喫茶店『舞夢』の忙しない一日(出会い)
幸いなことに、フェンスにぶつかった衝撃の大きさの割には、フロントガラスも助手席のガラスも割れたりしていなかった。
私はシートベルトを外し、左手を伸ばして天井のルームランプのスイッチを入れた。豆電球のようなオレンジがかった頼りない灯りが車内を照らし出す。
ぱっと見たところ、助手席側のダッシュボードの上に置いてあったぬいぐるみが床に落ちたこと以外には被害はなさそうだった。
律子ちゃんもルームランプに照らされた範囲には怪我をしている様子はない。
「律子ちゃん大丈夫? 痛いところない?」
さっき呼びかけただけでは反応がなかったので、今度は右肩を少し強めの力で叩きながら声をかけた。右肩に触れると、彼女は一瞬ビクッと身を強張らせ私の方を振り返った。事故のショックから立ち直れていないのか、律子ちゃんの瞳はなんだか焦点が合ってなくて涙を滲ませて潤んでいた。その瞳の中に映り込んだルームランプの光が反射して、以前、プレゼントで貰ったヘリオドールのネックレスの輝きに似て美しいと感じてしまった。
「どこかぶつけたりしてない? 痛いところ本当にない?」
「うん、大丈夫……」
いつもは割とはっきりとした話し方をする律子ちゃんだけど、まだ心に余裕がないのか、なんだか小さな女の子のような喋り方になっていた。
「怖い思いさせちゃってごめんね。でも、ハンドル切らなかったら正面からぶつかっていたから……」
別に言い訳をしなくても良いのだけれど、自分の運転で事故を起こして律子ちゃんに怖い思いをさせてしまったのだ、ちゃんと彼女に謝りたかった。
「美奈子さんが悪い訳じゃないから謝らないでください。っていうか、センターライン越えてたの向こうだし、完全にぶつける気でしたよね」
相手のトラックは、私たちの車が壁面に衝突して止まった事に気が付かなったのか、それとも気づいたからこそ不味いと思ったのか、そのまま走り去ってしまっている。
困ったことに、事故を起こした場所は市街地から結構距離がある辺鄙な場所。警察に通報するにも公衆電話があるコンビニまで二十分ほど歩かないといけない。しかも地元民の律子ちゃんをもってしても正確な住所は判らないのだ。新幹線の高架沿いの道を大里駅方面に五分ほど走ったところにある橋を越えたあたりって説明でパトカーがたどり着けるんだろうか?
ふいに車内が明るくなった。いつの間にか近づいてきていた後続の車が、私たちの車のすぐ後ろに停まって、ヘッドライトをハイビームにしたようだった。
「美奈子さん、とりあえずハザートランプ点けた方がいいですよ」
律子ちゃんに促されて、私はハンドルの近くにあるハザートランプのスイッチを入れる。コンソールパネルのウィンカーランプがカチカチという動作音と共に点滅を繰り返し始める。
「え~っと、事故を起こした時にやるべきことは……」
「二重事故を防止するために、ハザードランプをつけて、車の後ろに反射板をおいて、車から少し離れた場所で発煙筒を焚いて周囲に知らせる……でしたっけ?」
免許を取って七年。この車に乗るようになって三年。大きな事故にも故障にも見舞われる事が無かったので、反射板も発煙筒も車のどこに積んでいるのか分からない。私は再びプチパニックを起こしそうになった。
私の狼狽ぶりをみた律子ちゃんが、うちの車だとトランクの下にあるスペアタイヤと一緒になってますけどとヒントをくれたけど、この車にトランクスペースなんてない。
「軽って、スペアタイヤどこに積んでるの?」
「わからないですけど、後ろの扉開けて床めくったらあるかも……」
そんな言葉を交わしていたら、運転席の窓がコンコンとノックされた。
「事故ったみたいだけど、怪我とかしていないか?」
声をかけてきたのは、ぼさぼさの長めの髪を無造作に後ろに流して、ブルーのタオルをバンダナのように巻いて、伸びきった無精髭が顔半分を覆っている、どことなく熊を思わせるような風貌の中年男性だった。多分、後ろに停まっている車のドライバーだ。
運転席に座った状態で彼を見ると、私は彼を見上げるような形になる。少し屈んだ姿勢だけれど、目線の高さから結構背が高い人のようだ。後ろから照らされるヘッドライトの光が彼の彫の深そうな顔に陰影を与えていて、ぱっと見るとシルベスター・スタローンが演じたベトナム戦争からの帰還兵に似た印象を覚えた。
わざわざ車を停めて、事故を起こした車を助けようとしてくれているのだから良い人なんだろうけれど、彼の風貌が私を怯えさせ、窓を開けるのを躊躇わせた。
「はい。乗ってる二人に怪我はありません!」
私は彼に聞こえるように大声で答える。
「そうか、なら良かった。とりあえずエンジンを切って、二人とも降りて車から離れた場所にいた方がいい。あと、ライトはハイビームにしておいて、発煙筒と反射板を車から出して、前と後ろに置こう!」
事故を起こしてからのわずかな時間にも、対向車線を四、五台のトラックが走り抜けていった。又、センターラインを越えて走ってくる大型トラックがいるかもしれない……
「美奈子さん、とりあえず車から降りましょう!」
「そうだね」
ここは男性の言うとおりに行動した方がよさそうだ。
私たちが車から出ようとゴソゴソ支度を始めると、男性は車の後部ドアを開けるように促してきた。言われるがままにシート横のレバーを引いて後部ドアのロックを外すと、彼はドアを開け、馴れた手つきで荷物置き場の床のカーペットを剥がし、床板をどけると三角形の反射板を取り出して組み立て始めた。その手つきに迷いはなかった。
助手席の扉は二十センチ程しか開かなかった。私が下りた後、律子ちゃんが苦労して運転席に移って、やっとの思いで車内から脱出する事ができた。狭い道路には車の横に私たちが立つスペースは無い。少し迷ったけれど、私たちは車の前側に移動した。
あらためて自分の車を見る。トラックを避けるために左にハンドルを切ったことで、新幹線の高架を守るフェンスに激突。左側のヘッドライトから前輪にかけてバンパーとフェンダー部分が割れたり大きく凹んだりしていて、割れたヘッドライトやウィンカーのカバーが散乱している。その上前輪は側溝に落ちた状態。ボンネットも波を打っている。これは修理すればものすごい金額になりそうだ。一応は車両保険に入っているけれど、下手すると中古車を買ったほうが安くつくかもしれない。
「発煙筒はあった?」
ふいに男性に声をかけられた
「すみません、どこにあるかわからなくて」
確かに反射板と発煙筒を置こうっていわれたけど、車から出ることに気を取られて発煙筒を探すのを忘れていた。
「ああ、多分、助手席の足もとにあるとおもうんだけど」
君らはもう少し離れた場所に移動して。彼はそう言い残して運転席に乗り込んでいった。
同乗者の律子ちゃんはともかくとして。事故を起こした当事者である自分がまったく役に立っていない事に罪悪感を覚えてしまう。




