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喫茶店『舞夢』の忙しない一日(開店準備)

 午前四時四十五分。

 ベッドサイドのステレオがタイマーで起動して、ピチカートファイブの『東京は夜の七時』が流れ始める。

 朝っぱらから夜の七時も何もあるかいって突っ込みを入れたくなるけれど、この曲の能天気でポップな感じが目覚ましアラームにはちょうどいい。


 今日の勤務は地獄のACシフト。十五時間拘束コースだ。

 五月下旬ともなれば、こんな早朝でも外はそれなりに明るい。カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。

 昨日の夜の天気予報だと今日の天気は晴。最高気温二十四度と夏日一歩手前。

 気温が二十三度を超えるとアイスコーヒーのオーダーが増える。うちの店では、メーカーのリキッドタイプを使っているだけなので準備は簡単だ。ただ、氷を多めに準備して絶やさないように意識しないといけないし、グラスを冷やす手間が増える。心の中のメモ帳に<冷コー多めに準備>と記録する。


 ベッドから抜け出してキッチンに行き、まずは薬缶でお湯を沸かす。

 朝食はお店に出勤してから適当に済ませるので、自宅では紅茶を一杯だけ飲む。

 名糖レモンティーの缶を開けて、中学生の頃から使っているウッドペッカーが描かれたマグカップに気持ち多めの粉末とお湯を入れる。少し甘めのレモンティーは身支度を整えている間に飲み頃になる。


 飲食店勤めなので、お化粧は控えめに。手指の爪を伸ばすのも厳禁。セミロングの髪はバレッタでまとめて一束に。

 お化粧も髪の手入れも楽に済ませられるのはよいのだけれど、アルバイトの子達には、もう少しお洒落してくださって言われてしまう。

 そういう時には、看護婦だった母親も、華美な装いよりも清潔感優先だったから、金井家の女はこういうものだと言い張ることにしている。まあ、化粧品にお金をかける余裕もないしね……

 レモンティーを飲みながらテレビのニュースをチェック。お客様との会話の中で時事ネタを振られる事もある。〔細かい内容は判らなくても、世の中の動きをチェックしておくのは大切だ。〕とはオーナーの言。

 まあ、お客様との会話のキャッチボールの都合上、中日ドラゴンズの勝敗は把握しておかないとダメかなとは実感している。去年は巨人と優勝を争ったけれど、今年は一転して負けが込んでいて、高木監督が任期途中で交代するって噂もある。常連のお客様には熱心なファンも多いからドラゴンズにはがんばって欲しい。ニュースはオウム真理教関連のニュースが大半を占めている。事件の実行犯が逃げているせいで、警察関係者のお客様は何かと忙しいらしい。


 五時四十分に家を出てお店へ。

 市民会館から郵便局へ抜ける道には、工事に使う資材を乗せた大型トラックが路肩に停まっていて、自転車だとちょっと走りにくい。

 今、お店の近くではいくつかの大きな建設工事が進められている。もともと有ったユニーの物流倉庫の隣にアピタという大きなショッピングセンターを建設中。来年には完成する予定。

 そして、私が住む国分団地の隣には大きな分譲マンションが数棟建つ予定。

 お店や私の家がある地域は、尾張の国の国分寺跡まで徒歩で15分くらい。

 近くには矢合観音と呼ばれる十一面観音菩薩像を祀る祈祷寺というお寺もある。

鉄道が通る前は、名古屋の熱田神宮の近くにあった宮宿を起点にする美濃路という街道が通っていたおかげで、昔から栄えていた場所と言っていい。

 市役所、警察署、郵便局、そしてユニーの本社。工事が進んでいるアピタと大規模マンションが完成すれば、いまよりも賑やかになっていくのだろう。この場所に舞夢を開業したオーナーは先見の明が有ったのかもしれない。


 裏通りから幹線道路に出て稲沢警察の角を右折。

丁度、パトカーが警察署に戻ってきたところ。歩道を走る私の自転車の為に一旦停止。何の気なしに運転席のお巡りさんを見てみれば常連さんだった。勤務終わりに立ち寄ってくれたら、トーストを一枚サービスしてあげましょう。


 家から五分程でお店に到着。鞄から鍵を取り出して厨房側の入口から店に入る。

 経費節約を重視している店長は、閉店後、厨房の換気扇を止めてしまう。グリストラップに溜まっている排水から微かに漂ってくる独特の匂いが鼻の粘膜を刺激する。この匂いには、いつまで経っても馴れない。

 厨房と客席カウンターの照明をつけて店内をざっと見渡す。本日も異常なし。厨房の冷蔵庫も異常なく稼働中。

 去年、夜中に停電が有って冷蔵庫の電源が切れて食材がダメになった事があったので確認は大事。

 営業に支障が無い事を確認したらロッカー室で着替え。今日は午後から厨房に立つので、上下とも紺色のシェフスタイル。

 厨房に立つスタッフは紺色のシェフスタイルにベレー帽っぽいデザインのコック帽。フロア担当は白シャツに黒のフレアスカートにエプロン。エプロンの胸のあたりに珈琲豆とサイフォンがワンポイント刺繍されている。

 刺繍は、数年前にお店を卒業したデザイナー志望のスタッフがオーナーに頼まれて作ったオリジナルデザイン。お店の看板や、コーヒーチケットの表紙にも印刷されている。


 制服に着替え終えたタイミングで、ABシフトの伊藤さんが出勤。

今日は十時に律子ちゃんが出勤するまで、二人で回さなければならない。


「みなちゃん おはよう 今日は通しだったっけ?」


「おはようございます 地獄のACです 伊藤さん代わってくれますか?」


「ん~ 絶対無理ね ACなんてやったら 明日は出勤できないわよ!」


「私 明日も出勤なんですけど」


「みなちゃんはまだ若いから大丈夫よ」


 伊藤さんとそんな軽口を交わしながら、珈琲豆と水をコーヒーマシンにセットする。


 二人そろったところで、まずはモーニングセットの準備。

 うちのお店では、食パンは二斤が連なった状態で納品される。それを、トースト用は五枚切り相当、サンドイッチ用は八枚切り相当にパン用ナイフで切りわける。

 それなりに熟練の技が必要で、オーナー曰くパンの切り口を見れば誰がカットしたのか簡単にわかるそうだ。

 両端の外皮は、玉子サンドの種やハムの切れ端を挟んでサンドイッチにしてスタッフの賄いになる。

とりあえず、トースト用を三十人前。サンドイッチ用を二人前用意する。納品の段階でそれぞれの厚さにカットされていれば手間はかからないんだけどね..

 私がパンをカットしている間に、伊藤さんは昨日の昼のうちにカットしておいた野菜を木製のサラダボウルに盛り付けて、八つ切りにしたトマトを乗せる。


 愛知県は他の地域に比べモーニングサービスが充実している。

 珈琲や紅茶などのドリンクメニューを頼むと、無料で(名古屋の中心部とか土地代が高い場所は五十円とか百円とかの低価格で)トースト、ゆで卵、サラダ、デザート等がついてくる。

 うちも内容はほぼ同じで、トースト半分にゆで卵、キャベツやレタスの千切りにキュウリ又はトマトを乗せたサラダ、それに季節のフルーツが付く。

 モーニングサービスの発祥は舞夢がある稲沢市のお隣の街である一宮市だと言われている。ただ、私が生まれ育った街である豊橋市だという説もあって、本当の発祥の地は定かではない。

 珈琲一杯が三百五十円(コーヒーチケットを使えば実質三百二十円)。それに原価だけでも六十円弱かかっているモーニングセットを提供すれば、正直なところ儲けは雀の涙だ。お店側の負担は大きい。

 でも、モーニングサービスの内容がお粗末だと、主な利用者である地域のお客様の間で「ケチっとる」と悪評が立ち、お店が立ち行かなくなるので、近隣のお店に準じた内容を維持する必要がある。

 野菜や果物が高い時には少しでもコストを下げるために、サラダはマカロニサラダやポテトサラダに変更したり、デザートは学校の給食で出てくるようなゼリーやプリンになったりもする。


 モーニングセットの仕込みは六時半過ぎに終わった。

 お試しドリップしておいた珈琲を飲みながら、ランチの仕込みの確認をする。


「伊藤さん。今日のランチ、生姜焼きと鯖味噌煮でよかったですか?」


「肉は生姜焼き。魚の方は、おろし煮に変更する。」


「小鉢は?」


「小松菜煮びたしで。」


 ランチメニューの決定権は伊藤さんがもっている。

 一応は毎週金曜日に、店長と私と伊藤さんで翌週のメニューの打ち合わせをしているけど、結構な割合で当日変更が発生する。


「伊藤さんの鯖味噌美味しいって愉しみにしている人多いのに。」


 普段はお肉メニューの方が先に完売するけれど、鯖味噌の日には、魚メニューの方が先に完売する。


「おろし煮の方が手間かからないからさ~」


 まあ、ランチタイムが始まる十一時までに、肉メニューと魚メニュー合せて四十人前を、ほぼ一人で仕込むのは大変だものね。

 

 お店の開業前の想定では、ランチタイムに提供するのは、パスタやサンドイッチやカレーライスといったカフェメニューを想定していた。でも、営業を開始してみると、和風な定食を求めているお客が多いことが判った。

 舞夢がある市役所の近辺には、歩いて行ける範囲に飲食店は多くない。

 自宅からお弁当を持ってくる人。

 仕出し弁当を注文する人。

 出勤途中のコンビニ等で買ってくる人。

 自宅が近い人は食べに帰る事もある。

 そんな状況の中で、昼休みくらいは職場から出たいという外食派の人たちにとっては、うちの店の開業は渡りに船だったのだろう。ランチタイムに来店されるお客は予想以上に多かった。

 でも、毎日、カフェメニューだと飽きてしまう。

 昼飯はやっぱり定食っぽいものが食べたい。

 メニューを選ぶのが面倒だから日替わりのお薦め定食なんてあるといい。

 肉か魚かを選べると最高。栄養バランスも大事だから小鉢は野菜をつけて

 そんなリクエストに応えていたら、豚の生姜焼きと鯖味噌煮が美味しいと評判になるカフェダイニングが誕生してしまった。

 まあ、嬉しい誤算ってやつにしておきましょう。


 立地条件によって客層は違うから、どんなメニューを提供するかは決まってないけれど、計画中の二号店でもランチサービスを実施する予定だ。現状、伊藤さんにおんぶにだっこ状態の仕込み体制ではリスクが大きすぎるので改善しないといけない。問題が多すぎて小さなため息が出てしまう。


 六時五十五分。幹線道路側の駐車場入り口のチェーンを外して脇に寄せる。すぐに常連さんの白い乗用車が入庫してくる。

 市役所側の道路を見てみると、バス停に停まった矢合観音行きの路線バスから降りた数人の男性がお店に向かって歩いてくる。

 開店時間には数分早いけれど、喫茶店『舞夢』営業開始です。

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