52 ぬらりひょんの雲隠れ
翌日になると、ぬらりひょんが、どこの病院に行けばいいかと聞いて来た。
「山が一つあって、丘を越えて三分ばかり車で走って、平らな所から海の臭いのする方に向って十分くらい走ると着くんだけどなー、道順が分からないんだよー」
こんな感じに教えてあげて、迷うといけないから途中でペロン星人と待ち合わせるようにしてやった。
あの病院には、以前紹介してもらった城嶋医師が勤務している。
「先輩の仕事を見て、しっかり勉強してちょうだいね」と付け加えたが、性格が真反対の二人は上手くやって行けるだろうか。
まったく連絡しないでこっちの病院に来てしまったから、やっちゃんが心配していると思い「ぬらり君は預かっているから、身柄を受けたいなら一億持って診療所に来い。警察には絶対に言うなよー。言ったら御前の恥ずかしい動画をネットで流すからな」
軽く連絡を入れてやった。
するとあいつはいつでも短気だから「ふざけてんじゃねえよ、あれでも必要な医者なんだから帰って来るように説得してくれよ」
生意気にも、俺がふざけていると決めつけて抗議する。
「んー、無理!」と告げてやった。
俺もはっきりとどこの病院か知らない。教えようがないだろ。
近況報告代わりに、ぬらりが病院で元気そうにしている動画を送ってやった。
ここに来たばかりの時より、顔色もずっといいし、やる気もある。
この動画を見て、やっちゃんがクレームをつけてきた。
「ぬらりひょんを変な薬の人体実験に使ってんじゃねえのか、目がぶっ飛んでるだろう」
心配していた人間が活気に満ちた生活をしているのを見ても、こんな事しか言えないんだな。
ボキャブラリーの数は、幼稚園児の域にさえ達していない。
「活きゝしてるとか、輝いているとか言えないかな」
すると、今度は俺を信用出来ないとまで世界を疑い始めた。
とやかく騒いで「ぬらりの居所を教えろ」ときたから、住所を教えてやった。
嘘つきペロンの事だ。
まともな表記はしていないだろうと確認してみれば、そこは畑のど真ん中だった。
そんなこんなの騒動が治まり一週間ほど。
山城親分が、銚子の私学にいる子供達の精神ケアをしていたぬらりの替わりに、城嶋を銚望医院に行かせると知らせてくれた。
あの病院と親分がどういった関係かまでは聞けなかったが、たいして実入りのないシマでも山城組がどうにかこうにか息ついていられる理由が絡んでいそうだ。
詳しく知りたくなってきたから、何とか理由をつけて親分をおびき出せないか思案する。
ここのところ体調が悪いから無理強いができないし、簡単に話してくれるようなたまではない。
組が絡んでいるならね口の軽い貫太郎も知っていそうだが、あいつは超がつく御気楽だ。
事情の内容を総て理解してるとは思えない。
妙案が浮かばないまま盆暗していると、朱莉ちゃんがせっせと自分の部屋を片付けている。
物を動かすと、どこに何があるか分からなくなるから、置かれた本やノートはきっちり乱雑にされていた。
これをペロン星人に渡したみかん箱に詰め込んで、近所の学生寮に住む連中が運び出すと、軽トラックに積み込んでいく。
ひょっとしたら、厭らしく貯めまくった大学生に引っ掛けられて、今日から同棲しますなんて言い出すのではないかと心配になってきた。
「なにしてるの?」
正直な気持ちで聞けないから、何気なく。
たいして気にしていないんだけ、どちょっとだけ知りたいなといった素振りで問い掛けて見る。
「やっだー、ヤブってばー。心配してるー。同棲なんかしないよ。研究資料を大学に送るだけだよ」
小学生相手に教えている塾の先生が、大学に研究資料とは奇態な……。
「何の研究してたのかな」
ノートを広げて見ると、まったく理解出来ない数字がぞろぞろ並んでいる。
「いろーんなこと」
広げたノートをさっと取り上げて箱に入れ。
「暫く帰って来ないけど、ペロンさんの所だから心配しなくていいよ。あと、火事とか地震とか雷とか台風とか色々あると思うけど、診療所にいれば大丈夫だからね。避難しなくてもいいよ」
慌ただしく話終えると、そのまま彼女はトラックに乗って去って行ってしまった。行って行ってしーまったー。
変な事をいっぱい言ってはぐらかして消えた。
やっぱり同棲だ。
同棲ではなく、ペロンの家にいるのが本当だとしても、それはそれで尚更由々しき事態である。
親はなにをしているんだ。許しちゃったのかよ。
ビニールハウスの戸を開けて外へ出ると、軽トラックが走って用水路に掛かった橋の先から四つ角を左に曲がって見えなくなった。
方角からすれば農大や国際大があるが、必ずしもあそこの学生とは限らない。
それに、荷物運びと運転を手伝っていたのは女子大生だった。
だからといって、同棲の可能性を否定する根拠にはならない。
壁一枚隔てて隣りは男子寮なんてアパートも、何軒かあると聞いている。
ペロンが手引きしていたりしたら、もっと状況は悪い方に向っているに違いない。
朱莉ちゃんの事が心配ではないのか、そこんとこどうなってるのよとキリちゃんをチクチク責める。
すると「あの娘の好きにさせておけばいいのよ」と言い退ける。
流石だ。
超一流のスナイパーを旦那に持って十数年。
気付かず生活していただけある。
肝っ玉の座った母ちゃんだ。
実の親がこれで良いと言うのなら、なにをかいわんや、
しかし、これでいいのか……。
朱莉ちゃんが出て行った翌日、今では道だか庭だか区別のつかなくなった私道を隔てて、真正面にそびえ立つ有朋組の二階屋がいくらか傾き始めた。
好き放題搾取した材料での、俄作りでは然もあろう。
おまけに、ペロンが温泉を噴き出させた穴の真上に建っている。
このまま地底深く吸い込まれて当然の建物だ。
どうれ陥落まで何日もつか。
眺めていると、敷地がそっくり沈んで一階部分が見えなくなった。
下から再び温泉が噴き出し、家がそっくり湯壺につかって抜けられない。
沈んで温泉の中にあるのだから、洪水というよりは入湯とすべきで、有朋以下数名の組員は、一階になった二階の窓から下を見て身動き取れないでいる。
敷地は随分と広いから、すぐさまこちらに被害が拡大するとは思えない。
しかし、隣りの二階が一階になる災害を目の当たりにしては落ち着いていられない。
病室と名のついている部屋は大抵個人の寝室になっていて、患者が入院する事のない診療所だ。
空いている部屋も物置になっている。
閉めきっているから、今ではどこに何をしまってあるかも分からない。
緊急時に持ち出すのは自分の命だけで十分だ。
常々思っているから「大変だー」中の連中に告げると、一人用の避難カプセルに閉じこもって数分じっとしていた。
こうしていると、外の状況がまったく分からない。
心配になってきた。
カプセルの小窓から、沈む事務所の様子をうかがう。
自分の部屋に置いてあるから、部屋の外は観察できなかった。
世界中の人間が絶滅しても、自分だけは助かろうという非人情な旅にはうってつけ。
窮屈なカプセルでは、放屁もままならない。
このまま入ったきりでいたならば、あと一時間もしない
で俺の腹部は、腸内異常発酵によって生成された窒素・水素・二酸化炭素・酸素・メタン・硫化水素・酪酸・アンモニア・インドール・スカトールで巨大に膨れ上がり、あげくのはてに自前のガス中毒死が待っている。
避難カプセルが棺桶となって、間違って生き残った人類に埋葬されてしまうかもしれない。
閉所の恐怖と戦う事五分三十二秒。
耐えきれずに外に出て見ると、たいした騒ぎにもなっていない。
時計の針は十二時近くを指していて、キリちゃんがせっせと飯の支度をしている。
驚きと不安と恐怖の連続で時間を忘れていたが、いささか空腹感が胃腸と連動して、腹腔内で抗議デモを始めている。
プラカードを持っているかどうかは確認できないが、臍の辺りでググーッ。
大きな声で「飯食わせろー」が始まった。




