18 ブランコ婆ぁと釣竿婆ぁ
婆ぁの記憶が薄れるのに反比例して、頭の上にチョロチョロしている陽炎の姿がはっきり見えるようになってきた。
良い傾向ではないが、互いに会話を楽しめるようになったらば、猫との三者対談も可能になるのではないかといった考えが浮かんで来る。
必要とあらば、忘れてしまった過去や医学知識を、的確に教えてくれる。
ありがたい現象の一つだ。
姿は妖精だったり小悪魔だったり。
変化するものの、いつも同じ相手と感じる。
今はフェアリーだから次はピクシーかと、密に楽しんでいる自分が、危ない方向に向っているのは分かっている。
そこで、危ない方には向いていないと思い込む為、こいつにパックという名前をつけてやった。
変身上手で悪戯好きだからだ。
パックは「お告げー」と言いながら現れるのが仕事らしい。
予言のつもりだろうが、未だもってこの御告げが的中した事は一度もないと白状した。
聞いてみると、こいつの予言はノストラダムスのように難解で、どうにでも取れる四行詩だ。
当たったのか外れたのかの判定は、不可能とも思える。
事故に遭ってからというもの、夜になると時折お出ましになってはならない物体が漂って見えたりしていた。
どうせまたそのうち消えるだろう。
放置すると決めた。
このことを他人に話すと、どこぞの好ましからざる施設に強制収容されてしまうので、ダンマリを決めるのが一番だ。
医師として分析するに、頭の中に存在する婆ぁの顔はもうすぐ消えてくれそうだ。
したがって、婆ぁから天狗岩と吹き込まれたのは幻聴で、実際にはあれ岩と呼ばれているのだと決めた。
確認の為に岩の下を監察すれば、隣にある鮑貝の身の部分に酷似した岩との間に、ぶっといしめ縄が張られている。
二つ合わせて夫婦岩と言うに決まっている。それがベタだ。
さらにあれ岩の下を見ていくと、一番下には丸い岩が二つ並んでくっ付いている。
玉岩とでもしておくべきか、そこへ波がザブンとかかるから、砕け散ったのは何かの毛そのものだ。
さて、パックはどうなったか。
車内を見渡せば、アインと仲良くゴロゴロじゃれあっている。
こいつは、暫く俺の前から消えてくれそうにない。
今日の所は諦めて、明日からの旅に備えよう。
夏も終わりの頃、家出した時はまだ海水浴が出来る暑さだった。
暫くは涼しい所を廻っていたので、あまり暑いと感じなかったせいもあって、季節の移り変わりなど気にしていなかった。
この頃、幾分涼しくうら寂しい季節になってきた。
このまま北に向かったのでは、北海道に行って帰っての途中で雪が降りだす。
千葉の温暖地仕様ロクちゃんには、かなり無理な旅となる。
しかしながら、ここから素直に来たままユーターンというのも芸がない。
そろそろ山では紅葉が始まったらしい。
これからは、紅葉狩りツアーで山間部を見て回ってから、南に進路を変えるとしよう。
「自然だなー」
アインに声をかけて同意を求めると、考えることは猫も人間もたいして変わらない。
すぐに了解したようだ。
「ニャー」
いつもより機嫌のいい声が返ってくる。
辺りの景色が海から離れ、まだ紅葉していない山道に入る。
運転していても、なんだか眠くなってくる。
猫は手持無沙汰に、ベットで横になっているのがバックミラーに映っている。
「おーい、暇そうだな」と訊ねた。
「はーい、超暇してまっせー。おっさん、旨い飯屋探して昼にしませんかー」
そろそろ腹が減って来ても良い頃だが、猫が話すんじゃない。
どういった奇跡で猫が話している。
チョイと路肩に車を停め、後ろに回ってアインのようすを見る。
チラチラする広葉樹からの木漏れ陽。
光りの動き目掛け、猛アタックをかましている。
いつ見ても猫がお馬鹿で滑稽な仕草だが、こちらに話し掛ける風ではない。
「誰だよ!」
見回せば、まだ消えずにふわふわしていた奴が、上から頭をツンツンする。パックかよ。
「腹が減ったから旨い物を食わせろ」
頭の中の居候のくせに、一人前に腹減らしとはタマゲタ。
どうせ一心同体だ。
俺自身も空きっ腹であるには違いない。
再びロクちゃんを走らせ、良さそうな飯屋を探す。
こんな時、自動運転だったらいいのにと思う。
暫く走ると、峠の茶屋という時代錯誤の店を発見した。
広い駐車場には一台の客もなく、無遠慮にでかいロクちゃんを停めても良さそうな寂れ方だ。
とかく汚いのに長くやっていられる食い物屋には、旨くて安い飯が置いてあるものだ。
中へ入れば、外見から期待していたそのまま、土間の真ん中に設えた囲炉裏には、寒くもないのに火が熾されている。
家人はどこかと厨房らしき方に目をやると、ドキッとするほどブランコ婆ぁに背格好の似た婆さんが、御茶を持って迫りくる。
来るんじゃない、せっかく忘れていた忌まわしい過去を思い出すだろ。
「婆さん、元気そうだね」
ひょっとしてもしなくても、同一人物だと困るので恐るゝ訊ねた。
「はい、御蔭さまでー。ビールを二ケースばかり、うちの者に積ませますから、後で声かけてやってください。ゴニョ」
そう言い終わると婆さんは、いきなり釣竿をさしだす。
実際は何と言ったか分からない。
本当にブランコ婆ぁなのかも分からない。
今度は釣竿婆ぁになったのか、これで何を釣ればいい。
道路から奥まった店の先に広がる山河を見れば、この辺はまだ山に入ったばかりの所だ。
全く色づいていないはずなのに、ここだけが絵に描いたような秋景色。
過激に紅葉している。
ペンキでも吹きかけたか。
渓流には鱒だか鮎だか山女魚なのか鮭かなのか、私を食べてとばかり、わんさか裸で川遊びをしている。
一匹二匹なら獲って食う気にもなるが、あそこまで大量に泳いでいられると気持ちが悪い。
それに、釣るより網の方が早そうだ。
「飯のネタを取って来いってことなら、網貸してくれないかなー」
画期的な漁法を提案してみる。
「網は漁協で禁止されてるの。ゴニョ」
本当にブランコ婆ぁじゃないのか。
何でビールを二ケース積む気になっている。
谷の下まで気が遠くなるような階段を下りて、いざ釣ろうとしたら竿の先には針がついていない。
婆ぁの嫌がらせとしか思えない。
今からもう一度あの階段を上って下りて、釣った魚を持って上がるとなると命がいくつあっても足りない。
御免被りたい。
手頃な岩を持ち上げて、河の真ん中にある大岩に思いっきり叩きつけてやる。
すると、下に隠れていた奴がㇷ゚カーと浮いてくる。
流された浅瀬で、手づかみして魚籠に入れる。
そんな俺の努力を、アインが茶店の縁台で伸びて大あくびしながら見下ろしている。
やっとの思いで茶店に戻ると、猫はたらふく食ってグッタリ日向で寝腐っている。
「何で魚釣りなんかさせたの?」
怒る気にもなれない。力なく婆さんに聞いてみる。
「おんや、釣りにきたんでないの。ここに来るのは釣りの御客さんばかりなもんでねーえー。ゴニョ」
どんな育て方をしたら、ここまでひねくれるのかビビるほど巨大な松の樹に、半分隠れている看板を指している。
「何て書いてあるの?」
「釣り堀。峠の茶屋。御食事できます。ゴニョ」
釣り堀の所が、松の樹でまったく見えなくなっている。
そんなのを抜きにしても、釣り堀に峠の茶屋はなかろう。
不味い飯代と獲った魚の代金まで払わされた。
こうなってくると、人様からどう思われようと気にしなくなれるものだ。
言ったか言わなかったか定かではないが、疑問だったことを聞いてみた。
「ビール二ケースってなんだか」
「ねえちゃんから言われてたんだ。ゴニョ」
ねえちゃんがいるのか、だったらこいつはあのブランコ婆ぁの妹か、しかし似ている。
心の内にしまっておこうとした疑問に「三つ子だ。ゴニョ」と返ってくる。
読心術でも会得しているのかこの婆ぁ、なんだかとっても嫌な予感がする。
これからロクちゃんで峠越えをしたなら、途中で薄暗くなってくる。
そうでなくとも、この展開からすれば一天にわかに掻き曇り、辺りは昼間と思えぬ漆黒の闇に包まれてとか何とかいっちゃうのが御決りだ。
どこを通っても悍ましい婆ぁ三号に出遭ってしまいそうだ。
姉妹の一人はどこに潜んでいる。
くたばって幽霊となりふらついているか、それとも大人しく埋まっているのか。
埋まっていたにしても、化け出ないよう重石として乗せた墓石に、無理矢理ロクちゃんが突っ込んで、骸骨がケラケラ笑って這い出てきそうな演出だ。
何とかここ以外にロクちゃんを停められる所を探して、さっさと酔っ払って寝た方が安全だと判断した。
「この辺に車停められる所ある? 病院とか病院とか病院なんか」
できるだけ候補を挙げて聞いてみた。
「病院はあるがのー。ここらは三つ四つ山を越えて行かねば平らな所がないんで、駐車場も狭いわ。ここの他にあんたの車を停めるなら、三キロばかり登った所に田中屋ちゅう温泉宿がありますわ。ゴニョ」
話しっぷりからして、ここは二山先まで殆ど人が住んでいなくて、宿を過ぎたら車を停めるどころか狸にしか出会えない地域らしい。
ならば尚更、宿まで行っても駐車場が満杯では今より生き延びるのが難しい。
三キロ離れているとはいえ、他に住んでいる人も家もないならお隣さんだ、満更知らない仲でもないだろうから、問い合わせてもらったら一部屋開いていた。
特別室も空いているのだが、年間契約されていて紹介がなければ使えない。
その部屋を、今なら頼めば使えなくもないとも言われたが、どうせ紹介があっても馬鹿高くて無駄に広いばかりの部屋だ。
俺とは趣味が合わないに決まっている。