいかずいくつかの店を転々とした後、一年程、引きこもり生活を送っていた。見かねたオーナーが、雇われ店長という形であっても、自分の店を持てば人間的に成長するんじゃないかと考え、舞夢』を任せることにしたという裏話がある。
でも経理はオーナーにお任せ。スタッフの管理や食材・備品の管理は私に丸投げ。正直なところ店長らしい仕事は一切してないのが実情だ。
そんな人が新しい店の店長になっても破綻するのは目に見えている。
結局のところ、律子ちゃんの不安は、すべてオーナーのコミュニケーション不足が原因だ。口止めされているからって言ってる場合ではないわね。
「二号店の話は進んでいて、一宮インターの近くでよさそうな土地が見つかったの。今週のどこかでオーナーが銀行に行くっていってたわ。今日、顔を出すのはそのことで何か進展があったからだと思うの」
「美奈子さん、やっぱり聞いてたんですね?」
「二号店の出店は、店長は大反対。伊藤さんも乗る気はなさそうね。オーナーは話を聞いてくれる人が欲しいのよ」
「やっぱり、伊藤さんも賛成してないんですね?」
「伊藤さんはオーナーの親類だし、私が二号店に移ることになったら、シフト作りとか時間帯責任者をやらされるでしょ?」
今はABシフトがメインだけど、私がいなくなったら、長時間勤務のAAやACに入らざるを得なくなる。
「なんか、そんな雰囲気は感じてました…… でも、本当に美奈子さんはどうするんですか?」
ここで曖昧に答えても追及は激しくなる一方だろう。それなら、ちゃんと今の気持ちを彼女に伝えた方が良い。
「二号店の店長の話を受けたら、今以上に仕事にどっぷり浸かることになりそうで怖いってのが本音かな。元々は習字教室の先生になりたくて、舞夢には腰かけのつもりで入ったけど、調理ができて、他の子達よりもお姉さんだったから時間帯責任者任されて…… なんとなくやってきたけど、やっぱり、将来、習字の教室を開く時のために、習字の勉強を進めて、資格を取りたいのよ」
習字教室の先生になるだけなら、別に資格は必要ない。実際、街の書道教室の講師で毛筆書写技能検定一級を持っている人はそう多くないだろう。流派の師範の認可状をもっていれば十分なのだ。
それでも私は師匠と毛筆書写検定一級を取ることを約束した。それを違えたくない。
師匠は年齢的に、それほど遠くない時期に書道家としての活動から引退するだろう。
教室の場所を変えるにしても、今、師匠が主催する教室で、講師として指導を担当している生徒のことは引き続いて教えていきたい。今でも忙しすぎて勉強がたりないし、教室を引き継ぐ準備もまったく出来てないのだから、二号店の店長を受けてしまったら……
「美奈子さんが店長になってくれるなら、全力で支えますよ。この店が大変なのは、ランチタイムに定食を出しているからで、カフェメニューだけなら、仕込みだってそれほど大変じゃないですから。ガスコンロの数増やして、パスタの茹で機も入れて、食パンとかも今みたいに自分のところで切るんじゃなくて、切ったもの納品してもらえばいいんですよ。味に影響がないところは効率化しましょう」
私たちの話を、聞くともなしに聞いていた真樹ちゃんが後ろから声をかけてきた。
チェーン展開の事を考えるなら、必要のない過度の拘りは捨てるべきだとは私も思う。
「美奈子さん、立ち上げから二年だけお願いします。その間に、店長の仕事を代行できるように勉強しますし、美奈子さんの後継者を見つけて育てますから」
二人の言葉に、私は曖昧に笑うしかなかった。