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雲枕  作者: 葱と落花生
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36 鬼の子・妖怪ヘコ出現

 一時間ばかり一緒になって騒いでいたろうか、気楽になると一気に疲れが出たのか無暗やたらと眠い。

 部屋に戻り横になったら、すぐに寝入ってしまった。

 どれだけ寝たのか分からないが、気付けば大きな河岸に立っていた。

 そこへドンブラコゝと人間が流れてくる。

 ひょっとしたらまだ生きているかもしれない、救助してやろうと思って、長いロープの先に付いた浮き輪を持ちドザエモンらしき奴を追い掛けて行く。

 うつ伏せになってはいるが、見たところ流されているのはうら若き乙女と確信している自分がいやらしくも微笑ましい。

 助けた時の御礼はきっとヌフフフフーと妄想しながら、「オーイ! 死んだふりしてるんじゃない」

 こう叫んだところで眼が醒めた。

 口元からはヨダレが垂れている。

 股間に恥ずかしいシミなんかあったりすると……それはないか、切り取ってしまったから出る物がない。

 若かった頃はそれなりに何が何だったものだが、今となっては何は……おおっ! 何だが随分と若作りになっている。

 痛い程だが、これまで夢となると御気の毒な現象だ。

 短い余生を面白おかしく生きるには、ここでこいつにも自尊心を持ってもらいたい。

 もう少し過激な夢を見直す必要に迫られ寝返りを打つと、気のせいかいつの間にか部屋でテレビを見ている変人がいる。


「やあ、久しぶりだね」

 夢なのか空耳なのか、この世の物とは思えない。

 あるいは地獄が部屋まで出張して来たか。

 天地を揺るがす悪声が、俺の自律神経を逆なでする。

 確かに誰かが部屋にいる。

 小さくとも不作法な発声は、温泉でゆったりのんびり眠らんとするのが大罪であり、罰として不眠の刑に処されている風で不愉快甚だしい。

「久しぶりだねって言ってるんだよ。返事は?」

 不思議な事にこの話し方には、いとわしいのに懐かしさを感じる。

 何と言っているのか「はあっ」としり上がりに聞き返すと、枕元に座り直した誰かが「久しぶりだねと言っているんだ。耳だけじゃなくて頭も遠くなったか」

 何度も繰り返す「久しぶり」からするに、以前どこかで会ったか知り合いか。

 すると、始めはゴミ溜めが発酵する音に聞こえた声も、ノスタルジックな音色に変わってくる。

 病院を渡り歩いていた時期、いつも一緒になって飲み歩いていた眺望医院の管理人だ。

 ヘコ・キタ・ロウと名乗り、自分は鬼の子だと言い張っている。

 不思議な男だが、自分を鬼と言うだけの事はある。

 あの頃と見掛けがまったく変わっていない。


 こいつは性格ばかりか生態までもが突然変異で、登場する頃合いをわきまえていない。

 何時何処で出会うか予測できない。

 一度年齢を聞いたが俺よりずっと上で、とっくに死んじまったと思っていた。

 とっても不本意だ。

 それより、記憶にある容姿からすると、何十年も若返ったように見えるからいまいましい。うらやましい。

「なにしに来た」起き抜けで機嫌悪く聞いてやる。

「なにしに来たと来るかね。失礼な性格だけは昔のままだな。ここは僕のホームグランドだよ、変わった事があれば嫌でも耳に入ってくるのさ」

 今までは横になって聞いていたが、ヘコが話しながらテレビへ向き直るから俺も一緒に起き上がった。

「やっちゃんを見に来たなら出かけていないよ」

「行方不明になった医者の後釜に入る馬鹿野郎なら、ついさっき僕の所へ挨拶に来たよ」

「確かに要領の悪い男だが、俺の弟子みたいな奴だ。あまり虐めないでくれよな」

 こいつは何年か前に、ヤクザの組一つ一人で潰している。

 こんな奴に手加減なしで可愛がられたら、いくらやっちゃんでも長生きできない。

「大丈夫さ、僕は暴力は嫌いだ。施設について少しばかり確認しておきたいところがあってね、ロビーで待っていたけど、若い衆がうるさくて。女将にやっちゃんの部屋へ案内されたけど、あの様子じゃ当分帰って来ないね。きっと海岸で理事長とヘコヘコしているのだよ。だーよ」

「理事長なんてのがいたのか、知らなかったなー」

「君は知らないさ。去年のドタバタを沈めたくて組長の孫娘になってもらったんだ」


 地回りの組長ともなればそれなりの顔だから、ヤクザ者を鎮めるのに飾っておくのなら分かるが、いくら子供や孫だと言っても堅気で、素人に通じるとは思えない。

「いくら組長の孫でも、病院の医者には通じないだろ」

「その点は心配にはおよばないよ。彼女は弁護士でもあるからね。それなりの人材って事さ。それより宴会場で見かけたんだが、朱莉ちゃんは君の娘かい。随分と賢いようだけど、鳶が鷹を産んだってやつかね、母親はどうした」

 娘だ母親だと聞かれても心当たりがない。

「朱莉って、何処の朱莉」

「朱莉って言ってるんだから、誰じゃなくて朱莉ちゃんだよ。皆が朱莉ちゃんて呼んでいる娘さ」

「ああ、あの娘は看護師さんの娘だ。俺とは関係ないよ」

「そうか、なら直接話した方がよさそうだな」

 こう言うと窓から海岸をちょいと見て「二人が帰ってきたー」階段を駆け下りて行った。

 奴は昔から動きが子供並に元気だった。

 既に老人と評される年齢に達している。

 軽やかさが羨ましいかぎりだ。


 帰ってきたやっちゃんを女将が引き留めている間に、ヘコは亡き若旦那の部屋に控える。

 やっちゃんにはすでに部屋まで割り当てられていて、転任後はここを宿舎にすると決められていた。

 若旦那が殺される事件があって、空き部屋になったままだった。

 野生的六感は働いても、霊感も信心もない奴にはうってつけの部屋だ。

 この先の展開が気になったので柱の陰から覗いていると、組の若衆が次々酒を持って挨拶に入っていく。

 ダラダラ呑んでいたのでは、そのうちに酔って寝てしまう。

 覗いていても面白くない。


 部屋に帰って横になり、起きたらすっかり朝になっていた。 

 やっちゃんは宿の一室を宛がわれすっかり閑念したか、昨日の晩はこの部屋に帰っていない様子。

 少ない旅支度の荷がそのままになっている。

 朝風呂に入り、遅くなって食事処に行くと、山城組の連中がウロチョロしている。

 昨日遅くになってから宴会に参加したとかで、朝飯を済ませてこれからの帰り仕度。

 車に土産を積み込んでいる。

「今日の宴会が始まってますけど、おとうさんはどうしますー。診療所の方は、ウオッセへお買い物に行きましたけど、帰って来ても起きてなかったら置いていくって言ってましたですー」

 たまたま里帰りしていたとかで、膳を運んで来た亜樹絵が残るか帰るかの重大な決断を迫る。

 ここへヘコがやってきて、まるで宿泊客のように振る舞っている。


「僕にも朝飯頼むよ。卵は目玉焼きにしてくれるかな。二つね。カリカリベーコンも付けてね」

「ヘコさんは御客さんじゃないですー。朝ごはんのつけが貯まってますー。払ってくださいですー」

「あー、それなら今日の宴会の代金でチャラにしてもらったからいいんだ。女将に聞くといい」

 亜樹絵は素直に育った者で、それを聞くなり「納得ですー」直ぐに朝餉の膳を運んでくれる。

 そこへ女将が、ぐっすり寝ているアインを抱えてやってきた。

「先生、この猫はんどうするんどすか? 診療所の周りは随分と物騒な事になっとるらしいではおまへんか。よろしかったら、家でやっちゃん先生の猫と言う事にして預かってもええどすよ」

 すると女将の言葉にヘコが付足す。

「うん、それがいい。僕の所は病院だから猫は飼えないけど、この猫は賢そうだから客に迷惑をかけたりしないだろう。うんうん、それがいい」

 やけに乗り気でアインの世話をしたがる。

 猫を使って悪さもないだろうが、いきなり置き去りにするのも可哀想な気がする。

 どうしようか考えていると、診療所の連中が帰ってきた。


「帰っても病院占拠事件でバタバタしていて、ろくに面倒見てやれない状態ですから、暫くここで預かってもらって、落ち着いたら引取りに来る事にしておいた方がこの子の為になるの」

 朱莉ちゃんが珍しくしっかりはっきり意見を述べる。

 それもそうだねと場にいた全員が納得して、アインとやっちゃんは宿に置いて行く事になった。

 丁度いい具合に、転任先の病院関係者が次々歓迎会場に入っていく。

 それと入れ替わるようにして、昨日の宴会に来ていた連中が帰りの挨拶をする。

 やっちゃんが宴席を外して見送りに出てくる。

 会場に戻った頃を見計らい、さっさと荷物を車に積み込み、タイヤを鳴らしてあおい君が発進させる。

「これでも昔はブイブイ言わせてたの」

 自慢げにしているが、宿はもう見えなくなっている。

 危険な運転は止めてほしい。

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