3 十五で死んで十五で生きて 三
間抜けと言えば、俺の呼び名は御幼少の頃からずっとマヌケだ。
実に失敬な呼び名ではあるが、否定できない事実の裏付けがあっての事だから無下にできない。
姓を【山武】名を【士】合せて【山武士】これで【やぶあきら】と読む。
まが抜けているからマヌケってな具合だ。
幼馴染の悪ガキに命名されて以来、ずっとマヌケで通されてきた。
そんな呼び方をされる事もなくなって久しい。
嫌だったマヌケも、今は懐かしく思える。
みんなどうしてるかなー、同窓会でもやろうかなー。
癌の告知をされてから、どうも気弱になっていけない。
煙草は十年前にやめている。
刺激物は嫌いだから食わないし、熱い物は猫舌で食えない。
酒だって、一日一升も飲めばたくさんだ。
なのに、何で俺が癌にならなきゃならんのか、まったくついてない。
前立腺癌の早期発見だったから、閑念して切っちまえば済むと思っていたが、悪い事は絶え間なくやって来るもので、術後の経過がかんばしくない。
腫瘍マーカーの数値が、ここ半年鰻登りだ。
次の検査もこの勢いで上がり続けたら、馬のケツに打つような太い注射針を、腹の脂身に打ち込むホルモン治療を受けなければならない。
これが飛び切り痛いんだよ。
一番痛いのは腹より懐で、国保を使っても一本二万円の注射は高すぎる。
命のおしい病人の足元を見た悪どい商売だ。
とても同じ人間が売っている薬とは思えない。
癌だからと今すぐあの世へ旅発つでもなさそうで、死の恐怖に顔をひきつらせながら生き続けているのではない。
差し迫った問題は高脂血症という症状で、とりあえず薬を飲んで抑えてはいるが、このまま順調に悪化すれば動脈がつまるか切れるのは確実だ。
脳内動脈に暴れられると厄介なことになる。
それでも、一年中アイスクリームは食前食後食間と口寂しい時に欠かせない。
冷菓の魅力は、希少な美魔女か人魚の誘惑に匹敵するほど強力だ。
アイスクリームを発明した奴は、きっと悪魔と取引してレシピを手に入れたに違いない。
一般的な疫病神なら、大抵はこの程度で勘弁してくれるのに、俺に憑りついたのは甘やかされて育った幼稚園児並に我がままな奴で、癌だけでなく潰瘍性大腸炎も併発させてくれている。
潰瘍性大腸炎で、食道から直腸までそっくり溶けて大量下血した時は、失血死しそうになった。
入院してはみたものの、水と麦茶以外は口にできなくて飢え死にするほどの勢いで痩せた。
食えないとなると、入院生活で一番気になるのが看護師で、病室に入ってきて担当ですと言われた時は、大外れだー、婆ぁだーと落胆したものだ。
それが、がっかりなんてのは一ヶ月もすればすっかり忘れて、愛しの彼女にまで美女度が上がる。
詰まる所、誰でも良いから状態が続く。
ところが相手の看護師は、外界を毎日行ったり来たりしている。
土下座して拝み込んでも、期待している事などしてくれない。
元気が残っている病人は其れなりに何とかすれば済む問題も、元気のない病人にとって夜の病院は限りなく危険な異次元空間へと変貌する。
無念のままに他界した怨念が住み着く深夜の病院にあって、好き放題昼寝をかましてしまった自分が悪い。
悪行の結果とは言え、夜中に一人起きているのは恐ろしいものだ。
幽霊は死んでいるのに動き回って消えたり現れたりと、自然界の掟をことごとく破っても平然としていられる奴等だ。
こちらがいくら紳士的に話し合いの場を提供しても、すんなり和解交渉に応じてくれるとは思えない。
ショータイムの始まりだ。
安全圏を誇示するチカゝ点滅目障りこの上ない蛍光灯に魅かれ、真夏の昆虫がごとくナースセンターへと救いを求めに行く。
早くLEDに変えろ、不経済だ。
「どうしました」
なんという優しい声なんだ。
誰にでも言うんだろう、この淫売が!
心の叫びと裏腹に、安堵の表情を浮かべて疲れた体が目の前の椅子に崩れ落ちる。
看護師の隣には、いるはずのない患者の姿が切れかけた蛍光灯の光とコラボして見え隠れする。
無言のまま幽霊を指さしてみる。
「この人? さっき彼の世から来たばかりなのね。明日からここで看護師として働いてもらうわ」
長く病院に巣食っていると、思いもしなかった答えに遭遇するもの。
とても真面な看護師とは思えない、この上なく困った展開だ。
しかしながら、この場から立ち去って病室の暗がりに吸い込まれたならば、もっと悪質で恐怖に満ちた冗談が待っているのは火を見るより明らか。
幽霊の看護師と雑談していた方がいい。
昨夜は見目麗しかった看護師を、本来あるべき並以下の婆ぁに戻してくれる朝陽は、チカチカ点滅する蛍光灯の鬱陶しさを忘れさせてくれる。
こんな四の五のがあって、生きて病院から出たのは半年後だった。
二つの危なっかしい病気を抱えていたら、衰弱して激ヤセして行くものだが、退院して胃腸は健康な状態に回復した。
リバウンドが半端ではない。
絶好調の消化器ががんばってくれているので、今は担当医も驚きのメタボリックシンドロームになっている。
食欲の旺盛さに「潰瘍性大腸炎が治ったかも」
暫く受診しないでいたら、特定疾患の更新期日が過ぎていた。
これで一錠九十円という狂気じみた価格の薬を、一回三錠一日三回合計九錠。
一日八百十円で一ヶ月だと二万四千三百円、一年で二十九万の出費だよ。
おさきまっくらだろー!
こんな実話をまったり語っていたら、担当医師が丁度良いのがいるからと紹介してくれた奴がいる。
城嶋とか言うやたらと明るい性格の男で「あるある、それってよくありますよー。僕も一度入院していた時にー、いきなり白虎に行き会ってー、食ってやるー勘弁してよーって随分やりました」
聞いてもいないのに、いかれた意見をのべまくってくれる。
だいぶ後になって知った事だがこの男、どんな重症患者もたちどころに治してしまうと評判の精神科医だった。
この事実から導き出される結論は一つで、どこまで行っても他の医師と意見が合わないのが俺の医学になっている。
出血多量で輸血したが、それでも足りずに鉄材まで点滴していた。
俺が入院中に見ていたのは、血液不足が引き寄せた幻覚と診断されるべき症状だ。
それを、精神疾患のせいにしやがった。
貧血で眩暈が出たと言った時には、副作用に眩暈の出る眩暈止めを出された。
そんな物を飲ませる前に貧血を治せよ。
耳鼻科医に言わせれば、随分と前からメニエール症を患っていたらしいと説明しやがる。
かなり疑わしい診断でも、一度確定したらセカンドオピニオンなんてのは何の役にもたたない。
どいつもこいつも、右へ倣えしかできない医者ばかりだ。